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日本共産青年同盟機関誌「青年戦線」第4号より無断転載。情勢の変化により解説内容がかならずしもそのまま現在も通用するかどうかはわかりません。文章内容についての質問などは新時代社「かけはし」編集部の方へお願いします。

基礎学習文献解説

「賃労働と資本」
(カール・マルクス)
資本家あっての労働者なのか?

 青年労働者諸君が、資本にたいする闘いを開始するとき、決まって上役や、資本の手代連中からはかれる言葉は、「しかし君、会社と労働者は持ちつ持たれつなんだから」とか、「会社あっての組合なんだということを忘れるなよ」というものであろう。
 春闘においても「労働組合の社会的責務を自覚して」とか、「物価値上げの責任を労働者は悟るべき」とかの主張がブルジョアマスコミに氾濫し、果ては「生産性上昇の枠内での賃金アップ」とかいう議論が組合指導部自身からなされたりする。してみると、「資本の繁栄とともに歩む労働者の生活向上」の論理はその物的基礎であった高度経済成長構造の崩壊以後、「資本の苦しいときは、労働者も苦難を共にするのが当然」というように形を変えて根深くブルジョア社会の「常識」となって人々の意識の隅々にまで住みついているものであることは、かなりの程度に明白である。
 然り。マルクスがいみじくも語ったように「支配的なイデオロギーは、一社会において支配的な階級のイデオロギー」なのであるから。
 プロレタリア社会主義革命をめざし資本主義の根底的な転覆のために闘うわれわれは、今日の資本主義的生産関係の基礎をなす「賃労働と資本」にまつわる一切のブルジョア観念、誤謬を粉砕し、多くの労働者に階級的視点からこの問題をわかりやすく説明する能力を身につけねばならない。一八四九年「新ライン新聞」紙上にマルクスが連載した「賃労働と資本」は、ブルジョア社会の科学的解剖のためのマルクス主義経済学のもっとも初歩的文献である。

プロレタリアの武器としての経済学

 「経済学」などというと多くの諸君のなかにはとたんに腹のあたりが痛くなる人が出てくるかもしれない。しかし「経済学」を常人には理解しがたい神秘的なものになさしめているのは、自らの支配の秘密を理解されたくない資本家階級とその手先どもの「努力」の結果なのであって、日々資本の重圧の下に苦しめられている労働者階級人民にとっては、自分たちの生活の直観の中から、容易に理解し納得しうるものとしてマルクス主義経済学の前提は存在しているのである。従ってマルクスは確信をもって、かの「資本論」第二版後記の中で
「ドイツの労働者階級の広い範囲にわたって『資本論』が急速に理解されだしたことは、私の仕事への最上の報酬である。……ドイツ人の世襲財産とみなされていたあの偉大な理論的感覚は、ドイツのいわゆる教養階級にはまったくなくなってしまって、反対に近ごろではドイツの労働者階級のなかによみがえっている、とのことである」
 と、真実の科学的知性の担い手としての労働者階級を信頼することができたのであった。
 マルクス経済学は一八六七年に初版が出された「資本論」で完成の域に達するのであるが、その核心をなす価値論・剰余価値論については本書でほぼ重要な基本を獲得するにいたっている。もちろん彼は、机上の研究のみによってその理解に到達したのではなく、一八四八年の全ヨーロッパをおおった革命運動の敗北という実践的教訓から、後年の一大金字塔建設の糸口を導き出したのであった。本書の最初の部分でマルクスは述べている。
「すべての革命的反乱というものは、その目的が階級闘争からいかにかけ離れているようにみえても、革命的労働者階級が勝利するまでは失敗せざるをえないということ、そしてどの社会改革も、プロレタリア革命と封建的反革命が世界戦争というかたちで武力をもって勝敗を決するまではユートピアにとどまるということである。」
 この立場から彼は、資本主義社会を構成する二大階級であるブルジョアジーとプロレタリアートの利害の絶対的非和解性を、社会の根底をなす経済関係に立ち入ることによって論証し、プロレタリアートの階級としての独立した組織化が革命の勝利にとって不可欠の前提であることを提起したのであった。

