スリランカの第四インター、阿部さんの主張、そして建設的な討論について
高島義一(かけはし1996年8月5日号より)
なぜ変則的紙上論争になったか
私たちは、須田さんの主張とは異なって、本紙五月二十七日号に掲載された吉田宏さんの投書の方が、全面的に正しいものと考えています。まず最初にお断りしておきたいことは、吉田さんは、「共産党や第四インターナショナルが入った政権」がスリランカのJVP(人民解放戦線)を弾圧した、という「Workers」第七四号の阿部治正さんの主張を批判するこの投書を、まず「Workers」に送ったということです。しかし掲載されなかっため、あらためて本紙に送ってきたものです。
このため、私たちが主題的にとりあげた主張に対してではなく、本紙に掲載された読者の投書に「Workers」側が反批判を行うという、きわめて変則的な紙上論争になりました。本紙が吉田さんの投書を掲載して、いわば「公」(おおやけ)にならなければ、「Workers」紙上で阿部さんが「私が七一年の弾圧時点でもLSSPが第四インターの加盟組織であったかに発言しているのは確かに誤りであり、この点は率直に自己批判したいと思います」と、自らの誤りを一部認めることはなかったのではないでしょうか。この点がまず、大きな問題であると思います。
須田さんが言うように、私たちも社会主義革命運動の全世界的な再生のために、「他の社会主義派との有意義な討論」が必要不可欠であると考えています。これは、第四インターナショナル全体の考えであり、世界大会の決定であり、実践でもあります。しかしその前提は、討論の相手に対するデマや、事実にもとづかない中傷は行わないということです。ところが「Workers」の阿部さんの主張には、こうした前提が欠けています。
須田さんは「事実関係」は「さして必要ないものでない」と書いていますが、決定的なのは「事実関係」がどうであったのか、ということです。
阿部さんは、スリランカの第四インターがJVPの弾圧に加担した、と主張しました。これは、単なる誤りやペンのスリップ、あるいは「論点はそこにはない」として見過ごされていい問題ではありません。それは、事実を一八〇度ひっくり返した悪質なデマゴギーであり、中傷であり、討論の出発点を左右するきわめて重大な問題であるからです。
JVPをだれが防衛したのか
まず、事実関係について簡単におさらいをしておきます。スリランカにおける第四インターナショナルの支部組織であったLSSP(ランカサマサマジャ党)の多数派は、一九六〇年の国会選挙における勝利(国会内での多数派獲得)への過大な幻想が破産し、展望を喪失するなかで確信を失い、トロツキーと第四インターナショナルが「革命を敗北に導くもの」として厳しく批判し続けてきた人民戦線路線に、急速に傾斜していきました。
第四インターナショナルはこの誤りを転換させるために何度となくLSSP内の論争に介入し、討論を重ね、六一年の第六回世界大会、六三年の第七回世界大会でもセイロン問題をとりあげ、セイロン支部多数派の誤りを厳しく批判しました。しかしLSSP多数派は世界大会への出席さえ拒否し、バンダラナイケのSLFP(スリランカ自由党)により一層、接近していきました。
六四年六月のLSSP大会には統一書記局から同志ピエール・フランクが出席し、演壇からこの人民戦線路線を厳しく批判しましたが、投票の結果、右派が六五%、中間派が一〇%、トロツキズムの原則を貫く同志バラ・タンポらの革命的左派が二五%という結果に終わりました。
第四インターナショナルは、ただちにLSSP多数派との関係断絶を宣言し、同志バラ・タンポらはLSSP・R(ランカサマサマジャ党革命派・第四インターナショナル・セイロン支部)を結成し、独自の闘いに入りました。
それから七年余りたった七一年に、弾圧と挑発の中でJVPは無謀な武装蜂起を行って失敗し、LSSPも入ったバンダラナイケ政権のすさまじい弾圧にさらされました。この非常事態宣言にもとづくバンダラナイケ政権の弾圧に反対し、基本的人権と民主主義を防衛するという立場からJVPを防衛したのは、唯一、第四インターナショナル・セイロン支部として六四年以降七年余り闘い続けてきたLSSP・Rだけであり、LSSP・Rが指導する階級的労働組合であるCMU(セイロン・マーカンタイル・ユニオン)だけでした。
