まっぺんです。こちらに投稿するのはかなり久しぶりです。批評の対象とされてる本人が出てくるのはなんだか間の抜けた、場違いな気もするのですが、みなさんの書き込みを読んで感じるところもあったので、お邪魔とは思いますが書かせてください。自分の考えの整理という意味もあります。
私と蔵田さんとを「一元論対二元論」と整理しているのは非常に的確であると感じました。草加次郎さんの分析のとおり、蔵田さんの論文に対して私は彼とは違った論点から批判しております。それがすれ違いとなり議論が噛み合っていないとのご指摘、ごもっともだと思います。しかし、私は蔵田さんと同じ土俵の上で彼の論法に向き合う形での内ゲバ論争では、左翼がたどってきた大きな過ちを克服するような議論は到底できないと考えています。なぜなら蔵田さんの一元論的論文には「党」「前衛党」というものについて蔵田さんやわれわれ左翼のすべてが犯してきた重大な過誤が見落とされていると考えるからです。
■「前衛」の意味
スターリニストによって1921年に日本に共産主義思想が本格的に持ち込まれて以来、共産党は「前衛党」を自称していました。やがて50年代に入って、客観的な政治情勢やトロツキズム活動の影響などによって共産党からブントが形成され、さらにさまざまな政治党派が次々と生み出されてきました。これらのどの党派も自分たちを「前衛党」と考えていた事実、つまり「自称前衛党」がとりわけ60年代以降大量に生み出されてきたという事実があります。では「前衛」とは何でしょうか? これをどう定義しますか? 私は最近、『トロツキー研究』および『かけはし』の論文の中で「前衛」についてどう解釈するべきかを示す文章を読みました。ひとつはトロツキー自身の論文です。トロツキーはその中で、党は労働者階級の前衛部分と結び付かなければならない、と主張しています。「労働者階級の前衛」とはこの場合、労働者の中で、階級的意識に目覚めている先進的な活動家たちのことをさしていて、大抵は職場の活動的な部分の事です。つまりその時点で党は「まだ前衛党ではない」とトロツキーは主張していた事になるのです。
■ボリシェヴィキは「前衛党」であったか?
ロシア革命の経過を見ると、ボリシェヴィキ党が本格的に労働者階級の多数派になったのは1917年の4月以降のことでした。レーニンが4月テーゼを掲げ、トロツキーが5月に帰国し彼の党派=メジライオンツィと共に合流し、また党大会において「全権力をソヴィエトへ」をスローガンとして決定するとともにメンシェヴィキや無党派からも含めて労働者階級の最も先進的な部分がどんどんとボリシェヴィキ党に合流して来る過程の中で、ボリシェヴィキは「前衛党」となったのです。つまり1917年以前にはボリシェヴィキは前衛党ではなかったという事です。しかし、スターリンが共産党権力を掌握して後、「前衛党」はイコール共産党の意味として権威付けがなされてきました。1924年、レーニンが死んだ時、レーニンを記念する行事として入党運動が推進され、その時24万人が新たに入党しました。しかし、これは実はその当時の共産党内にスターリンよりも遙かに有名で遙かに尊敬を集めていたトロツキーとその支持者を追い落とす意味もあり、各職場で献身的に活動していた良心的共産党員の多くが除名され、その代わりに出世主義的・権威主義的な、スターリンにとって都合のよい人々が大量に共産党に入党することとなりました。実質的にこのとき共産党は変質し、「前衛党」としての資質を失ったといっていいでしょう。最近フランスのトロツキストがやはり「前衛」の意味を「党」とは無関係に使っている文章を『かけはし』で読みました。フランスでは労組の組織率は10%くらいしかないのですが、その事は逆に労組を「フランス労働者階級の前衛」の位置に押し上げている、というものです。
■日本における「前衛党」の可能性は?
こうして見ると「前衛」の意味はまずなによりも「階級的自覚をもった先進的部分」と規定するべきであり、「どんな党派的理論をもっているか」などということには関係ないと言っていいと思います。しかも、単に「先進的である」だけではだめであり、ある程度大量に存在し、日本の階級運動に一定の影響を与えうるほどの人数がなければならない。現在の日本ではどうでしょうか?少なくとも数万人〜数十万人の前衛的労働者がいれば、日本の階級闘争もずいぶんとちがってくると思うのですが、残念ながら現在、日本労働者階級の主要部分は階級協調主義意識の「連合」のもとにあり、「前衛」はほとんど存在しない、と言っていいかと思います。したがって、それと結び付いて日本階級闘争に一定の影響を与えうるような「前衛党」が出現する可能性はいまのところ皆無であると言っていいでしょう。絶望的です。1970年代初頭までの中核派はある意味、「前衛党」に挑戦しうる可能性があったと言えると思います。彼らが自らその可能性をつぶしてしまったのは残念なことです。
■レーニン主義組織論と大衆(1)自立性
