四トロ同窓会三次会 2005年9月8日〜18日
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RE:感想 投稿者: 猛獣文士 投稿日: 9月18日(日)14時49分0秒
> しかし、その上で一言いわせてもらえば、猛獣文士氏には、何人と問わず中国共産党という巨大権力組織を認識する際に「通っておかなければならない必須の順路」というものが欠落していると思う。
巨大権力は中国共産党だけではないしね。そもそも私は、権力一般を否定するところまで考えていないし、主張もしていないですよね。改憲派氏が無政府主義者であるのならば、私はそれに対して同意はできないけれども、それなりの尊敬の念を感じますが、しかし、このハンドル名から見て、そうは思えないですね。さしずめ、中国の権力に対する場合には無政府主義になり、日米の権力に対する場合には「民主主義」者になるといったところでしょうか。
>毎度のごとくケツに引っ付けたように「生身の中国は完全ではなく、批判すべき点は多々存在します」と書いて、「だが、しかし」と続けるのは、猛獣文士氏の権力への観察が表層部に留まっていることを意味する。
そうではないでしょう。私の中国共産党に対する知識というのは、多分、ある意味では改憲派氏よりもずっと深いものがある。また、日中関係の経過に関する知識においても、改憲派よりも深いものがあると自負しています。そういう現状を踏まえた上で、さらに日本の立場から中国を批判するとしたらどういうものであるかを、模索しているのでありまたそれを期待しているわけですから。表層的な中国批判では到底納得できないし、意味を持たないと述べているわけです。
>日本政府への批判が深層部にまで達することを目指すならば、あらゆる権力に同様の態度を示すべきだ。
日本政府への批判を深層部までに達しようと求めているわけではないですね。
>ある一つの権力への批判、権力の支配下にある人間たちへの批判が、実はある権力の代弁であり、ある権力の支配下にある人間の発言であれば、その価値はゼロである。
この言葉はそのまま改憲派氏に当てはまるのではないでしょうか。
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いや〜、 投稿者: 臨夏 投稿日: 9月18日(日)11時57分37秒
中国人と日本人はかな〜り違いますよ。
貴兄の欧米での体験では、また違う面が見えたんでしょうね、それはわたしの知らない側面ですが。
違いが知りたかったら、やはり中華人民共和国に、住むなり、それができないならば旅行するなりしないと。
あと、わたしの大坂に関する主張は、「東京と違うんや!」というのは副次的なもので、
アイデンティティー問題でなく、「文化的に抑圧されてるものを解放しよう」ということ。
大坂弁も、だいぶ東京化してるでしょ?
東京文化も変遷してるやろうけど、「勝手に或は自由に変化」したものと、「抑圧情況の下で変化」したものは
違うわけですよ。
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もう一言 投稿者: 改憲派 投稿日: 9月18日(日)07時10分0秒
中国政府への批判が、「生身の中国は完全ではなく、批判すべき点は多々存在します」との一行で終わるような話ならば、「中国への侵略も、中国への潜在的な蔑視も、生身の日本人は不完全なゆえでいたしかたのないことです。しかし、それは中国人も不完全であることと同じです」とだけいって終わる問題である。
しかしまあ、そこまでして日本人と中国人を区別する必要性があるのか???俺なんか欧米に行くと、決まって「中国人でしょ?」と言われるよ。しかも、外見上が似ているからかもしれないが、欧米に住んでいて、最も気心の知れた仲になるのは白人や黒人よりもむしろ中国人や韓国人だよ。はっきりいって、「中国人と日本人は違う!」というのはプロパガンダだと思うね。大坂人と東京人が「関西弁と標準語は違うから、大坂人と東京人は違う!」というくらい俺にとってはバカバカしい区別だ。
ぶっちゃけいって、日本語と中国語の違いしかないんじゃないの?両国民が英語ペラペラになったら、地方で食い物や住居環境は多少違っても、沖縄と北海道の違いにしか感じられないような時代がいずれ到来するだろう。
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感想 投稿者: 改憲派 投稿日: 9月18日(日)07時04分7秒
ここの板で日本が中国を侵略してひどいことをしたということを否定する人はいるだろうか?