吉田さんも投書の中で本紙の連載から引用して指摘しているように、同志バラ・タンポは組織の決定にもとづいて法廷でJVPの弁護まで担当しました。また、第四インターナショナル統一書記局もバンダラナイケ政権の弾圧に反対しJVPを防衛せよという決議をあげ、世界各国でそのための闘いに取り組みました。日本支部も、LSSP・Rの同志を迎えてバンダラナイケ政権の弾圧に反対する大衆集会を東京、大阪、仙台、山形、福岡など全国各地で開き、セイロン大使館へのデモを何度も組織しました。
また、「かけはし」の前身である当時の「世界革命」紙には、この問題についての日本支部の声明や行動の報告記事、そして同志バラ・タンポらセイロン支部の同志たちへのインタビューのほか、JVPの当時の指導者ロアナ・ウイジェウエラのアピールなどが多数掲載されています(「世界革命」縮刷版第2集)。
世界中の左翼勢力の中で、こうしてJVPをバンダラナイケ政権の弾圧から防衛するためにキャンペーンを展開し、一貫して行動を組織したのは、第四インターナショナルとその各国組織だけだったと言っても過言ではありません。
もちろん、阿部さんたちがいまでは袂(たもと)を分かっている社労党の前身である全国社研は、指一本動かさないどころか関心すら示しませんでした。ベトナム連帯闘争にさえ「本当の国際主義とは自国帝国主義打倒である」という超一般的な「原則」を対置して悪罵を投げかけていたくらいですから、それも当然でした。
堕落したLSSP多数派が、その後も「トロツキスト」を名乗り続けたという阿部さんの主張は、彼らがトロツキズムの原則中の原則を決定的に踏み外し続けていることを考えれば、ちょっと信じにくいことですが、スターリンもまた、「レーニン主義者」を自称していたことを考えればありえないことではありません。しかし、重要なのは「何々主義者」を自称することではなく、闘いの中でその原則を貫くことです。阿部さんは、スターリンが「レーニン主義者」だったというのでしょうか。
堕落したLSSPの人民戦線路線に第四インターナショナルは責任を負うことができません。第四インターナショナルは、セイロン支部の同志たちを先頭に、LSSPの人民戦線路線と全力で闘ってきたのですから。
繰り返します。第四インターナショナルだけが、スリランカにおいても全世界においてもJVPを弾圧から防衛するために闘いぬいたのです。ところが阿部さんは、第四インターがJVP弾圧に加担したと述べました。スリランカトロツキズム運動に詳しい阿部さんは、こうした事実を知っていたはずです。事実を知っていながらそれと正反対の主張をデッチ上げて他者を「批判」することを中傷といいます。
阿部さんの主張は、単なる「誤り」ではなく、まさに中傷であり、悪質なデマゴギーにほかなりません。また、もしこうした基礎的な事実も全く知らずに「スリランカのトロツキズム運動」について語っているのだとすれば、私たちは阿部さんの無責任な態度にただ絶句するしかありません。
「ウソつきはスターリン主義のはじまりだ」という吉田さんの投書の最後の一節は、「Workers」に掲載を断られたあと、本紙に投稿するにあたって書き加えたものだそうです。阿部さんは、この言葉をよくかみしめてみるべきだと思います。こうした態度を根本的に反省しない限り、まともな討論などできるわけがありません。阿部さんは、自らが第四インターに対する悪質なデマを広げたことを認め、なぜそのようなことを行ったのか、まずはっきりさせるべきなのです。
阿部さんの自己批判は本物か
阿部さんは、「Workers」八四号で「七一年当時第四インターがJVPへの弾圧に加担した」という主張は「誤り」であると認め、「率直に自己批判したい」と述べています。
この「自己批判」ははたして本物でしょうか。阿部さんは、この「自己批判」に続く文章の中で「八七年を前後する時期に吹き荒れた野蛮なJVP狩り」の時期に、現在の第四インター・スリランカ支部であるNSSP(ナバサマサマジャ党。同志バラ・タンポらとは別のトロツキスト組織で、一九九一年十一月に第四インターに結集)が、共産党やLSSPなどと共同して「JVPへの弾圧を繰り広げた」と述べています。
阿部さんも御存知のように、この時期はJVPが再び無謀な武装闘争に入っていた時期でした。そしてこのJVPの武装闘争は、最悪の内ゲバ主義的テロとして、他の左翼諸組織にも向けられていました。NSSPもその対象となり、当時の書記長もJVPのテロ部隊に機関銃で撃たれ、重傷を負っています。JVPの内ゲバ主義的テロに反対して共同のキャンペーンを行い、組織をテロから防衛するために自衛することが、はたして「弾圧」なのでしょうか。
