日本共産青年同盟機関誌「青年戦線」第8号より無断転載。情勢の変化により解説内容がかならずしもそのまま現在も通用するかどうかはわかりません。文章内容についての質問などは新時代社「かけはし」編集部の方へお願いします。
革命にとっての根本問題は、国家権力の問題である。それは、すなわち、プロレタリアートの社会主義革命が、「国家」にたいしていかなる立場をとるのかということである。レーニンの本書は、こうした問題にたいする徹底して階級的な実践的解答である。
レーニンは、本書を一九一七年の八月から九月にかけて書いた。この時期は、一九一七年、二月革命によって打倒されたツァーリ帝政にとって代った、エス・エル、メンシェヴィキ等のブルジョア的臨時政府の反動的性格が暴露され、労農兵士のソヴィエトがボルシェビキの指導の下に獲得され、ブルジョア的臨時政府にたいする革命的攻勢をかけんとする二重権力の情勢の最後的決着にいたる過程であった。本書は、エス・エル、メンシェヴィキ等の「社会主義」を看板にかかげた小ブルジョア的改良主義政党にたいする闘いの実践的課題から提出されたものであり、ブルジョア権力にとって代るプロレタリアート権力の意義と任務について一切の疑問の余地なく、プロレタリア人民に自覚させるためのものであった。それはまた、第一次大戦を契機として決定的に社会排外主義に転落した、第二次インターナショナルのカウツキー等の指導理論にたいして、革命的祖国敗北主義を掲げて、戦争の革命への転化をおしすすめていかんとする国際的党派闘争の一環でもあった。
革命的情勢において、ブルジョア国家にたいするあいまいな態度をとることは、自ら、プロレタリア革命との関係でバリケードの反対側に立つことを意味する。すなわち、平時における日和見主義は、革命期においてはブルジョア反革命とならざるをえないことを、本書は教えるのである。
レーニンは本書において、エンゲルスの「家族・私有財産・国家の起源」を引用しながら、国家が人間社会の相闘う階級への分裂とともに発生し、階級対立の深刻化とともに、ますますその機能を強化させてきたものであることを論証する。すなわち、国家は、階級対立が、調停し、和解しえないことの表現である。
国家はなにかしら神秘的な民族の共同体といったものではなく、永久不変にその性格が変らぬというものではない。国家とは、その社会において経済的に支配的な一階級が、自己の利害を全社会に押しつけ、自らの支配のための「秩序」を防衛し、かくして政治的支配をおしひろげるための機構である。古代奴隷制国家は奴隷所有者の、封建国家は封建貴族のそしてブルジョア国家は、ブルジョアジーの階級的利害を社会に強制するためのものであった。そこにおいては、自らの特殊な利害を全社会に共通な利害として主張するための、「武装した人間の特殊な部隊」を不可欠とする。警察、監獄、軍隊などの暴力装置が国家権力の本質的な機能を果すものである。そうした特殊な暴力装置の存在こそは、国家が、諸階級の対立を調停したりする、階級対立から独立した機関ではなく、支配階級が、被支配階級を抑圧するためのものであることを証明している。まさに国家こそは、搾取階級が被搾取階級をしぼりとするための道具としての位置をもっているのである。
資本主義の帝国主義段階への推転とともに、階級対立に決定的な段階にまで進展し、国家権力の暴力装置は肥大化し、官僚的軍事的統治機構という寄生物が発達する。国家権力の暴力的寄生的性格はかつてなかったほどに強化されるのである。
国家権力の本質が、支配階級による被支配階級にたいする暴力装置である以上、プロレタリアートの革命は、この支配階級の暴力を打ち破る、プロレタリアート自身の組織された階級的暴力の行使としてなされなければならない。暴力は、旧社会から新社会を生み出す「助産婦」としての役割を果すのである。暴力にたいする超階級的な嫌悪は、ブルジョアジーの支配を恒久化させるのに手を貸すものに他ならない。プロレタリア革命は、その勝利のために階級的暴力を不可避的に伴うものであるとともに、労働者階級を支配階級として組織し、搾取者の反抗を押さえつけ、搾取者を搾取するために、自らを武装し、系統的な暴力を行使しつづけねばならない。かくして、勝利したプロレタリア革命は、自らの支配をプロレタリア独裁として貫徹しなければならないのである。
プロレタリアートは、「できあいの国家機構をそのまま手に入れて、それを自分自身の目的のために動かすことはできない」(マルクス『共産党宣言』)
