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社会批評社『検証・内ゲバ』を読んで
赤色土竜新聞第3号 2002.4.1

社会批評社『検証・内ゲバ』を読んで 蝉丸

はじめに

 社会批評社刊行の「検証・内ゲバ」を読んで、あらためて考えることがあり筆を執った。この本には60年代から今日まで何らかの形で社会的運動とりわけ新左翼運動にかかわった五人の人々がそれぞれの思いをつづっているが、とりわけ革共同中核派内部で重要な戦線にかかわってきた元反戦自衛官小西誠氏の問いかけに考えさせられる。小西文書への評論を中心に、併せて第四インター派との関わりの中でのこれまでの私の考えをまとめてみたい。

(1)小西氏の内ゲバ批判

 内ゲバについて、小西氏はその歴史をよくまとめている。61年7月の全学連第17回大会でのマル学同の角材による対つるや連合内ゲバを出発点として60年代、70年代へとつづく新左翼諸派、それに共産党も加わった内ゲバの歴史をつづっている。内ゲバは革共同両派のあいだで激化し死者の数を増加させていった。小西氏は当時の中核派の観点から分析を試みており、当時の中核派の心理を知る貴重な証言である。また、できるだけ公平な立場から両派を分析しようとする姿勢が見られ、中核派の内ゲバ論の誤りへの指摘も同意できるものがある。
 小西氏の内ゲバ批判の要点は「プロレタリア民主主義」の欠如ということであり、これには全く同意できる。民主主義とは複数の相違する主張を許容しつつ多数決によって行動を統一していこうとする論理であり、その根底には社会的多数派であるプロレタリアが団結して社会的少数派であるブルジョアジーを打倒して社会的権力を掌握する意図が貫かれている。ブルジョア権力の「疑似多数決」による社会支配を真の民主主義によって覆えす思想こそ社会主義者がもつべき原則なのである。そのためにも社会主義者は複数政党主義によって階級的に広く団結しなければならない。

(2)レーニン主義と日本左翼

 「検証・内ゲバ」の中で小西誠・生田あい・栗木安延各氏の主張には「レーニン主義」についての共通の見解が見られる。三氏とも「レーニン主義」についての「再検討」を表明している。『何をなすべきか』は、レーニンがロシア専制政治のもとで適用させようとした党建設理論であったが、彼の死後スターリンによって硬直した「レーニン主義党組織論」として定式化され物神化されて各国共産党に浸透し、日本でも共産党およびブントを通じ、日本新左翼全体に浸透していった。栗木教授は1903年当時と1920年当時のレーニンの党組織論の違いを指摘し、情勢との関係で党組織は柔軟に変化させるべきである事を述べているが、安保ブントとその後継セクトはレーニンの柔軟な組織論を理解できず、帝政ロシアの情勢に合わせた「非合法秘密政党」としての組織方針だけを、そのまま現代の日本の情勢に当てはめていったのである。そして、この歪められた「レーニン主義」が内ゲバの素地となる「党の絶対化」意識を広範に生み出していった。

(3)中核派軍事論のあやまり

 64ページにおいて小西氏は中核派「先制的内戦戦略」を国家権力の意図との関係で批判する。ファシズムの時代と、平和な時代とを革命党は区別しなければならない。情勢に柔軟に対応して、その闘争を柔軟に作り出して行かねばならない。中核派は階級闘争の「平和的発展の時代」に内乱路線=軍事路線を持ち込んだ事が、内ゲバを激化させ、彼らの組織と大衆闘争を後退させる原因となったと小西氏は言う。同意できるところもあるが、それでは不十分である。
 中核派のあやまりは「軍事」を「不的確な情勢判断のもとに適用した」事にあるだけではない。中核派は「軍事」と「党」との関係を誤ってきたのである。彼らが主張してきた「建党・建軍」路線は、党と軍事の一体化であり、党による軍の独占である。これはスターリニズム権力論の純化された姿であるといえる。