しかし、その上で一言いわせてもらえば、猛獣文士氏には、何人と問わず中国共産党という巨大権力組織を認識する際に「通っておかなければならない必須の順路」というものが欠落していると思う。
毎度のごとくケツに引っ付けたように「生身の中国は完全ではなく、批判すべき点は多々存在します」と書いて、「だが、しかし」と続けるのは、猛獣文士氏の権力への観察が表層部に留まっていることを意味する。
日本政府への批判が深層部にまで達することを目指すならば、あらゆる権力に同様の態度を示すべきだ。ある一つの権力への批判、権力の支配下にある人間たちへの批判が、実はある権力の代弁であり、ある権力の支配下にある人間の発言であれば、その価値はゼロである。
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鬼薔薇さんへ 投稿者: 猛獣文士 投稿日: 9月17日(土)18時29分53秒
>そこから引き出される結論は、日本人は“具体的に行なわれた日本の犯罪行為”だけを直視し、そうしたおのが歴史をひたすら「総括」しておればよい、ということになりましょう。
これは、私の議論を著しく曲解している言辞です。確かに、私は具体的に行われた日本による犯罪行為の総括を行うべきであると述べています。しかし、そのことをもって、私が
そうしたおのが歴史をひたすら「総括」しておればよい
などという傲慢な言い方をしているとするのは、鬼薔薇さんの勝手な判断であり、私の議論の趣旨とは異なるものです。
>そこにおのれの立場を見定め、「告発」を受けては「自己批判」してみせるのを「良心的」と考える日本人が少なくないのもまた事実にちがいございません。
実際には、そのような「良心的な」日本人よりも、歴史の事実を否定して居直り、さらに政治経済の制度における中国の後進性をあげつらって、これを非難しようとする日本人が、多数派を占めてきているのではないでのしょうか。私は、このような立場には徹底して反対しています。そのような立場の人物と論争するときに、主張のトーンが険しくなることもあるとは思いますが、そのトーンだけを見て私の主張をそのように解釈しているとしたら、それは誤解であることを強調しておきます。
もちろん、生身の中国は完全ではなく、批判すべき点は多々存在します。しかし、日本人の視点で中国を批判するためには、その前に通っておかなければならない必須の順路が存在しているということを忘れてしまうと、批判が批判にならなくなると私は思います。
>そこで、「中国(人)」と「日本(人)」とのあいだに画然とした区分けがなされ、それで「安心」するという心理機制が成り立つ次第とあいなります。
中国人と日本人の間には画然とした区分けがあることは、紛れもない事実です。そして、日中の歴史の評価については、その区分けによって見えるものが違うという点も、かなり強固な現実です。この相違点を鬼薔薇さんは否定するのでしょうか。
>わたし、そうした日本人の心性に、いわば純化されたナショナリズムの姿を見るのですね。昨今の「反中意識」というのも、そうしたナショナリズムの陰画にほかならぬと存じます。
結局、この結論自体は私が述べた中国侵略の歴史に対する戦後日本人の動揺、日本人が陥りやすい過大評価と過小評価、そして温存され続けてきた中国蔑視の心情と言う分析と,ほとんど変わらないものではないのでしょうか。同じ結論を見ているのにもかかわらず、私が非生産的な告発に終始しているというような断定に行き着くことになるのでしょうか。
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今から考えると 投稿者: 野次馬の視線 投稿日: 9月17日(土)09時55分14秒
戦前の日本共産党というのは、文学サークルの域を出ないちっぽけな組織だったとしか思えないのですが、当時の天皇制政府および軍部にとっては脅威だったのでしょうね。明治神聖国家のタガがはずれていたことにはじめて政権当局が気が付いたのが、日露戦争後の日比谷事件。そして、大逆事件を経て、戊申詔書を出す。
http://www.shujitsu-h.ed.jp/100syunenHP/konnsyuunowadai%208.htm
それでも、流行する大正のリベラリズム潮流、それに続くアカデミックな分野でのマルク主義の浸透に恐れをなして、さらに関東大震災後には国民精神作興ニ関スル詔書を出す。
http://www.geocities.co.jp/Berkeley/3776/sakkou.html
いずれも、直接的に革命運動への恐れを端的にあらわしたものだと思います。
日本革命をつぶすためには、何よりも朝鮮革命、中国革命を圧殺しなければならない、というのが当時の権力者たちの意識ではないか、と私は思っています。
