四トロ同窓会三次会 2002年2月21日〜24日

書き込み自由です。二次会に飽きた方はどうぞこちらへ\(^o^)
----------------------------------------------------------------------------
カー 投稿者:川魚  投稿日: 2月24日(日)22時36分16秒

は、岩波新書の、『歴史とはなにか』だけ読んでます。
どうにも、教養不足です(^^;
たしか、この本は、清水幾太郎が翻訳でしたよね。

「歴史とは、過去と現在との対話や」なんて、現代思想ですよ!
これ読んだころは、過去とは、鉄のように不動の実体や、と思い込んでたので、
過去も変わりうる、との説を読んで、すごい衝撃うけたものです。

日本の歴史学者なんて、哲学が不足してて、京都学派の最高峰、宮崎市定ですら、
「歴史とは、事実の積み重ねの学問」、なんて言うて、だっさい限りです。
ヨーロッパブルジョア文化の分厚さを、やはり感じます。

----------------------------------------------------------------------------
鬼薔薇さんへ 投稿者:れんげ  投稿日: 2月24日(日)20時21分00秒

 鬼薔薇さん、重ねて詳細なレスありがとうございます。解放6号論文の引用について言及いただき、うれしく思います。私は当該論文の果たした役割についてはよく知りませんし、「詩的」な文章リズムから引用部分を切り取ることについて若干危惧するところもあります。ただ「詩的」であればこそ、かえって心情にストレートにおちていく面が強いと思い、そこで言う非合法と暴力の強調に注意を喚起したのです。
 鬼薔薇さんのご指摘のとおり、「プロレタリアート」を社会的存在と捉えれば、「合法/非合法」の立てわけは意味をなさず、政治集団としての実体と捉えれば当該社会の法的環境によって「合法/非合法」の違いとなって現れてきます。鬼薔薇さんの先の論考で、階級が「見える」存在になる契機としての「武装」にふれられていたのは、このこととあわせてよく理解できました。
ただ、私の主張したいことの中心は、「非合法」を強調することが(戦後日本社会を前提とします)、既存の法体系に埋め込まれている自由や人権の理念を、無頓着に捨て去ってしまうことへの懸念だったのです。19日の投稿では全く展開できませんでしたが、まさに日本左翼(既存を含む)のなかに、とりわけ「人権」についての感覚が乏しかったことが様々な運動の退廃を生みだす根拠になってしまったのではないか、ということなのです。 
 前の投稿でも少しだけ述べましたが、ベトナム戦争に反対するような闘争のなかで「実力行使」をすることに私は決して反対ではありません。つい最近「国労冬物語」を観ましたが、あの臨時大会の会場で「壇上占拠」する怒りの衝動を、「暴力」として切り捨ててしまうことにも反対です。人間的なものが冒涜されるときの怒りの行動は正当です。行使される「暴力」の質はここにかかるべきだと思います。私がこの場でおそらく多くの人とズレているのは、それを「プロレタリア」という形容詞と結び付けようとしないところでしょう。先の国家論で言えば「階級対立の非和解性」を措定するか否かが大きな議論の分かれ目になろうかと思います。非和解性をあらかじめ措定しておけば、暴力の出番を計算しておくことになります。計算された暴力には腐敗が忍び込む、というのが私の捉えかたなのですが。
街頭で石っころを握ったこともない若造が、生意気なことを申しました。

 ザグレブのことですが、まだクロアチア領内(クロアチア人が主張する)の1/3ほどをセルビア人勢力が支配していたときに行ったことがあります。ザグレブの街は内戦の戦火にまきこまれておりませんので、美しい街並みはそのままです。ただ、私が行った3ヶ月あとにセルビア人地域からロケット弾が飛んできて、路面電車に命中し多くの人が亡くなりました。

 二次会掲示板のほうがよかったのかしら。

----------------------------------------------------------------------------
E・H・カー、ちょっと訂正(^^) 投稿者:まっぺん  投稿日: 2月24日(日)18時13分32秒

先日、古書店で見つけたのは「ロシア革命」と「ロシア革命の考察」の二冊でした。
いま「考察」の方を先に読んでいます。こっちはいろいろ寄せ集めで第三章は「赤いローザ」。
第九章「トロツキーの悲劇」はドイッチャー三部作の評論です。
「勝利者」「敗北者」「亡命者」に分けて論じています。
大学時代、たしか「歴史とはなにか」「新しい社会」を英語教材にして読んで
文体の美しさと、良質な知的エッセンスに魅了されたおぼえがあります。久しぶりに読むなぁ〜・・・・
「ソヴィエト・ロシア史」はとっても読みこなす能力ありませ〜ん((((((^^:)