すなわち既成のブルジョア国家機構を利用して、支配をおこなうことはできないのである。なぜならば、ブルジョア国家機構は、少数の搾取者が多数の被搾取者を支配するためのものだからである。プロレタリアートは、ブルジョア国家機構を爆破し、武装したソヴィエトによる支配の機構を形成しなければならない。常備軍、警察、一切の官僚機構は解体され、武装した労農人民の統制の下に秩序が再建されねばならないのである。 ソヴィエト(コミューン)は、ブルジョア議会風のおしゃべり機関ではなく、立法し執行する、行動の機関である。官吏は、直接選挙によって任命、罷免され、その給料は熟練労働者の平均的賃金を上回るものであってはならない。官吏は、全住民が交代してその任につき、かくして全ての住民が国家の業務にたずさわることをもって、官吏の特権的な位置は喪失する。全ての住民は武装したソヴィエトの統制下におかれる職員としての役割を果すことになるのである。
マルクスは、このコミューン型国家の原則を、一八七一年のパリ・コミューンの総括のなかから導き出した。それは本質的に、「死滅しつつある国家」としての「国家ならざる国家」である。旧来の全ての国家は、その形態のいかんに関らず、少数者が多数者を抑圧するためのものであった。しかしこのプロレタリア独裁期における国家は、多数者による少数者にたいする支配であり、民主主義を最大限に保障するものであり、かくして民主主義それ自身の死滅、すなわち国家の死滅に道をひらくものである。
俗物は、「民主主義」と「独裁」を相対立する概念としてとらえる。しかし、民主主義もまた、支配の形態なのであり階級的性格を深く刻印されたものである。ブルジョア民主主義は、搾取者たるブルジョアジーによる民主主義、すなわち、プロレタリアート人民にたいする独裁なのであり、プロレタリア独裁は、プロレタリアート人民の民主主義を最大限保障する、最も拡大された民主主義の形態なのである。
無政府主義者は、ブルジョア国家の暴力的粉砕ののち、プロレタリアート人民による、搾取者を収奪するプロレタリア独裁としての中央集権的国家が、必要であることを認めようとはせず、プロレタリアによる権力奪取と確保そのものを拒否することをとおして、ブルジョア反革命に道をひらくこととなる。日和見主義者、議会主義者は、なお悪いことに、今日のブルジョア国家機構に、プロレタリアートが漸次的に浸透することをとおして支配権がかちとられるかのごとく説いて、議会をとおした平和革命の実践と理論を合理化し、プロレタリア革命に敵対するのである。
プロレタリア独裁権力は、一切の生産手段の私的所有を廃棄して、全社会の所有に移す。これをとおして搾取する階級と搾取される階級の分裂・対立を止揚して、無階級社会への過渡期を歩みはじめる。
この過渡期は、一国的な閉鎖された規模で考えることは、そもそもはじめからできない。無階級社会への歩みは、世界的な規模におけるプロレタリアートの勝利と、それをとおした民族的国境の分断の突破を前提とする。巨大な規模に発展した生産力と、私的所有、民族国家の狭い壁の矛盾は克服され、人類がかつて想像できなかったほどの生産力の爆発的拡大がかちとられる。この共産主義の低次の段階においては、生産と分配を一定の規準をもって管理し、統制するための社会的強制の機構は存在するであろう。しかしそれは厳密な意味において階級支配の道具ではないがゆえに、「国家」と呼ぶことはできない。共産主義の高度の段階、すなわち語の正確な意味での共産主義社会は、各人が能力に応じて働き、欲望に応じて取る社会であり、労働と分配に関する一切の価値規準は消滅する。国家は完全に死滅するのである。
スターリニストの一国社会主義論によって歪曲された「共産主義国家」なるものが、マスコミに巾をきかせているなかで、このマルクス・レーニン主義の国家学説の原則を再確認することはきわめて重要である。
本書が論争の対象とした、カウツキーなどの修正主義者とは比べものにならないほど、今日のスターリニストは、議会主義的、日和見主義的堕落を深めた。彼らは、「国家と革命」を一から十まで否定し、労働者階級をブルジョアジーに売り果す役割を引きうけている。本書は決して古くなったのではない。「国家と革命」こそは、今日のプロレタリア階級闘争の発展の過程で突き出される問題に応える実践の書である。「国家と革命」の時代が再び始まっているのである。
|