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Re:反革命戦争>野次馬の視線さま 投稿者: 鬼薔薇 投稿日: 9月16日(金)23時43分20秒
>鬼薔薇さんが提示した「反革命戦争」について相互不理解が生じたのだと思います。
その前に、そもそも「反革命戦争」など語ること自体が拒まれたのですから(苦笑)。ま、猛獣分子さんのお気持ちも、その根拠も、わからぬことはございませんが。
>私の記憶ではこの用語は、ベトナム戦争最盛期に日本の新左翼党派のいくつかが提示した概念でしょう。……(中略)……その概念を30年さかのぼって日中戦争にあてはめることは卓見だとは思いますが、少し説明が必要かと。
はい、ご要請を受けて「結論」だけ転がしたにすぎませんので。その説明をさせていただける段階へ対話を進められなかったのはひとえにわたしの言説の非力でございました。
>もっと一般的には米帝による侵略戦争という言い方がなされていたと思います。それに対して、19世紀型の植民地侵略戦争の延長でとらえるのではなく、1950年代のアルジェリア革命以降の第三世界の革命運動全体の視野からとらえるというようなものだったと思います。
おおまかそんなところであったかと。けれどもわたしが日本の中国侵攻を「反革命」とし、大東亜戦争を「反革命戦争」と規定する考えに至ったのは、ご言及の高揚期の後の退潮期、「自国帝国主義打倒!」論がそのまま“左翼ナショナリズム”へ水平移動し、「差別告発」の自閉症が蔓延する過程、そして「反米愛国」が連合赤軍を析出していくなかでのことでしたから、仰る「あてはめ」とはいささか気分はちがっております。
その時期わたしは、「70年安保・沖縄決戦」の敗北の意味、あの時期の闘いの限界を検証すべく、近代日本の〈アジア〉との関わりをテーマとするささやかな研究会に加わりました。日本近代史にとって最大の「他者」は〈中国〉であり、その〈中国〉との関係が劇症的に爆発した大陸侵攻=「大東亜戦争」の政治思想的総括は、「戦後革命」の敗北が生んだ秩序=戦後民主主義によって閉ざされてきたと思われました。最後の終戦処理=沖縄施政権返還という政治過程にあって、あの戦争全体をどう捉え、いかに規定するかが、「敗北」を対象化する上での試金石と思われたのでございます。それはまた、「戦前」と「戦後」とを「8.15」で黒と白とに切り分ける定番の意識構造を超克するものでもあり、当然のことながらまた、中国革命に対する一般的な見方を再審することともなりました。そこからいたしますと、日本知識人の中国認識に猛獣分子さんが向けられる深い不信のまなざしも、了解できぬものではございません。
ついでですけど、このあいだの『靖国問題』に抱く違和感に触れますと、「靖国」を明治以来の近現代史全体の視野に置くという方法が、「大東亜戦争」を「台湾支配」以来の「植民地支配=侵略」に繰り込んでしまって、あの戦争のもつ独自の意味を視野の外に置く結果になっていると思うのです。その点、あれはやはり高橋氏の著作なのですね。といって、まことさんの「イチ押し」を否定する心算ではございませんが。
「大東亜戦争=反革命戦争」説の内容説明にはなりませんでしたね(苦笑)。
不発に終わった鬼薔薇−猛獣分子論争を離れてもなおご関心でしたら、サワリだけも語らせていただくにやぶさかではございませんが、すでにこの場もふさわしくはなさそうな雰囲気ですし。さて、どこがよろしいかしら。
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Re:挑戦的な書き方でしょうか>猛獣文士さま 投稿者: 鬼薔薇 投稿日: 9月16日(金)23時41分26秒
>ちょっと、対話的でないですね、この下の投稿は。
自覚なさってのことなら、ことさら申し上げることもございません(苦笑)。
>鬼薔薇さんの論法は、革命反革命の公式を導入することによって、具体的に行なわれた日本の犯罪行為を巧妙に昇華する類のもののようにも見えます。(前回)
>日中戦争で、誰が革命的で誰が反革命だったかなどということも、個々人の判断でいかようにも解釈されるものです。(今回)
要するに、日本帝国主義の中国侵攻を「反革命」と規定することに原則的に反対でいらっしゃる――質問へ直接のお答はいただけませんでしたが、これでよくわかります。
>これも論点ずらしになるでしょうか。
戦争の性格規定を個人のパーソナリティ問題にするのは、「ずらし」というより「すり替え」と申すべきものではないかと(苦笑)。
でも、これまでのやりとりで、言明されていないことも“透けて見え”てきた感じがいたします。「反革命」の相手は「革命」ですが、ろくな革命運動もできずにきた日本人左翼が革命だ反革命だなど話題にすること自体がおこがましい、ということでしょう。日本人知識人の中国(革命)認識が相互反転する「過大評価」と「過小評価」のご指摘、あるいはまた日本の革命運動に対する過大評価のご疑念など、以前のご発言からもそれは濃厚にうかがうことができるところでございます。