----------------------------------------------------------------------------
民主主義のこと・2―補:解放派「滝口テーゼ」に関連して 投稿者:鬼薔薇  投稿日: 2月24日(日)13時53分04秒

 れんげさんが「2次会」2月19日のご発言で、“難解な解放6号論文”に触れて引用された「滝口テーゼ」を素材に、少し論点明示をはかりたく思います。

>プロレタリアートは、本質的に非合法的存在であり、あらゆる革命は、本質的に暴力的で
>ある。これを確認するものだけが共産主義者である。(解放6号論文)

 れんげさんはこれに対して、はっきり拒絶の意志を表明なさいましたが(引用後出)、わたしにはこのテーゼ、きわめて危ういもの、あえて申せば基本的な点で誤った前提に立っているように思われます。また、れんげさんのご理解にも疑問がございます。
 
 上の引用文、ふたつの部分から成っておりますが、その脈絡は定かではございません。ある種「詩的」な文章リズムでひとつながりに読まれると思いますけど誤解の余地を残し、政治文書としては危険なことと申すべきでございましょう。
 
@「プロレタリアートは本質的に非合法的存在である」か?
 「プロレタリアート」を社会的存在と捉えれば、法(政治規定)に照らして考えること自体が錯誤となります。また、武装し「権力」として姿を現わしたときには、それを規定すべき法はすでに相対化されており、相手権力の法に照らせば非合法、自権力の法では当然合法となりましょう。いずれをとってみても、「階級」を扱う上で「合法/非合法」という問題の立て方は失効と言わねばなりません。 
 それが有効となるとすれば、「プロレタリアート」を「政治的」実体と想定する場合だけでございます。けれどもそれは、階級としての「プロレタリアート」自体ではなく、そのイデオロギーを体現する政治集団(党)のことでしかありえません。であれば解放派は「党」をもって「階級」を代位させているわけで、レーニンの「代行主義」を拒否してルクセンブルクに就いたはずが、ここでは奇妙な反転に陥っているように思われます。
 
 革命党がどこまで「合法的」でありうるかは状況によりましょう。20世紀初頭、社会主義政党はロシアでは非合法、西欧では合法でございました。でもこれは「本質」の問題とはちがいましょう。また、「非合法」だから「革命的」というわけもございません。
 
A「あらゆる革命は本質的に暴力的である」か?
 「階級対立の非和解性の産物としての国家」の権力を転覆する「革命」が非和解的な過程であるという意味で「本質的」というなら抽象的には正しいでしょう。けれどもその「階級対立の非和解性」がどのような対立をどのように経過するか、これまた彼我の関係で規定される複雑な過程として現れるもので、抽象的な正しさは何も意味いたしません。解放派は、この種の抽象的「本質」議論にどこかで足をすくわれたのではないでしょうか。

 実際の「党」は、この複雑な過程の全体にわたる戦略を組み立て、個々の局面の戦術を編み上げることを要求される存在でございます。それは予想や計画を越えた事態に次々と遭遇し、試行錯誤を含めてそれらに対処しながら遂行されるほかないものでしょう。それを教訓として消化し次の方針へ昇華させていくには、戦線内部の「民主主義」が不可欠とわたし考えます。それがプロレタリア革命権力を構成する民主主義であれば、「プロレタリア民主主義」と呼ばれるに値することと存じます。
 
>「プロレタリア民主主義」の内実が、こうした主張を排除するものでなければ、私はそれ
>を支持しません。対権力といえども、暴力行使をあらかじめ戦略戦術の一部分として準備
>しておくことは、この日本社会では大衆運動の輪を広げる妨げになっていると思うからで
>す。

 それは「暴力」の質によることと存じます。60年代末の実力闘争の「暴力」が、大衆的なインスピレーションを喚起する大きな力であったことは否定できぬと存じます。

----------------------------------------------------------------------------
「武装」のこと+ 投稿者:鬼薔薇  投稿日: 2月24日(日)10時17分21秒

>れんげさま おはようございます。

★武装のこと
 わたしが「武装」に言及しましたのは、「階級」という存在が「見える」ものになる契機として述べたことでございます。「プロレタリア民主主義」と申しますけど、いったいその「プロレタリア」という形容詞は何を意味するのか、という問題関心でございました。
 新左翼のマルクス主義政治思想というのは、「プロレタリアート」対「ブルジョアジー」という単純化された「階級対立」観念にとらわれていて、現実に行動に立ちあがっている主体の存在をほとんど顧みなかったように思うのですね。他方、その観念は実体としての「労働者」というものに引きつけられすぎで、だから革マル派が動力車部隊にビラまきさせたりすると、それだけで恐れ入ったりして(苦笑)。
 