(4)軍事の主体は大衆である

 情勢が革命に向かって昇りつめて行くとき、軍事はそれぞれの勢力・党派にとっても決定的な問題となる。革命前夜のロシアでは「兵士ソヴィエト」が結成され、下級兵士達の兵士委員会により軍事が掌握されていった。兵士ソヴィエトが支持していたのはボリシェビキばかりではなく、メンシェビキ、エスエル、左翼エスエル、アナーキストなど雑多な勢力であった。しかしこうした軍内部の政治地図は十月革命へ向かって急速に「革命派」を押し上げる方向へと変化していく。そして十月蜂起を実行したのはペトログラードソヴィエトによって設立された「軍事革命委員会」であり、その構成はボリシェビキ、左翼エスエル、ソヴィエト兵士部などからなり、その実行部隊は軍隊各部隊と各工場に作られた赤衛隊であった。
 つまりロシア革命は「軍事」も含めて、真に民主的な労働者権力によって達成されたのである。つまり、権力を奪取するのは「武装した階級」であって「武装した党」ではない。

(5)反内ゲバ闘争勝利の道

 第四インター派は一貫して「内ゲバ反対」の立場をとってきた。小西氏は(そして生田氏も)その立場に賛同しつつも実践において有効性がなかったと批判する。本当にそう言えるだろうか?
 内ゲバ党派は自らの内ゲバを「党派対党派のイデオロギー闘争であり大衆には無関係」と信じ込んでいる。そして大衆に対して「邪魔な党派を排除した後で残った自分を支持せよ」とせまる。大衆には選択権は与えられないわけである。まことに自分勝手な理屈である。これでは大衆は党派に失望し、大衆運動が後退していく。内ゲバは対立党派だけではなく大衆運動への敵対なのである。だから反内ゲバ闘争は徹底的に大衆的におこなうべきである。「党派対党派」という内ゲバ論理を否定し「大衆運動対内ゲバ」の闘いへと運動をすすめた時、反内ゲバ闘争は勝利する。
 この事は72年の早稲田における川口君虐殺糾弾の闘争によって証明されている。革マル派は川口君への拷問・虐殺を「中核派のスパイを摘発した行為」とする事によって「革マル派対中核派の党派闘争であり、一般学生大衆とは関係ない」と居直ろうとした。しかし早稲田の学生大衆はそうは考えなかった。たとえ川口君が中核派の活動家であろうとなかろうと、彼が闘っていた部落解放運動はひとつの大衆的運動であり、何よりも彼は早稲田の学生の仲間であったのである。その彼に対する虐殺行為は学生大衆全体への敵対行為であると早大生たちは理解した。革マル派は早大生全体を敵にまわす事により窮地に追いつめられたのである。

(6)第四インター派の反内ゲバ闘争

 第四インター派は過去幾度か他党派からの敵対行動に見舞われてきた。84年には中核派によって全国的に襲撃され、多数の活動家が重傷を負った。脳挫傷や両手両足複雑骨折、片足切断などの許し難い暴挙であった。中核派は第四インター派の事務所や自宅を襲撃して入手した文書を機関紙『前進』に長期にわたって連続掲載するという許しがたい利敵行為もおこなったのである。
 当時、第四インターは三里塚「ABCD事件」を発端として組織内部の女性差別的実態が全国的に告発され、組織は混乱していた。自らの重大な過ちによって弱体化していた。中核派はその機会を狙って襲撃したのである。三里塚反対同盟分裂以来、第四インターに対する、執拗な襲撃・テロ・脅迫・誹謗中傷はおよそ一年も続いた。
 第四インターはこのテロに対抗して、中核派が影響力を持つ大衆運動のあらゆる戦線に向かって中核派のこの犯罪行為を暴露・告発し、中核派を擁護するものに対しては容赦ない糾弾をあびせた。中核派の内ゲバは強い反感を生み出し、それまで中核派にも友好・中立であった大衆運動、知識人、文化人の多くが態度を硬化させ、中核派のテロを糾弾する声明には350人もの著名な知識人や運動団体の活動家が賛同した。こうして90年代以降、中核派は大衆的影響力を大きくそぎ取られ、ほとんど丸裸となった。これは第四インターが反内ゲバ闘争を「大衆運動」として取り組んだためである。現在でも第四インター派の何倍もの組織動員力を持つ中核派が大衆運動戦線から排除され続けているのは、自らが選んだ「内ゲバ」路線によるものである。