そこから引き出される結論は、日本人は“具体的に行なわれた日本の犯罪行為”だけを直視し、そうしたおのが歴史をひたすら「総括」しておればよい、ということになりましょう。そこにおのれの立場を見定め、「告発」を受けては「自己批判」してみせるのを「良心的」と考える日本人が少なくないのもまた事実にちがいございません。そこで、「中国(人)」と「日本(人)」とのあいだに画然とした区分けがなされ、それで「安心」するという心理機制が成り立つ次第とあいなります。わたし、そうした日本人の心性に、いわば純化されたナショナリズムの姿を見るのですね。昨今の「反中意識」というのも、そうしたナショナリズムの陰画にほかならぬと存じます。
>確かに、鬼薔薇さん自身は中国革命に関する評価をまったく語っていません。しかし、日本の中国侵略を反革命であると規定したいという表現に、その先に何を言いたいのかが透けて見えるのですが。
何をどう語ろうが“おまえの本心はわかっているよ”と決め付けられた状態での対話も気持ち重苦しく、“腹の探りあい”めいた擬似対話には意欲もわきませんし、しつらえられた心の壁を穿つ言葉をあれこれ捜しては重ねるのも辛いものがあり、おのが非力を恥じつつこのあたりで退散したほうがよろしいかという心境でございます。
ご多忙のなか、お手数わずらわせて申しわけございませんでした。
では、ごきげんよう。
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反革命戦争 投稿者: 野次馬の視線 投稿日: 9月13日(火)04時28分50秒
鬼薔薇さんが提示した「反革命戦争」について相互不理解が生じたのだと思います。他の諸例もあるのですが、私の記憶ではこの用語は、ベトナム戦争最盛期に日本の新左翼党派のいくつかが提示した概念でしょう。もっと一般的には米帝による侵略戦争という言い方がなされていたと思います。それに対して、19世紀型の植民地侵略戦争の延長でとらえるのではなく、1950年代のアルジェリア革命以降の第三世界の革命運動全体の視野からとらえるというようなものだったと思います。その概念を30年さかのぼって日中戦争にあてはめることは卓見だとは思いますが、少し説明が必要かと。「支那」がなぜ差別語か、ということとも大きく関係することだと思います。議論が錯綜せざるを得ないのは、実際に起きた中国革命と、大日本帝国が抑止しようとした「革命」との関係をとらえることが容易でないからです。大日本帝国が具体的に抑止しようとしたのは、国民党政府(蒋介石首班)による国民革命でした。(さらにその向こうに共産革命を幻視していたのは事実ですが。)
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挑戦的な書き方でしょうか 投稿者: 猛獣文士 投稿日: 9月12日(月)22時33分57秒
ちょっと、対話的でないですね、この下の投稿は。
もう少し砕いて説明できればいいのですが、難しいものですね。時間もないし。
たとえば、私と鬼薔薇さんはどちらがより革命的であるかというような話は、判断できないですよね。日中戦争で、誰が革命的で誰が反革命だったかなどということも、個々人の判断でいかようにも解釈されるものです。
確かに、誰が戦争を始めたのかとか、いつ戦争が始まったのかとか言うことでも、歴史家の主観的な解釈が混入することは可能ですが、しかし、革命・反革命という概念に比べれば恣意性が少ない。
私は、こういうあまりにも多様な解釈が成り立つような概念で、歴史を語るべきではないと思うのですが。
これも論点ずらしになるでしょうか。
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鬼薔薇 さん 投稿者: 猛獣文士 投稿日: 9月12日(月)00時41分4秒
>質問はしても相手の質問には答えない、出された論点には少し軸をはずして自説を開陳する、そして時折相手が言っていないことを問題のように取りあげる――「対話」に対するあなたのご姿勢、なかなかに面白く拝見しております(苦笑)。
これは、ご自身の論法の描写と思えますが。私はは、革命と言う用語に関する貴殿と私の解釈の相違を述べています。
確かに、鬼薔薇さん自身は中国革命に関する評価をまったく語っていません。しかし、日本の中国侵略を反革命であると規定したいという表現に、その先に何を言いたいのかが透けて見えるのですが。
>そこを突き抜けるには、問題を具体的政治過程の評価へ移し変えて「価値」観念を相対化することこそ肝要かと存じます。単なる「侵略」ではなくて「反革命」というわたしの大東亜戦争認識は、そうした議論を意図しております。
