(5) 宮崎問題について<2> 麻生英人 - 07/2/28(水) 1:47 |
今回の論争の中で、多くの方が、あらためて事件を知り、今後の判断の前提になったという意味では、まっぺんさんの「喧嘩を買った」成果であると思います。少なくとも、私は2冊の関連本と幾つかの断片的な情報を知りました。 私は、語るべき内容に乏しく表現力もないので、的を射た議論にはなっていないような気がします。宮崎学問題について<1>では何を的外れなと思われていることでしょう。もう少し、言ってみます。 私は、宮崎氏に情報提供された当事者による事実経過と問題点整理と今後の対策と今日までの対応が、一つの見解表明で理解できるほど理解力ががよくない。そのため、全体構造が見えないままに、一つの断定は難しい様に思えます。言及しうる事は多々あるでしょうが、当事者判断への介入になるかもしれませんので、ここでは、やはり全体構造はわからないと言っておきます。 また、東京の運動域内における主体的責任を負える立場にない者で、状況がよく見えない者が、立ち入った言及はできない(但し、教訓は引き出せます)。 さらに、前述した2.のスパイ行為と3.の取引論とでは、情報提供という結果は同じであっても、動機も違えば批判される内容も異なると思います。そして、2.のスパイ行為にあっては、(いかに容疑が濃くても)推定される事実と一定の基準で認定される事実とは違うと思いますので、提供されている情報だけでは、判断は保留です(こういう場合には被疑者の権利云々はいらないという声もあるでしょうが)。 もっとも、2.と3.とがはっきり分けられないと判断することの理由は判ります。また、そもそも、2.と3.とは区別の必要なくスパイ行為であると断定する立場があり得ることも理解します。公安権力に情報を売られれば、理由の如何に関わらず、出る被害は同じですから。 但し、取引論は宮崎氏や支援者(戸田さんも)が言っていることなので、この取引論においては、批判すべき点を明らかにしておかなければなりません。宮崎氏が事実経過を克明にかつ理由を明確に述べない限り、また、抽象的な取引論だけを述べるのなら、こう言及せざるを得ません。 基準は何かと問われれば、心もとない状況の様ですが、普通、国家またはその政策と対決し、共に闘う陣営内において、敵と想定されている国家権力、しかも、反体制勢力を取締り、打撃を与えたり利用することが専らの任務である公安権力に、内部情報を売る行為が容認されるはずがない。売られた組織が直接間接に打撃を受けます。組織の壊滅や人の生死に関わる危険性もある。個人の生活が破壊されます。これに見合う「守るべきもの」があるのでしょうか。売らないという信頼を前提に、共に運動に取り組み、交流するのです。 また、闘う者内部の信頼関係を根こそぎするものです。公安権力による情報操作を招きます。敵に味方を売らないというのは、左翼だけではない仁義と思います。現在は、敵が誰で、味方はどこまでかが不鮮明なのかも知れません。ここかしこで、仁義無き闘いがあるものですから。しかし、闘う者の武器は信頼ではないですか。 ここの敷居、倫理基準がはっきりしていないと、この大切なものが取引の材料になる。取引されるのは、闘う組織・個人の存続と権利の破壊であり、さらに、信頼関係である。これに見合う「守るべきもの」とは何でしょうか。答えは簡単明瞭であり、そんなものはない。つまり、取引論は成り立たない(成立を認めることはできないと言うべきです)。この局面での取引論は、レトリックです。取引一般、国家権力(政策担当)との取引一般のイメージ、あるいは裏取引一般のイメージで、事の本質をすり替えている様に思います。宮崎氏の倫理と権力に対する侮りに基づいた恣意的行為というべきではないのでしょうか。宮崎氏が倫理(社会的規範を作る意志)を信じない自由はあります。また、左翼に倫理を云々されるとは笑止千万なのかも知れません。しかし、言わなければ明日がないと言うしかありません。 その事の上で、宮崎氏の擁護があり得るとしたら、彼の「主観的善意」を容認するということだと思います。