レーニンが組織について非常に熱心であり、『なにをなすべきか』『宣伝・扇動』などによって精力的に組織をつくろうとしていたのは左翼なら誰でも知るところです。その「レーニン主義組織論」をわれわれはどのように考え、そして実践してきたでしょうか。レーニンの理論は帝政ロシアにおける党の維持・発展が前提となった理論ですから、ある程度その時の状況に規定されていることは前提となっています。たとえば「非合法党」という考え方は戦後の日本において必要とは到底思えません。しかし、レーニンの組織論の中にはまた「普遍的真実」も存在しており、それは今日も活用するべきものであると思います。そのひとつは「組織の自立性」と「大衆・階級に依拠する」という事です。このふたつはある意味では矛盾する場面もあります。レーニンの時代、党は自らを帝政ロシアの秘密警察や黒百人組から防衛するために非合法性を持たなければなりませんでした。また、情勢の変動の中で、大衆の意識は革命的になったり愛国的になったりしました。革命勝利後の内戦の時にも大衆の意識は後退的・防衛的になっていき、ソヴィエトの一部にはメンシェヴィキが権力を掌握していた地方ソヴィエトもありました。このような弾圧や大衆の意識の変動の中にあっても党は一定の綱領とそこに表現される前衛的意識を独立させて維持していかなくてはならないという面があります。つまり「外部の状況と無関係に維持していかなくてはならない原則」があるという事です。
■レーニン主義組織論と大衆(2)大衆性
ところが一方ではレーニンは新聞の役割の重要性を強調しながら、その新聞を中央から末端への指令伝達機関としてばかりではなく、地方から中央へ向けた労働者階級の動向を知るための手段として重視していました。レーニンは地方から手紙をよこすように、労働者の現場からの生の声をよこすように、非常にひんぱんに指示を出しています。また、党組織が国内では非合法であったためやむなく国外に指導部やイスクラ編集部を置き、全国大会も国外でおこなっていたにもかかわらず、できるだけ党員全般の意志を尊重しようとし、民主的議論と投票をこころがけていた事実が明らかとなっています。またそもそも「非合法」といっても、多くの人々の支援がなければ成立しうるものではありません。ここにも大衆に依拠してきたボリシェヴィキの姿を見て取ることができます。つまり、このようにレーニンは「大衆から自立した党組織」「大衆に依拠した党組織」という一見相反する、しかし両方ともに絶対に必要である資質を党組織の中に求めていたのだと私は思うのです。党とは、大衆全体の中の様々な傾向から生まれてきた、それぞれの傾向を「代弁する」組織体であり、例えていえば「きのこ」のようなものかな? 地上に目に見えるかたちで現れたキノコはそれぞれ自立しているように見えます。しかし地面の下にはほとんど目にみえない広い菌糸のひろがりがあるのです。
■日本左翼の「レーニン主義組織論」
レーニンの組織論は以上のような二つの側面から成ると思いますが、このうち(1)の「党の自立」の面を強調し、これに中央集権的指令の絶対化を組み合わせたものを左翼党派の多くは「レーニン主義組織論」と言ってきたのではないでしょうか。これは明らかにスターリンによってデッチあげられ日本共産党から受け継いできた「レーニン主義組織論」です。第四インターは他の党派と比較すれば遙かにその点ではましであったと自負しますが、80年代に始まった分派闘争の中で多数派が採用した「レーニン主義」の用語には、このようなスターリン主義的側面が無かったとはいえない、と私は考えています。ブント諸派においては「レーニン主義組織論」とは紛れもなく「スターリン主義組織論」であった、と私は思うのです。そして、この時の総括を蔵田さんはできていない。蔵田さんは批判者と反批判者と第三者によって内ゲバ問題を克服するような事を言ってますが、また別の部分では第三者の意見など「彼岸」の意見であって当事者性はなく、「絶対的意見」ではないとも言っています。ここには、まさに蔵田さんがレーニン主義組織論における「権力や大衆からの相対的な自立性」という(1)の部分だけを見、(2)の「大衆に依拠する」部分をすっぽり欠落させたまま、60年代の党組織論をそのまま30数年間引きずっていると思えるのです。だから、蔵田さんにとっては「内ゲバ」の問題とは党派の問題であって、大衆は「非当事者」としか映らない。ここに最大の問題があると考えます。そして又そうであるからこそ、蔵田さんが語ろうとしない「大衆側からの内ゲバ批判」という二元論からの批判でなければ有効性はないと考えるのです。
■大衆の先進性への依拠
客観的に考えると、蔵田さんの意見はある意味「時代性」を表現しているともいえるかも知れません。私は70年代初頭に上京し運動に参加したのですが、この頃運動に参加するには「党派」に参加しなければならなかった。つまり大衆運動の非常に大きな部分を党派が代行していたといえる状況でした。たとえば総評青年協に結集する各県反戦青年委員会は大抵青や白のヘルメットをかぶって登場しており、日比谷や明治公園などで集会があれば圧倒的な数のヘルメットで会場が埋め尽くされたものです。大衆運動は今とは比較できないほどダイナミックであり先進的であり、階級の前衛的部分が確かに存在していました。そしていろいろな党派が、その前衛的青年労働者の多くを獲得していました。そういう時代、「党派」と「大衆」とは非常に近い関係にあり、もちろん一般大衆も今よりもはるかに左傾化していました。社会党・共産党への投票者数がそれを示しているといっていいと思います。とにかく情勢は今とはまったくちがった様相を呈していたように思います。蔵田さんの意識はまだそこにとどまっており、そうした状況を前提として内ゲバ論を考えているんではないでしょうか? しかし現在の第一の課題は、まず何よりも大衆運動の再建が重視されなくてはならないと思います。それらの大衆が「左翼的ではない」のは現在の情勢からはやむを得ません。しかし、その大衆を前提として運動の発展を考えていくしかないのです。「左派的大衆」を前提としてそこに連動する「党派問題」として内ゲバ問題をとらえようとしても、蔵田さんが求めるような「左派的大衆」(イコール党派)はほとんど存在しない、といっていいのではないでしょうか。
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