反革命という用語を使用することで、何がつきぬけられるのか鬼薔薇さんの論旨はまったく飛躍しているか、何か語っていない暗黙の前提が隠されているかどちらかしか考えられませんね。
むしろ、鬼薔薇さんの論法は、革命反革命の公式を導入することによって、具体的に行なわれた日本の犯罪行為を巧妙に昇華する類のもののようにも見えます。
私も、多少なりとも日本社会に「建設的に」コミットしていて忙しいので、これに対する鬼薔薇さんの反論についての再反論は、先になると思いますので、あしからずお願いします。
なお、竹内好の「日本とアジア」は文庫本ではなくハードカバーの本で入手していますが、私自身は前に書いたような印象、つまり竹内は良心的に問題を捉えようとしていたとしても、問題を解決したとは思えないというものです。鬼薔薇さんの博学な解説を聞かせてもらえれば、この印象も少しは替わるかもしれませんね。
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「価値的」対話>猛獣文士さま 投稿者: 鬼薔薇 投稿日: 9月11日(日)23時09分41秒
質問はしても相手の質問には答えない、出された論点には少し軸をはずして自説を開陳する、そして時折相手が言っていないことを問題のように取りあげる――「対話」に対するあなたのご姿勢、なかなかに面白く拝見しております(苦笑)。
>私が言いたいのは、中国革命をそのものとして認識し、それを評価するべきだということです。中国革命に対する過大評価は、中国革命に対する過小評価と同じように不適切だと思います。
続く過大/過小評価まわりのお説はそれなりと思いました。でも、「過大」でも「過小」でもない「適切」な評価、“中国革命をそのものとして認識し、それを評価する”その内容がポジティブに語られなければ、上のくだりは、“バカの大足、間抜けの小足、ちょうどいいのは俺の足”というのと同様、ほとんど無内容かと存じます。わたしの言説が「過大評価」に類するというのがご趣旨でしたら、そこを具体的にご指摘くださいませ。
>中国で革命が徹底して完遂されたことと、日本が中国を侵略して中国に大きな損害を与えたことは、因果関係ではつながっているかもしれませんが、価値的な評価としては別の問題としてみるべきではないでしょうか。日本や西欧の帝国主義列強が中国を侵略し、中国人民に大きな損害を与えたことはそれだけで非難に値することであり、中国が革命を起こして自らを変革するかどうかと言う問題はこの非難から切り離して考えるべきではないでしょうか。
「革命」認識からそうした「非難」だけを“切り離して”語ってすませたいのがまさしく「戦後民主主義」なのだ、というのがわたしの提出した論点でございました。そのように切り離してしまえば、ことは「善と悪」「非難とお詫び」という単純な「価値」の絶対世界に閉鎖してしまいましょう。それゆえその底からたえず“中国に対する蔑視や攻撃がぶり返す”ことにもなるのではないでしょうか。
そこを突き抜けるには、問題を具体的政治過程の評価へ移し変えて「価値」観念を相対化することこそ肝要かと存じます。単なる「侵略」ではなくて「反革命」というわたしの大東亜戦争認識は、そうした議論を意図しております。それに対してあなたは、仰るような「価値的な評価」に軸を置きたがっておられるのですね。「不正義」に対する「正義」の主張の大切さをわたし少しも否定いたしません。でもそれは、具体的局面における行動論理としてかけがえのない意味を持つのであって、「歴史認識」をそのレベルに置いてしまえば、観念の二分法的対立が固定するだけではないかと思います。
>日中戦争についてですが、確かに抗日戦争を勝利するために、中国は根本的な体制変革を行なうことになり、まさに戦争が革命を引き起こしたといえます。しかし、この革命の面だけに注目して日中戦争を世界革命期の一つの事件という風に分類するというのはどうなんでしょうか。
おっしゃる「分類」の当否、わたしへのご批判でしたら、発言のどこがそのようにみえたのか、具体的にお示しいただきたいですね。直接の批判を避けてほのめかすように語るのが奥ゆかしさとお心得でしたら、それはひどく「日本(人)的パターン」のお振舞いと思いますけど(笑)。
福沢「脱亜」論以後近代日本の「アジア」観がひきずってきたアンビヴァレンツな諸相は、きわめて重大かつ深刻なテーマと思いますが、対話を深めるには何か媒介が要りそうですね。前に一部引きました竹内好「アジア主義」論文、格好の素材かと思いますが。今は文庫に収録されていると思います。ま、日本の自称「左翼」も(一部の好き者以外は)あまり読まぬようで、だからダメなんですけどね(笑)。
