反論1-2 「2000年段階で敵味方の状況をビシッと…」他について まっぺん

自分を「至言」だの「画期的」だのと自画自賛するのは自由だが、自分を客観的に観る事ができない者ほど、そういう強がりを言うものである。戸田さんはどうか。以下、検討してみよう。なお、「『戸田の至言』にこれも追加しときましょう」も内容的に連続するのでここでまとめる。

●戸田さんの「至言」中に見る「アホウ・卑劣屋」の三つのタイプ

 様々な投稿者の中で中身のない一方的な罵倒や差別的言辞をろうして書き込んでくるような投稿者は「荒らし」と認定して削除するのは当然である。こういう連中はただの無内容な荒らし書き込みを続け、真面目な投稿者の感情を逆撫でし、彼らをもまたその挑発に乗せ、「荒らしの共犯」に引きずり込むのである。だからこういう輩は、無条件で削除するに限る。そんな投稿は、我が掲示板でもいちいち反論もせず黙って削除する。しかし、それは何も、戸田さんの規定する「ファシストかぶれや差別自由主義者」とは限らない。こういう連中がそんな明確な思想を持っているとは限らないし、そんな思想をもっているかどうかには関係ないのである。これは単なる「荒らし」に対する「管理人として」の当然の行為なのである。こうした荒らしを(A)のタイプとしておこう。

 戸田さんは自分が公表したこれまでの文章を抜粋して「1」から「15」、更に追加として「16」から「24」まで番号を付けて「至言」と称している。そのうち「1」から「3」までででは、「この手の」ファシストかぶれや差別自由主義者に対して良心的市民は闘おうと呼びかけ、またそれは市民派・良心派市会議員の役割であると説く。私もそれには全く同感である。ところが、その舌の根も乾かぬうちに「4」で、その差別自由主義者を「アホウども」と規定する。おいおい、戸田さん。「アホウ」は差別的感情がこもっている言葉じゃないの? まぁ、関西でよく使う「アホ」は日常的な言葉らしいので、ここでは目をつぶるとしよう。
 「4」ではその「アホウ」の正体をさらに詳しく「分析」し、「サンケイや週刊新潮・ゴー宣を鵜呑み」にしており、人権派・市民派に対して「文句付けだけしている小市民的な弱々しい」連中だと思いこみ「いい気になって攻撃してくる」と規定する。こうした人々には、罵倒スタイルであろうが真摯な態度であろうが、程度の差はあれ「思想に基づく主張」がある。こうした投稿者を(B)のタイプとしておこう。

 ところが、「5」の段階から対象は替わってくる。「5」は何をいいたいのか分かりにくい文章だが、「自分だけ安全地帯に」いる人を批判し、現場で闘っている人を賞賛しているようである。「6」以降、その傾向は顕著になり、「ストーカー的な書き込みオタク」(これは私の分類した(A)タイプにあたるだろう)、「親のすねかじり」「根性なしサラリーマン」「上司のいいなりにヘコヘコして奴隷残業」「闘う勇気もないくせにパソコンに向かった時だけ夜郎自大」、「7」では「自立した生活もせず」「パソコンに向かった時だけ夜郎自大」、「8」では「自分は絶対安全圏に身を隠しながら他人攻撃を図ろうとする卑怯者」、「9」では「闘おうとも思っていない連中が能書きばかりを発達させている」、「10」では「生活現場においてコンジョなしのくせにパソコン世界でだけ戦士」、「パソコン世界では戦士ぶるくせに現実生活に於いて闘わない」…。いちいち引用するたびに虫ずが走るが、戸田さんが対象としたこれらの投稿者には、すでに指摘した(A)のタイプの他、新しいタイプが指摘されている。つまり「現実世界では闘わず、あるいは生活能力がなく、パソコン上でだけ闘っている」投稿者である。これを(C)のタイプとしておこう。

 さて、戸田さんの以上の「至言」からは、三つのタイプが抽出されたと思う。
(A)のタイプは単なる荒らしである。無内容で、無意味な投稿をストーカー的に反復してくる。
(B)のタイプは、はっきりと「思想」を持っている連中である。戸田さんは「ファシストかぶれ・差別自由主義者」と規定するが、そんな単純なものではない。思想的にはさまざまなレベルがあり、一様には言えない。彼らは彼らの思想と理論をもって議論をいどんでくる。
(C)は「現実生活」と「パソコン世界」とが切り離され、「パソコン世界でだけ闘っている」とされる。また現実生活においては「親のすねかじり」であったり「コンジョナシのサラリーマン」だったりするそうである。

