■質問1
蔵田氏によれば内ゲバを批判するためには目的意識性や動機などが明らかでないといけないということになり、そうした条件が満たされていない批判をおこなう批判者は内ゲバ襲撃を受けてもしかたがない、と主張しているように思われる。それは「言論の自由」を冒涜する発言であると思うが、言論とはそもそもそのように何らかの一定の条件が満たされていなければ暴力的手段も含むさまざまな手段によって規制あるいは報復してもよいものと蔵田氏は考えるのか? その場合、その「条件」の内容はどのように決められるべきであると蔵田氏は思うか? またそれを判定するのは誰だと思うか?
■質問2
蔵田氏は「第一」と「第二」において「反批判者」つまり内ゲバ行使者側(この場合、蔵田氏は中核派およびBUNDのことを指している)の批判行為は批判者側の批判内容・手段などに逆規定されると言っている。では佐藤悟志氏や白井朗氏の言論内容の「どの発言部分」が、または批判行為のなかの「どの行為」が内ゲバの正当性を規定していると蔵田氏は思うのか?
■質問3
蔵田氏は党派・集団またその思想を外部から強制的に暴力的手段によって変革することはできないし、そのような行為は自己否定的行為であるから自滅・衰退に向かうと「第六」において主張している。ではロフトプラスワンにおいて佐藤氏を複数の人数をもって暴力的襲撃をおこなったBUNDの行為は、佐藤氏の思想変革を外部から暴力的手段によって強制しようとしたと解釈できるが、蔵田氏はこれをBUNDの自己否定的行為で自滅すると思うのか?それともそれは「佐藤氏の行為の方が批判の範囲を逸脱しているのであるから、BUNDメンバーによる暴力行為は組織防衛のための正当な行為として認めるのか? 「自滅的行為」と「正当防衛」との境界線はどこにあるのか?
■質問4
「蔵田氏は「第五」において「統一と団結」の名のもとに内ゲバ党派を大衆運動から排除するのは「排除の論理」であり、大衆運動の多様な拡散性を失わせ階級闘争やさまざまな運動の発展を阻害すると批判している。では彼の言論・出版・配布の自由を否定するのも同じく「排除の論理」であるが、蔵田氏はどんな正当な理由によってこの「排除の論理」は肯定するのか?
■質問5
おそらく質問4について有り得ると思われる回答への質問であるが、もしも「内ゲバ党派は左翼であるが佐藤はファシストである」事を理由としてファシストの排除を正当とする場合には、蔵田氏は大衆運動について「排除の論理を否定するべきだ」といいながら実は「大衆運動は左翼の運動でなければならない」とする結論を抱いていることになる。これは「左翼以外の大衆を排除する論理」という事になるが、その論理が正当化される理由は何か?
■質問6
蔵田氏は「自称左翼」内ゲバ党派を擁護し「自称ファシスト」を排撃する立場のように思われる。しかし、本人の主観がそのまま客観的事実と必ずしも合致するとは言えず、考察者の主観的見地がいかに客観的事実に合致しているかを常に検証していくのがマルクス主義の方法論のひとつであると思うが、蔵田氏が内ゲバを「左翼的行為」と認定して許容し、佐藤氏の行為が「ファシズム」であると認定するのはどのような客観的根拠に基づくものか?
■質問7
蔵田氏の文章「第三」および「第九」を見ると、階級的暴力の対極に「非暴力主義」を置き、それを否定して見せることによって内ゲバの暴力に対して一定の「正当性」の根拠を与えているように思われるが、それは蔵田氏が内ゲバ暴力を「階級的暴力」の一種と考えていることを意味することになる。では労働者階級が自らを解放するための手段と考えられる「階級的暴力」と内ゲバの暴力とはどの部分が一致するのか? 内ゲバを「階級的暴力」と考えているならばその根拠は何か?
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