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鬼薔薇さんへ 投稿者: 猛獣文士 投稿日: 9月11日(日)15時44分7秒
こんにちは、
私が言いたいのは、中国革命をそのものとして認識し、それを評価するべきだということです。中国革命に対する過大評価は、中国革命に対する過小評価と同じように不適切だと思います。
日本の対アジア認識での問題点は、福沢諭吉の脱亜論のようにあからさまに欧米帝国主義の側に立ってアジア諸国を攻撃してもいいんだという割り切った見方があった一方、心のどこかで自分たちはアジアの一員で、自分たちの究極の目的はアジアを解放する事であるという様な考え方がわだかまっていたことにあるのではないでしょうか。大東亜戦争でも、いよいよ苦しくなってくるとそういうスローガンに逃げようとしたし、良心的な知識人はみなそういう現実と理念のギャップにはさまれて逡巡することになった。非常に大ざっぱに言えば、日本が中国に対して総括し切れていない問題というのは、そのようなものだと思います。
福沢諭吉の脱亜論は、いわば自分たちは自分たちのことで精一杯だから、アジアを侵略することも仕方がないという割り切り論だと思うのですが、アジアを解放しようという理念は明らかに割り切り論に比較しても正論だと思うわけです。だから、敗戦までの日本が欺瞞的にしか提唱できず、実際にはまったく逆の路を突進したアジアの解放という理念を、少なくとも中国大陸については基本的に実現した毛沢東の中国革命は、日本の知識人は簡単には批判できないものだったと思います。
私は、こういうところに日本の知識人の中国に対する過大評価が発生する背景があるのではないかと思います。アフガン板での議論でも言及したのですが、日本共産党の佐野・鍋山の転向声明というのがあり、ここでは中国共産党に対する攻撃は反動的であるが、中国国民党「軍閥」に対する攻撃は「客観的に」進歩的であるから、これをうまく転化して利用できるというような分析を並べ立てて、大東亜戦争を肯定しようとするわけです。戦後でも、中国に対する過大評価により、新中国の中国人は、日本人よりも人間的に高徳であるとか、中国の制度は人民大衆の制度であるとかいうような議論で中国を持ち上げるというか、自分勝手に美化した中国像を作り上げ、そのイメージに中国の現実が外れていることが分かると、逆に中国に対する蔑視や攻撃がぶり返すというような振幅が日本人の中にあるのではないかと思うわけです。
日中戦争についてですが、確かに抗日戦争を勝利するために、中国は根本的な体制変革を行なうことになり、まさに戦争が革命を引き起こしたといえます。しかし、この革命の面だけに注目して日中戦争を世界革命期の一つの事件という風に分類するというのはどうなんでしょうか。中国で革命が徹底して完遂されたことと、日本が中国を侵略して中国に大きな損害を与えたことは、因果関係ではつながっているかもしれませんが、価値的な評価としては別の問題としてみるべきではないでしょうか。日本や西欧の帝国主義列強が中国を侵略し、中国人民に大きな損害を与えたことはそれだけで非難に値することであり、中国が革命を起こして自らを変革するかどうかと言う問題はこの非難から切り離して考えるべきではないでしょうか。たとえば、国民政府が抗日戦争を戦ったことも、清朝の政権がアヘン戦争でイギリスに抵抗したことも、それぞれ正義の闘いだったのであり、これはイラクの体制がいかなるものであってもアメリカの攻撃に対する抵抗は正義であるというのと同じではないかと思っています。
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「革命」の用法 投稿者: 改憲派 投稿日: 9月11日(日)06時13分20秒
猛獣文士氏と鬼薔薇氏で「革命」の使い方が違うから議論がかみあってないと思いますが。
猛獣文士氏はある地域での体制変革運動という意味でしか使っていない。
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議論の焦点>猛獣文士さま 投稿者: 鬼薔薇 投稿日: 9月11日(日)00時55分53秒
前回こうお書きでしたね。
>問題は日本、中国、そして台湾に対する見方であると以前から鬼薔薇さんも指摘しているようです。……(中略)……鬼薔薇さんのご意見をここで聞かせてくれないですか。
あなたが「清算」や「総括」を強調されていたように、問題は日本と中国との関わり、なかんづくあの「戦争」の意味把握にあったのではございません? それはわたしの思い違いだったのでしょうか。話の焦点がそこにあるとして間違いないなら、「革命という用語」の捉え方が限定的かどうかだの「歴史的に革命というのはいいことばかりではなかった」かどうかだの、さらには日本の革命勢力に対する評価が過大かどうかなどというのは、論点のすり替えとまでは申さぬにしても、話がそうとうにズレておりましょう。