●言論には言論で対抗しなければならない

 (A)のタイプに対する対応はすでに書いたとおりである。だれでも分かるほどのただの荒らしは黙ってサクサク消してしまえばよい。それについて掲示板の読者のだれも文句は言わないであろうし、戸田さんの「24」の提言はその通りである。削除されるのがいやなら自分で掲示板を立てればいいだけのことである。ところが(B)のタイプについてはそうはいかない。世の中はそう単純ではない。様々な思想が存在し、それによって政治的にも様々な立場があるからである。「我々だけが正しい」というのは「我々だけのリクツ」であって、それは現実世界ではまだ実証されていない。だからこそ、ネット上では、対等に議論できる環境をフルに利用して、我々の正しさについての確信を「言論」によって示さなくてはならないのである。
 同じ事が相手に対しても言える。自分の考えをきちんと持って書き込んでくる人は、例え我々と思想が正反対であっても、己の思想に確信を持って論戦を挑んでくるのである。だから、ネットにおいてそうした人たちとの論戦が始まった場合、市民派の立場に立って徹底的に受けて立ち、論戦を闘い、相手を「言論によってうち負かす」のでなければならない。

 そのような議論は、そこらのストーカーの書きなぐりと違って内容的にも高度になり、また客観的に見ても面白い。だからそうした議論が始まれば、アクセス数は自然に増大するのである。私もそうした経験は何度もある。戸田さんの掲示板のアクセス数が一日1500にも増大した時、それは戸田さんにとってチャンスであった。目には見えないが、戸田さんの前にたくさんの大衆がやってきて、その論戦の行方を見守っていたからである。だからそれは大衆的演説会に等しい。戸田さんがいったいどんな説得力のある演説で相手を論破してくれるのか。いったいどんな見事な「掲示板裁き」を見せてくれるのか。だから「一論客」の立場から言論には言論で答え、一方、誰が見ても荒らしと分かるようなものは「管理人」の立場にたって削除する、という両方の立場を区別した行動が絶対に必要だったのである。

 戸田さんはそうしただろうか? そうではなかった。戸田さんはそのかわりに論敵に対して「大まかな年代、社会体験、業種や身分、そのような考えに至った経緯」などを要求したり、あるいは電話やファックスでの対話を要求したり。ようするに相手をとことん議論で追いつめるのではなく、途中から自分勝手な条件を相手に要求して、それに答えなければ「コンジョナシ」のレッテルを貼って放逐する。そういう事をやったのである。
 これは論争における勝利ではなく「論敵の抹殺」である。スターリンがトロツキーを抹殺したのと同じ方法である。だがトロツキーは殺されても彼の思想は生き残り、世界の反資本主義運動の中に拡がった。同じように、戸田さんが自分のせまいせまい掲示板のカラの中から論敵を排除しても、それは外の世界の広い広いインターネットの海の中で生き続ける。それどころか「戸田さんは勝てないので排除した」という「戦績」をともなって彼らに増殖の口実を与えてしまうのである。

 インターネットが広い世界であることを戸田さんは理解できない。自分の板から排除しただけで「問題は解決した」と思い込んでいる。しかし戸田さんが「外部へ捨てたゴミ」は、戸田さんのおかげでますます外部で増殖していくのである。だからこそ、戸田さんは「自分の掲示板において」こうした連中の主張の正体を暴露し、論戦によって徹底的に叩き潰してやらねばならなかったのである。相手の身元を探って脅しをかけに行くなどというトンチンカンな所業は一見勇ましく聞こえるが、論争からの逃亡にすぎず、百害あって一理もない。
 戸田さんは「論戦における勝利を通じて、中立な人たちを我が方に引き寄せる」という決定的なチャンスを、自分の手でぶち壊したのである。戸田さんのやり方を見て、1500のギャラリーは失望した事であろう。当然それは「論戦に勝てなかったから管理人独裁を執行したのだ」と受け取られた事であろう。中立な立場から観戦している人たちの目にはそう映ったことだろう。それは嘲笑にかわったのではあるまいか。二次会における戸田さんの書き込みのパターンを見てもそれはわかる。

●闘わない者には発言権はないのか?

 戸田さんのこういう対応の奥には「差別意識」が潜んでいる。結局、戸田さんは相手を「思想」によって区別しているのである。「敵には人権はない」と思っているのである。右翼ファシストは徹底的に敵対者である。しかし人権派は「かれらの人権」も守ってこそ真に「人権派」と言えるのである。これは絶対に忘れてはならない。もちろん守るのは彼らの「人権」であって、彼らの敵対的精神や行動に対しては徹底的に闘わねばならないのは言うまでもない。そしてネット上で対等に闘って勝利するためにも、議論にあたっての「彼らの人権の尊重」は必要なのである。以下にその理由を述べていこう。

 戸田さんの人権意識の低さ、差別意識のひどさは、三つに分類した最後の(C)のタイプへの言及によって更に明らかになる。もう一度引用しておこう…「親のすねかじり」「根性なしサラリーマン」「上司のいいなりにヘコヘコして奴隷残業」「闘う勇気もないくせにパソコンに向かった時だけ夜郎自大」「自立した生活もせず」「自分は絶対安全圏に身を隠しながら他人攻撃を図ろうとする卑怯者」「闘おうとも思っていない連中が能書きばかりを発達させている」「生活現場においてコンジョなしのくせにパソコン世界でだけ戦士」「パソコン世界では戦士ぶるくせに現実生活に於いて闘わない」……いやはや呆れたものだ。開いた口がふさがらない。これが「左翼人権派議員」の口から出た言葉だとは。
 私の「四トロ」掲示板では「罵倒」は禁止ではない。議論が激しくなればそんな言葉は自然と出るものだ。しかし、左翼なら気を付けなくてはならない事がある。罵倒には相手を見くだす意識がともなうものであり、時としてそれが差別意識に結び付くからだ。