宮崎氏は意図的なスパイでないとするなら、彼の「主観的善意」すなわち、「仲間を守りたかった」「今後のためにパイプを作っていた」・「提供した情報は実は見かけ倒しのものだった」がセットになった彼の意図(彼がそう表現したかは知りませんが、そう想定するしかない意図という意味です)を信じることだけです。 真相は歴史が明らかにするのでしょうが、この「主観的善意」を誰が信じるのかということです。事件発覚後の宮崎氏の応対は、対外的(少なくとも、主体的に責任を果たさなければならない直接的関係者−共に運動に関わった者−においても)に充分に経過と自己の心情を語った訳ではなさそうです。彼の仲間にはきちんとした説明があったのかはわかりません。しかし、この「主観的善意」を受け入れる人々は少数派であると思います。伝聞の範囲ですが、告発者の存在がいなかったら事実が明らかにならなかったこと、宮崎氏の自己への言及の不充分さ、「主観的善意」の検証が無いことなど、信じる根拠が希薄であるからと思われます。 ただ、宮崎氏を信じる人が相対的に多いのも事実です。この信じる者をすべてマインドコントロールされた信者と評し、その主体性をなきがごとく嘲笑することが適正な対応なのかという気もします。宮崎氏個人と彼を信じ支持表明する者とは、相対的に区別されるべきであると思います。 そして、人を信じるという事はよくある話です。それは、政治だけではない。人を信じる自由はあります。これをはなから否定するのはいいことではないように感じます。ただ、この事件を許しがたいと思うことには、相当な理由と合理性があり、信じない自由もありますし、批判する自由もある。戸田さんは、宮崎氏を信じることをせず、その政治活動に宮崎氏を参加させることは断固拒否という人がいることは尊重されねばなりません。また、自らがわざわざ、宮崎氏支持を改めて表明するのなら、この事件を否定的に見る者に対して、その論拠に答えていく努力も必要かと思います。差別され犯罪者とされた者の決起の力強さや意義を讃え、宮崎氏が百戦錬磨の強者で、器が桁違いであっても、仲間との深い信頼関係があったとしても、だから、今回事件とどう繋がるのかの説明がないと、仲間外の人には通じません。結局は、俺は宮崎を信じるという事しか言っていないことになります。 さらに、戸田さんに言えることは、構造は理解しているのに、敢えて挑発的に登場する傾向があります。戸田さんへの批判は、往々にして、的を射ていないと思うことがあります。幾人かの論者は、戸田さんを差別主義者でマキャベリスト、論理も理性も通用しないマッチョマンと総否定です。最近は、「ネット上はともかく、日常ではまともではあるのでしょう」と少しは適正な評価もして頂ける様になってきました。戸田さんは鮮烈市民派議員として登場してきましたが、既存の左翼政治やある種の潮流に対しても、鮮烈さをアピールしている様に見受けられます。その背景があるのでしょうが、挑発的発言で波風を立てようとしているような気がします。その強引さと事態打開のためなら先頭を切って走るバイタリティーと表裏一体のものだとも思いますが、無用な波風を立てているとも思います。今は、裁判や門真市議会活動、現在の組織相談の解決や選挙等々、本当に忙しい毎日を送っているので、議論継続はそれなりにとなるのでしょうが。 私は、この事件をつかっての政治的利用や政治的対立関係が反映した上での批判の応酬があるのかどうかをよく知りません。元々そうした政治的な流れに疎い者です。この事件に言及すれば、政治的スタンスが問われるのかどうかも判りません。初めて知った事件を、こう考えるという話でしかありません。本来なら、手元の少ない情報で、しかも全体構造が見えない中で、色々と発言すべきでないような気もしています。しかし、戸田さんとまっぺんさんの論争に触発されて、言論には言論でと言った手前、ここまでは言及してみました。大きな読み間違いをしているかも知れません。戸田さんにもまっぺんさんにも、またしても違う違うと、指摘を受けそうです。もう始まってから丸2か月で、大方の関心も去っているでしょうが、つまりは、今回も結論は草加さんと同じです。私は草加さんの要を得た説明を、不器用な大量の言葉で置き換えているような気がします。今回は、前にもまして判りにくいものになったかと危惧するところです。 最後に、関連でやくざについての見解を述べたいと思っています。 |