(7)宮崎スパイ問題と中核派

 内ゲバ路線によって自ら大衆不信を作り出した中核派には、良識ある文化人は近づかない。だから宮崎学のような無節操で悪質な「文化人」が登場するや、中核派は喜んで跳びつき、その結果、手ひどい被害をこうむった。「宮崎スパイ事件」では中核派は被害者となったわけだが、それは革命党派が大衆運動に対して持つべき原則から逸脱し、無謀な内ゲバを繰り返した結果巡ってきた「因果応報」なのである。党派であろうと大衆であろうと誰であろうと、敵権力に対抗してたたかう者は思想が違っていても「仲間」である。だから共同の「原則」によって団結しなくてはならない。党派のエゴイズムのために内ゲバをおこなう者はこの共同の戦線から放逐されなくてはならない。この原則は現在も生きている。
 これが、小西氏が「第四インターの反内ゲバ闘争は実践において有効性がなかった」という批判に対する私の反論である。「内ゲバ」の勝利者は「大衆運動」の敗北者となったのである。小西氏は本多書記長殺害の際、一方的に革マル派に有利な「知識人声明」を紹介しながら、84年の中核派によるテロを圧倒的に糾弾した大衆的「共同声明」をなぜ無視するのか? 第四インターの大衆運動路線が中核派に勝利した証拠文書をなぜ取り上げないのか? 小西氏には新時代社発行パンフ『共同行動の原則と内ゲバ主義』を読み、当時の状況を再認識してもらいたい。

(8)大衆の中へ!

 小西氏は第四インターへの批判を簡単にまとめている。その中でたとえば革マル派に対する「日和見主義的でセクト的」ということばのみをとりあげて反論する。小西氏には第四インターの革マル派批判の本質が理解できていない、と断言せざるを得ない。小西氏が参考にした国際革命文庫『革命的暴力と内部ゲバルト』はいくつかの論文により構成されているが、ぜひとも全体に再度目をとおしていただきたいと願う次第である。
 もうひとつ、小西氏が中核派内部にいて内ゲバに批判的であったにもかかわらず「内ゲバ反対」を公言しなかった事実についても言及したい。氏は14ページで「中核派ではこのような党の路線に対して反対を公言したものは、即除名である。つまり、この時、中核派との絶縁を賭けて、このテロルに対して反対を公言する事が適切な選択であったか」と書いている。これは中核派という組織が言論の自由もない官僚主義の党派である事を証明するものとなっている。そのような非民主的な組織に小西氏はいったい何を期待していたのか。党派を捨てて大衆に向かうことは「逃避」になるのだろうか? その逆ではあるまいか。小西氏は逆に「スターリン主義党派にしがみついて大衆から逃避していた」と私には思える。「それ(内ゲバ)を乗り越える思想的発展を作り出す」(p17)のは言論の自由もない中核派内部ではなく、大衆運動の中にこそあったのだと考える。

(9)トロツキーに学べ

 トロツキーはスターリンに排除されながらもソ連邦とソ連共産党の防衛と革新のために闘い続けた。そしてもはや共産党の革命能力の復活を断念した時、「新しい共産党」の建設を決意したのである。1938年、第四インターナショナル創立大会に出席したのはほんの一握りのトロツキーの同盟者だけだった。しかし、今日その組織は世界中で前進を続け、各国でそれぞれ重要な社会的任務を担っている。
 私は高校時代よりの若干のつきあいによって、中核派には献身的で優秀な活動家がたくさんいた事を知っている。小西氏が中核派に期待していたのはそれらの活動家に対する思いなのだろうか。それならばなおさら、それら活動家諸君のためにも、断固として組織中央に対決するべきだったのではないだろうか。そして組織から除名されたなら一握りの同志たちと共に「新しい中核派」を建設するべきではなかったのだろうか。
 そして「新しい中核派」が大衆的な党派に成長するかどうかは、ひとえに大衆運動から受ける信頼の如何にかかっている。すべてのこころある人々は組織や自分自身の誤りについても隠す事なく大衆的に明らかにし、大衆とともに考えてゆくべきであると思う。新たな危機の時代に向かってこれに対抗する大衆運動の再生をめざし、この「原則」を徹底して実践することが、『検証・内ゲバ』のすべての著者の問いかけに答える道であるとわたしは思う。

参考:「検証 内ゲバ」

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でも結集してもなんにもないけど