 戸田さんの罵倒を検証してみよう。そこには主にふたつの見くだし方がある。ひとつは「闘わないくせにパソコン上でだけ闘っている」という主張である。わたしはこんな事を言われたら返す言葉がない。現実生活において「ゼロ」とは言わないが、ほとんど闘いの現場にはいないからだ。ほんの少しばかり戸田さんに協力しているだけだ。だから生活をかけて闘っている人々には本当に尊敬の気持ちを抱いている。しかし、自分は闘っているからといって、「闘わない者を侮辱する権利がある」というのか。それは傲慢ではないか。
 誰もが闘いに立てる環境にいるわけではないのだ。戸田さんが罵倒した「上司のいいなりにヘコヘコして奴隷残業」するサラリーマンが、どんな気持ちで自分の生活を支えているのか。辞表を叩きつけてそんな職場を辞めても、果たして別の職場が見つかるか。過酷なグローバル資本主義のなかで庶民はますます苦しい生活を強いられている。闘いどころではない事情を持つ人々もたくさんいるのである。職場内でも過酷な競争を強いられ、オオカミのくちの中にいるような緊張の中で仕事をしていかねばならない。それでも受け取る報酬はほんのわずか、といったような人たちは私の周囲にもたくさんいる。「現実世界で闘わない」からといって、直ちにそれを罵倒するのは「自分は闘っている」という者の驕慢である。

 「インターネット上の闘い」が大きな影響を興してきた事を我々は目撃してきたではないか。「CA」の予言は、「CA」が発行されたあと、我々の眼前で絶大な威力を伴って的中したではないか。ブッシュのイラク戦争に反対して全世界同時に一千万人規模の反戦運動が起こったが、それはインターネットがもたらしたものだった。また我々も参加した「管制塔元被告連帯基金」もインターネットが出発点となった。この時には驚くほど多くの「今は闘っていない」人たちがネットを通じて闘いに参加してきたのである。「生活現場においてコンジョなしのくせにパソコン世界でだけ戦士」が、総額1億ものカンパを送ってきた事を忘れたのか。戸田さんは、そうした人たちに対して「コンジョナシ」とさげすむのか! コンジョナシにもコンジョナシなりの闘いがある事になぜ戸田さんは気づこうとしないのか?

●論争相手を資本主義の論理で見くだす戸田さん

 もうひとつの見くだし方は「親のすねかじり」「自立した生活をしていない」という主張である。まず、本人が本当にそうなのかどうか、どうやって調査したのかわからないが、相手に対するそういう決めつけは問題である。だがこの言葉は本人に対してよりも、勤め口が見つからず失業状態にある者たち全てに対する侮蔑である事に気づかないのか? 彼らも好きこのんで親のすねをかじっているわけではなかろう。また仮にそうであったとしても、彼らが労働意欲を失った理由は彼ら本人の「自己責任」なのだろうか? 励ましの意味で「自分の責任だ」というならわかるが、我々はこうした「すねかじり」「ニート」「ひきこもり」が今日のいびつな資本主義世界によって生みだされ、増殖している事を知っているはずである。かじるすねがなくなれば「すねかじり」はホームレスとならざるを得ない。戸田さんはホームレスの人々も「コンジョナシ」と見くだすのか? 社会的弱者に対して職場の補償もせずに「自己責任」の口実によって弱者を切り捨てていく資本主義の論理を、戸田さんは受け入れるのか?

 戸田さんのこの差別意識は「12」「19」で頂点に達する。「12」では「ネット住民のタカリ意識」、「19」では「ホントに戸田に自分の持つ異論をぶつけることよりも、戸田のHPで自分の文書が公開されることだけが大事なのである」とまで相手を愚弄する。戸田さんの論理はまるで資本主義者の論理ではないか! 本当に弱者の側に立つつもりがあるのか? 「タカリ」とは何と傲慢な言葉だろうか。「タカラれる」議員様はそんなにエライのか? 何さまのつもりか?! 庶民と同じ目の高さで語り合ってこその人権派議員ではないのか? 不届きな相手を罵倒するのは構わない。しかし、経済的弱者である事への罵倒は絶対に許されることではない。
 なお、この(C)タイプに属する「アホウ・卑劣屋」が戸田さんの脳内では(B)タイプにも重なっているであろうことは、「19」において「『まじめな異論』を装いながら、手紙もメール・FAXも寄こさない卑劣屋達」、「22」において「昨今の卑劣屋の最大の特徴は、一見『理性的市民』を装っている」などと書いている事からも明らかである。つまりあからさまな罵倒を伴っていなくとも、相手の意見が自分に対立するだけで、このようなレッテルを貼るのである。