>革命と反革命という線で日中両国の「人民」を分離することは、ちょっと無理があるのではないでしょうか。
わたしは「大東亜戦争」の性格付け(いいかえれば“日本は中国に何をしたか”)、それを戦後日本社会はどう捉えていたかを問い直そうとしております。それこそあなたの問題にしてこられた「総括」そのものに関わることと思いましたので(ちがいます?)。「戦後民主主義」は「中国革命」を「肯定」していたか、と問題を立てたのもその関心ゆえでございました。
たしかに「肯定」的な評価を一般化させたのは事実でしょう。それとの対比で言えば、“中国革命全体を根底から否定する”やに思われた言説をあなたが許容しないのも不自然なこととは思いません。けれども戦後日本における中国革命の「肯定」には、大きな陥穽があったと思うのですね。つまり、中国革命そのものというより革命によって生まれた国家の存在を「肯定」したのであり、その中国=他国の「肯定」によって自「国家」の存在を対照的に同時肯定し正当化するという機制でございます。そこで、かの戦争における「反革命」としての関わりは巧妙に消去されたというのがわたしの認識であり、「清算」「総括」云々もそこに深く関わっていると思うのです。
大東亜戦争を「反革命戦争」と認定することは、おっしゃる日中人民の「分離」とは逆に、真の連帯の可能性をさしのぞく道とわたし考えます。“中国革命の波及(反革命の逆流)を押しとどめ「国体」を護持して成立した秩序システム”という、ごく切り縮めた表現の意味もそこにございました。その点の叙述を捉えて“日中両国の「人民」を分離すること”と言われる猛獣文士さん、あなたは「大東亜戦争」を単なる「侵略」にとどまらぬ「反革命」として捉えることには否定的でおられますか?
それはあなたが祖国の革命をどう捉えておられるかにも関わることでしょう。
>私自身は、少なくとも中国革命は一定の時期に完結してもいいと思っています。
今なお革命は進行中であり、未だ完結していないというご認識ですね。孫文が今際に遺したと伝えられる有名な言葉が思い浮かびますが、では中国革命の「完結」とはどういうイメージでいらっしゃるのでしょう?
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鬼薔薇さんへ 投稿者: 猛獣文士 投稿日: 9月10日(土)19時44分4秒
こんにちは、
>わたしの意見だって、ちゃんと書いたら長くなりますよ(笑)。それにあなたがこれまでお書きになってきたものも、申し訳ないけどわたしあまり読んではおりません。
>日本による中国侵攻は、単なる「(帝国主義的)侵略」ではない、それは「反革命」であった、それを「侵略」に切り縮めれば、対象となった中国の「革命」も視野の外に追放されることになる。「大東亜戦争」と呼称されたあの戦争は、古典的帝国主義戦争でもなければ単なる「侵略戦争」でもなく、「革命」に対する「反革命戦争」であった。その「反革命戦争」という性格を巧みに隠蔽したのが「一億総懺悔」であり「安らかに眠ってください、過ちは二度と繰り返しませんから」である。それは、中国革命の波及(反革命の逆流)を押しとどめ「国体」を護持して成立した秩序システムであり、「平和と民主主義」はこの秩序の言葉として、保守と革新にみごとに共有された。
この革命という用語なんですが、私はもっと革命という概念を限定的に捉えています。政治的な革命でいえば、中国革命とか、フランス革命、ロシア革命などといいますが、やはり歴史の一時期、ある限定された国や地域で以前からの制度を根底的に覆し、新しい制度や統治を実現した、あるいは実現しようとした運動であると理解してます。中国では、辛亥革命以降、革命が正義であり、反革命は不正儀であるという価値観が浸透し、その革命は中国国民党と中国共産党の合作と対立を軸に進行して行ったので、むじな氏のように中国国民党を否定し、中国共産党を否定すれば中国革命全体を根底から否定することになるのではないかというのが、私の言った意味ですね。
日本ではその価値観はまったく逆で、革命は大罪であり、国体の護持が正義であったわけですから、革命と反革命という線で日中両国の「人民」を分離することは、ちょっと無理があるのではないでしょうか。
誤解かもしれませんが、あえて聞いてみます。鬼薔薇さんは日本の「革命」勢力を過大評価しているのではないでしょうか。戦前も、戦中も、戦後も。私も、革命を求めていた左翼の人々は好きですが、日本の社会を実際に動かし、維持していたのは、別のタイプの日本人だったと思うのですが。