もっともJVPも、同志バラ・タンポとCMUにテロを行うことはありませんでした。いくら何でも、そこまではできなかったのでしょう。NSSPが「JVPへの弾圧を繰り広げた」というのも、もうひとつのデマなのではないでしょうか。
JVPについてもうひとつ付け加えておきます。スリランカでは現在「タミールの虎」と政府軍との泥沼の民族戦争が続いています。JVPはここにおいて、タミールの民族自決権(分離の自由)を認めないという、シンハリ民族主義の反動的立場をとってきました。彼らは、同志バラ・タンポとCMUやNSSPが、タミールの分離の自由を認めた上で行っている反戦闘争を理解しようとはしませんでした。このJVPの誤りは「一昨年の総選挙」に際しても貫かれました。
NSSPは「入閣」したのか
さらに阿部さんは、「一昨年の総選挙に際してNSSPはやはり、かつてのLSSPと同様自由党や共産党と一緒にPA(人民連合)で闘い、選挙後入閣の道を選びました」と続け、スリランカの第四インターは「再び入閣主義の誤り」を犯した、と断罪しています。そして、「下部党員や大衆の批判」が起きたため、「党首のワースデーワ・ナーナヤカラを閣内に残したままNSSPは再び下野」した、と続けています。
これも、明白なデマです。NSSPの唯一の国会議員であったワースデーワ・ナーナヤカラが、議席を確保したいという個人主義的で議会主義的な思惑から、総選挙にあたってLSSPとの合流とPA(人民連合)への参加の道を選択しようとしたことは事実です。しかし第四インター・スリランカ支部としてのNSSPはこれをはっきりと拒否しました。このためナーナヤカラはNSSPを離脱し、LSSPに合流しました。NSSPは、もちろんPAには参加せず、独自の立場で総選挙を闘いました。阿部さんは、NSSPの選挙方針を読んだのでしょうか。スリランカ総選挙について言及するなら、最低限、本紙のバックナンバーと「インターナショナル・ビューポイント」くらい読むべきだったのではないでしょうか。
同志バラ・タンポらは、統一書記局がNSSPを支部として承認するのに反対していましたし、唯一の国会議員の堕落と離脱に示されるように、革命的政治組織としての弱点がNSSPにあったことは確かだろうと思います。この点は、本紙に昨年四月〜五月に連載したCMU指導者とのインタビューでも触れられています。
しかし仮にもNSSPが組織として人民戦線路線を決定し、入閣の道を選んだのだとしたら、第四インターナショナルはNSSPとの関係を全面的に再考せざるを得なくなっていたでしょう。すなわち、阿部さんのこの「NSSP入閣説」もまた、全く事実にもとづかないデマなのです。
阿部さんは、「でもナーナヤカラはNSSPの代表だった」として自説が「正しい」と強弁するかもしれません。しかし彼が党に拒否され、党を離脱して行った行為を、党全体の決定であったと言うのは、デマ以外のなにものでもありません。もちろん、PAに反対して選挙闘争を闘ったNSSPは一回も「入閣」しておらず、したがってまた「下野」もしていません。
阿部さんは、スリランカにおけるトロツキズム運動の誤りを「反スターリン主義左翼運動全体の教訓としたい」と述べ、「そうした形で議論が展開され、深められていくことをこそ望みたいと思います」と語っています。
私たちも賛成です。しかしそのためには、阿部さんが繰り返しているような全く事実にもとづかないデマや中傷は、百害あって一利なしなのであり、阿部さんがこうした態度を根本的に改めることが前提です。阿部さんには、この不可欠の前提がまだありません。
結局のところ阿部さんの主張は、トロツキーが主導したコミンテルン第三回大会、第四回大会の統一戦線戦術こそ、スターリン主義的人民戦線の出発点であるという、社労党からワーカーズが引き継いでいる珍説(全国社研社『科学的共産主義研究』28号などを参照)から、第四インターナショナルを「批判」するものでしかありません。この珍説をここでわざわざ詳しく批判する必要はないでしょう。
何が教訓とされるべきなのか
スリランカ(セイロン)におけるLSSPの堕落は、情勢の危機と転換に際して、大きな大衆的影響力を持ち、しかも情勢を左右するような力を持つに致った革命勢力が必ずといっていいほど直面する大きな危険性を、あらためて明らかにしたものです。
