●赤色土竜新聞もくじに戻る●

スリランカNSSPからの手紙
赤色土竜新聞第5号 2003.1.21

スリランカNSSPからの手紙
JVPびわれわれへのデマと現在の組織的関係について

(かけはし1996年9月9日号より)

 同志の皆さんへ。
 JVPは皆さんが言及しているようなNSSPに対する批判を1990年には行っていましたが、彼らはその批判を撤回し、弾圧後に行われた最初の会議である1995年の彼らの党大会にわれわれを招待したのです。われわれはこうした形で招待された唯一の政党でした。私は友好的なゲストとしてこの会議で発言しました。こうしてわれわれの正当性は明白になったのです。最近では、われわれはJVPとの多くの共同行動に参加してきました。そして彼らは、われわれに共同戦線に参加するよう呼びかけました。われわれは彼らがシンハラ拝外主義者にも呼びかけたので、この呼びかけを拒否しました。
 これらすべては、われわれに対する彼らの非難がデタラメであったことを彼らがおおやけに認めたことを示しています。しかしプチブル組織である彼らは、人々をあざむいたままにしておくために、陰でこそこそと皆さんが紹介したような中傷に訴えています。
 JVPがシンハラ人仏教徒の人種差別主義グループとともにDJVを形成し、タミール人の権利を擁護するすべての人々に反対するキャンペーンを行ったというのが事実です。JVPの指導者は、権力掌握後に彼らの虐殺者となったUNP(統一国民党)の指導者であるプレマサダと、この戦線組織で共に活動していたことを認めました。この弾圧に反対したのはわれわれだったのです。
 以下、提起された非難について一つ一つ答えていきましょう。

●(武装したNSSPの学生が大学のキャンパスでJVPメンバーを捜索していた、ということについて)――全くのウソです。われわれは親JVPの学生に対する弾圧に反対しました。しおしてわれわれは、DJVがわれわれの同志24人を殺害し、私自身もひん死の重傷を負わされたという事実にもかかわらず、反弾圧の運動を行ったのです。彼らがわれわれを襲撃したのは、タミール人の平等、自治、民族自決権の立場にわれわれが立っていたからなのです。

●(逮捕された多くの青年の中からJVPのメンバーを面割りする仕事をNSSP党員が行っていたということについて)――全くのウソです。われわれは軍事弾圧に反対するキャンペーンを行っていました。1988/89年の弾圧の後で、最初にアムネスティー・インターナショナルにその弾圧の実態報告を書いたのは私でした。そしてわれわれは、行方不明になった人々の家族たちの組織を出発させました。このキャンペーンのために。軍隊によってわれわれのメンバー2人の生命が奪われました。

●(NSSPの指導者がJVPメンバーのリストを保持し、警察や軍隊のオフィスに自由に出入りするライセンスをUNP政府から貰っていたということについて)――全くのウソです。事実は、警察はわれわれを親JVPと見なしていたのです! しかし警察はそれを「立証」できませんでした。なぜなら、われわれはタミール人の市民権と地域的自治を防衛していたからです。DJVはそれに反対していました。そしてDJVはタミール人のこうした権利を防衛しているという理由でわれわれを殺害したからです。

●(スリランカの各県に設置された“キリングポスト”にNSSPも参加した「人民革命軍」(PRRA)の事務所があり、そこで多くの人々が拷問を受け虐殺されたということについて)――PRRAは政府の秘密警察によって創設された組織であり、S・シルバという名の男が指導していました。われわれはこの組織を政府の道具だとして非難しました。この組織の実態を暴露した政党はわれわれだけでした。
 PRRAはわれわれを脅かし、われわれの新聞に攻撃をかけました。私はPRRAから個人的脅しを受けました。彼らは私を抹殺しようとしましたが、われわれは彼らに反対するキャンペーンを中止しませんでした。こうしたことにもかかわらず、われわれがPRRAの一員だったと主張するのはまったくとんでもないことです。

●(虐殺の主な下手人は、軍というよりはむしろPRRAだったということについて)――PRRAは一部では軍が設立したものであり、また国家機構が、プレマダサの「全政党会議」(APC)に参加するすべての野党の支援を得て設立した「オペレーション・コンバイン」(連合作戦)の一部でありました。われわれはAPCに参加しなかった唯一の政党であり、われわれは「オペレーション・コンバイン」を非難しました。

●(NSSPは、JVPの弾圧でUNPと協力したということについて)――われわれは人権侵害に反対する運動において親JVP勢力と協力しました。われわれはウィジェウエラ(JVPの創設者)やパマナヤケの殺害を批判した唯一の政党でした。
 もしわれわれが弾圧に協力したというのなら、弾圧後初めての彼らの大会での唯一のゲストスピーカーが私だったのはなぜかという簡単な質問を投げかけるだけで十分でしょう。別便で、関連する文書類を送ります。
1996年8月28日
 パフ NSSP政治局

レッドモール党(第四インターナショナル・ファンクラブ)へ結集せよ

でも結集してもなんにもないけど