また、私は、歴史的に革命というのはいいことばかりではなかったと思っているのですが。フランス革命でも、ロシア革命でも、中国革命でも、犠牲は大きかった。もちろん、避けられなかった犠牲もあると思いますが、革命思想にこだわらなければ回避できた犠牲もあったと思います。もちろん、革命を起こせなかったら、どういう犠牲が強いられ続けたのかも秤量すべきですが。
私自身は、少なくとも中国革命は一定の時期に完結してもいいと思っています。
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ここらで三次会も 投稿者: パルタ(パルタック星人) 投稿日: 9月10日(土)00時23分10秒
三次会はどちらかというと議論をし合う場になっているようですが、無視されてもいいんで、そろそろ行動派が復活するような議論にしていきたいです。北京オリンピックまであと3年。近代国家は中国でもミャンマーでもインドネシアでもトルコでもある意味、封建国家より少数民族に過酷な態度を取るようになっているように見えます。中国発のグローバリズム・公害・台湾武力行使発言と資源獲得と軍拡・軍閥の問題。恐らくマスコミを使って軍事利権維持のために拉致問題解決及び朝鮮統一を阻止を図っているであろう軍閥の問題。再び強まった男らしさの強制と性教育叩き・バックラッシュの問題。児童虐待・団塊世代大量退職と少子化による医療・福祉・教育の問題。
あらゆる問題が中国を中心に世界に拡大するでしょう。他国の貧困と異なり、中国では商品と共にソーシャルダンピングが輸出されている。団塊世代が一斉退職した年の翌年の2008年までに何を為すべきなのか?中国政府が全政治犯釈放を実行しなければ、全世界との貿易と北京オリンピックは不可能になると思わせるほどかつての南アフリカや今のイスラエルのように中国政府を追い詰めることが必要なのではないか?と思うこの頃です。
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新左翼は 投稿者: 野次馬の視線 投稿日: 9月 9日(金)21時34分4秒
日本共産党中心に担われた、昭和20年代の社会運動に対するアンチテーゼと言っていいのではないでしょうか。それもかなりルサンチマンに満ちた。戦後民主主義の一方を、GHQと天皇および官僚が、他方を、日本共産党を中心とした勢力が担っていた事実を考えれば、たしかに戦後民主主義批判という面がなかったわけじゃない。ところが、哲学サークル的な側面の強い、トロ聯=革共同は別として、全学連中枢勢力=共産主義者同盟というのは、学生自治会という戦後民主主義そのものを背景にしているわけじゃないですか。それもかなりインチキをして。砂川闘争にしても安保闘争にしても、基調は戦後民主主義的なものだったと思っています。「心に杭は打たれない」も「岸を倒せ」もね。
「連合赤軍」に入った流れの少なくとも半分は、中国派(朝鮮戦争時代の所感派の流れを汲むと思われる)ですから、御指摘の分析は半ば異なるのではないかと思います。
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三浦さん>バッジさん> 投稿者: 臨夏 投稿日: 9月 9日(金)21時30分28秒
三浦さん>
新左翼運動については納得です。
たしかにそうですね。わたしは新左翼も、旧左翼の地平を乗り越えられなかったと思っていたもので、
先の質問になりました。
バッジさん>
>ブレジネフやゴルバチョフの娘は、反共の尖兵に成り下がっています。
これはどういうものでしょう??
「共産主義」であればなんでもええのでしょうか?
「反共」、いいじゃないですか。(ロシアなんでしょ?(苦笑))
彼女らを、応援したいと思います(具体的にはないが)。
*いや、貴兄の文面だけでは、’その「反共」の内容まではわかりませんが、一般論、ということで。
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勿論、皆さんのお立場では当然そうなります 投稿者: 三浦小太郎 投稿日: 9月 9日(金)21時17分25秒
改憲派さんへ、勿論、皆さんのお立場(国家、民族といった概念でくくられるのを否定されるお立場)では勿論そうなります。これは当然ですよね。そして は嬉しいのですが、まあそういうチャンスはまだ当分来ないであろうと。それは別に出版社が臆病なのではなくてね、売れっこない&それほど新しい視点が示されているわけでもない本をこの不景気に出すわけにいかんでしょ。(三浦さん)
とか リ)05時06分53秒
藍博洲という人は知らないで キネいんだから。
そもそも君は「パックス(平和)
>脱力。
>あんさん「関西人」か。
わたしは何度も関西人だというアイデンティティを表明している。
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