もっとも端的な例としては、一九一七年二月革命後のボルシェビキをあげることができます。レーニンが帰国してトロツキーとともに闘いぬかなければ、ボルシェビキはエスエルとメンシェビキの尻尾となり、後の言葉で言えば「人民戦線」の道を歩み、革命は敗北に追いこまれることになったでしょう。スターリン、ジノビエフ、カーメネフらの在ロシア指導部は、まさに「人民戦線」的道を選択していました。社労党ゆずりの、「レーニンに強い」阿部さんなら、こんなことは釈迦に説法の類でしょう。
LSSPは、同志ピエール・フランクらが『第四インターナショナル小史』の中で列挙しているような多くの弱点を持っていました。ここでそれをすべて書き写す余裕はありませんが、議会主義化した議員集団とそれを支持する大衆との大きなギャップという、「ボルシェビキ的」とはいい難い組織の弱点が、情勢の重圧と展望の喪失の中で一挙に表面化したのだと思います。
指導部の多数派が言葉としては理解していたはずのトロツキズムの原則は、展望の喪失と動揺の中で砕け散り、大衆党員にはそれを批判し、克服する力がありませんでした。このような党しか作ることができなかったLSSPは、しかしながら第四インターナショナルと結びついた組織としては例外的に大衆化した党でした。その他の五大陸の諸組織は、せいぜい数百人、多くても千人単位の活動家組織にすぎず、統一書記局と世界大会を通じたたび重なる介入も、LSSP主流派の堕落を食い止めることができなかったのです。
一人一人の党員がマルクス主義の原則に立脚しつつ、しかもそれを創造的に適用し、「指導部」に対する批判能力を持つような組織を、大衆的に作り上げようとするねばり強い闘いこそ、真に求められているのです。こうした点は、社労党の度し難いセクト主義とマンガ的最後通牒主義、そして阿部さんたちの言う「林委員長の独裁的党運営」から決別しようと苦闘してきた「Workers」「ワーカーズ」「グループ95」の皆さんの考える方向と一致するのではないでしょうか。
NSSPからの国会議員の右翼的脱落もまた、私たちに大きな教訓を与えています。情勢の後退期には、不可避的に右からの圧力が強まります。その中で、下からの大衆的圧力が弱まると議員集団の自律化と右傾化は容易に起こり得ます。自らの議席を守る方が運動の利益になる、という口実で原則を放棄する例は、枚挙にいとまがありませんし、いまでも私たちの目の前で繰り返されています。
だからこそ私たちは、総与党化に抗して「平和・市民」を結成しようとする闘いの中で、国会議員も地方議員もそれ以外の活動家も真に対等・平等なあり方を目指し、他の左翼グループや市民運動の仲間たちとともに努力したのです。「議員とそれを支持する大衆」という構造を作ってはならないというのが、その共通認識でした。
残念ですが、議員を「看板」としてかつぎ、おだてて持ち上げ利用しようとするという傾向も強く、私たちの目指したあり方は不十分にしか実現されませんでしたし、選挙闘争としても敗北しましたが、この闘いの経験はともに闘った市民運動や左翼グループにとって貴重なものだったと考えています。
もちろん「平和・市民」は社会主義を目指す組織と運動を作ろうとするものではなく、民主主義のレベルでさえ崩壊しつつある抵抗の闘いを防衛しようとするものでした。しかし、こうした現実の運動や闘いなしに、外からお説教しているだけで社会主義を目指す闘いが作れるはずがありません。これは、社労党から離脱して新しい闘いの道を選択した阿部さんたちが、痛いほど感じているはずです。
この点に関連して、最後に再びスリランカにもどります。同志バラ・タンポは、かつてのLSSPの闘いがトロツキズムを語りながらも、結局のところインドの国民会議派的水準を本質的に超えることができなかったのでないか、と総括しているといいます。
ここから同志バラ・タンポとそのグループは、CMUを通じた階級的労働運動の形成に全力を集中してきました。労働者が自らの闘いの経験を通じて、階級として自覚し、階級として団結していく。こうした闘いを通してLSSPの敗北を真に克服しようと考え、実践し続けてきた同志バラ・タンポたちは、その結果、本紙に九五年四月から五月にかけて四回にわたって連載したインタビューに示されているような、大きな成果を蓄積してきました。
同志バラ・タンポとそのグループのこうした闘いは、労働運動が崩壊的状況に陥っている日本においても、真剣に学ぶべき貴重な経験であると考えます。
社労党の度し難い誤りを自覚しつつある阿部さんたちにとっても、こうしたスリランカにおける生きた闘いの教訓は、真に学ぶ価値のあるものなのではないでしょうか。真に建設的な討論のために!
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