本書の内容

 本書の構成は全体で五つの部分にわかれる。
 
第一節で、彼は「賃金とはなにか? それはどのように決められるか?」という設問を出す。そのなかで、彼は、労働者の労働給付にたいして支払われる賃金が資本家にとっては、他の商品に支払われる金額と同じものであること、すなわち資本家による労働力の購入が商品の購入そのものであることを明らかにする。したがって賃金は、生産された商品にたいする労働者の分け前ではなく、「資本家が一定量の生産的労働を買いとるためにもちいる既存の商品の一部」であり、労働力は「その所有者である賃労働者が資本に売る一商品である」ことを鮮明にする。
 ここにおいて、本来的に労働者自身の固有の生命活動である労働が、労働者の生存にとっての一手段にすぎなくされているという疎外現象があらわれる。労働力の商品化という事態は、一切の生産手段から切り離され、かつ身分的束縛から切り離された階級の発生と、資本家への全ての生産手段の集中という、資本主義社会固有の現象である。

 第二節では、この商品としての労働力の価格が、需要・供給の不一致による上昇下降のカーブをとおして他の商品と同様に、その商品としての生産費、すなわちその生産に必要な労働時間によって決定された価格に一致するということを述べる。すなわち商品としての労働力の価格は、労働力の再生産費、つまり労働者の生活を維持し子孫を繁殖するにたるだけの生活必需品の価格に一致することを明らかにする。労働者の賃金は、不断にこの最低の生活を維持する額=最低賃金に縮小される傾向を持つ。

 第三節においては、資本がたんに「蓄積された労働」の総和としての商品の累積なのではなく、一個の歴史的社会的な生産関係の産物であり、直接の生きた労働力との交換をつうじて独立の社会的支配力として自己を維持し増殖することによってはじめて資本となりうること、労働力以外何ものも持たない階級=プロレタリアートが資本の前提であることを明らかにしている。
 「資本の本質は、蓄積された労働が生きた労働にたいし、新しい生産の手段として役立つということにあるのではない。それは生きた労働が蓄積された労働にたいし、その交換価値を維持し増殖する手段として役立つということにあるのだ」
 労働者は彼の労働を資本家に給付することによって、資本家が労働力の再生産のために支払った費用=賃金をはるかに越える価値を創出し、資本の価値を増殖するのである。この剰余労働による剰余価値の創出が、資本の支配の条件なのである。

 第四節では、資本の増大による賃労働の量の増大は、労働力の需要増による賃金の上昇となって帰結しながらも、他の諸価値の上昇によって実質賃金を低落させ、さらには実質賃金があがった場合でさえ、資本家の利潤との対比において労働者の相対賃金を絶対的に減少させる方向にはたらくことを論証する。
 賃金と利潤は反比例するのである。賃金の相対的上昇はただ資本家の利潤の犠牲においてのみかちとられるのである。この意味でブルジョアジーとプロレタリアートの利害は絶対的に対立する。
 労働者階級にとってもっとも有利な状態である資本の急速な増大さえ、賃金の上昇以上の利潤の上昇をもたらし、労働者を資本の奴隷につなぎとめるための鎖を強化することとなるのである。

 第五節においては、資本の増大による競争の激化が、機械の全面的な採用と改良、分業の発達をブルジョアジーに強制し、その結果熟練労働者の追放によって労働力の価格をますます低落させて、労働者間の競争を促進し、不断に大量の失業者を生み出すこと、また中小ブルジョアジーが没落しプロレタリアートへの転落を必然化し、こうした傾向を激化させざるをえないことを述べる。
「生産資本が増大すればするほど、分業と機械の使用はますます拡大する。分業と機械の使用が拡大すればするほど、労働者間の競争は激化し、彼らの賃金は減少する」
 以上で本書の著述は終っている。
 日本資本主義の危機が激化し、それと同時に資本と賃労働の関係を固定化することによって労働者への犠牲を黙認する言辞がはびこるなかで、青年労働者諸君は本書を最低限の武器としながら、「賃労働と資本」の関係そのものを爆砕し、資本の鉄鎖からのプロレタリアートの解放をかちとる実践と理論の強化へさらに前進しよう。

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