 マルクス主義で言う「プロレタリアート」を、実体としての「労働者」に重ね合わせすぎるのは、実践的にはひどいゆがみをもたらすとわたし思います。この件、いずれきちんと述べるつもりでございます。また、実践問題としての「武装」につきましても、「実力闘争」と「内ゲバ」との関連で。

★ユーゴ問題 
 旧ユーゴスラビアのこと、わたしもとても悩みます。いつか「2次会」のほうでもちょっと書きましたけど、あの社会主義共和国連邦の崩壊は、どう考えてもスターリン主義の敗北ではなく社会主義の敗北ですよね。チトーとカルデリの創り上げた脱スターリン主義的社会主義のどこに本当の問題があったのか、たとえば有名な「労働者自主管理」の実態はどうだったのか。チトーがあれほど口を酸っぱくして強調した「大セルビア主義」への警戒は、共産主義者同盟でどう受けとめられていたのか。戦後イタリアへ「亡命」していて戻ってきた元親ナチのクロアチア民族主義運動に対してベオグラードの政権はどう対処していたのか。そして何より、「民族浄化」などという恐ろしい事態がどこからどう生まれて来たのか。ミロシェビチというひとりの人格の問題などであるわけもございません。

 30年前に会ったユーゴ人がクロアチアの人で、戦時中は家族でアレキサンドリアに疎開し、お父さんだけ国でパルチザンに加わっていたとか。チトーは絶対尊敬、カルデリは官僚主義者、とか言っておりましたけど、今ごろどこでどう暮らしているのかと思います。日本で言えば京都のように美しいといわれた文化都市ザグレブの街も、いつになったら旧に復するのでしょう。街が復興しても、いったん引き裂かれた人々の心は....。

----------------------------------------------------------------------------
E.H.カー 投稿者:鬼薔薇  投稿日: 2月24日(日)10時15分38秒

>まっぴょんさま
 20卷以上もある大著『ソビエト革命史』(でしたっけ)のエッセンスをあれほどコンパクトにまとめ、さらに新しいアイデアも盛り込んで....すごい本ですよね>『ロシア革命』
 
>物事を的確に把握し単純・明快に表現して見せる彼の能力に驚嘆しています。

 わたしも少しは学ばないといけません(^^;
 
 カーって、ドイッチャーとも親交があって、いろいろアイデアもらっていたみたいですね。イギリスの知識人世界ってなかなか奥深いというか....。日本のガクシャさんたちとは大分違うようでございます。まぁ、セクト主義や縄張り争いなら、ガクシャよりサヨクのほうがひどいのかもしれませんけど(苦笑)。「良質なブルジョア文化」って、やはり大事だと痛感するのはこんなときでございます。でもま、ニッポンなんて所詮は世界の三流国、それはそれでよろしいのではとも思いますけどね。

----------------------------------------------------------------------------
「全人民の武装」 投稿者:れんげ  投稿日: 2月23日(土)22時59分14秒

 それから、鬼薔薇さんの先の論考のなかで、パリコミューンの例をひきながら、人民の武装の問題をとりあげていた点について。それは「国家」に回収されない「社会」の自立性の契機という文脈でのことだと思うのですが、こと「武装」の問題となると、もっと慎重に扱わねばならないと考えます。
 と申しますのは、私にとってはユーゴスラビアの悲惨な経験が頭から離れないからです。かの国の郷土防衛軍編成が、対ナチ・パルチザン戦争からの経験に基づいたものであることは明らかですが、連邦体制の崩壊時にそれはエスニック・クレンジングに狂う私兵集団の母体となってしまいました。人間の残忍性・獣性が、武器の使用によってとめどもなく広がっていってしまった、つい最近の事例です。19世紀のまだ牧歌的な武力のイメージで、特に第一次大戦の機関銃にはじまる大量殺戮兵器を使用する現在を考えることは厳に慎まねばならないと思います。

----------------------------------------------------------------------------
国家論 投稿者:れんげ  投稿日: 2月23日(土)21時24分03秒

 鬼薔薇さん、詳細なお返事ありがとうございます。
「階級対立の非和解性の産物としての国家」という規定は確かに私の記憶のなかにありましたが、(これについて今では異論を持ってますが、それはともかく)価値法則との関連がいまひとつ呑み込めないままに、いつしか年月が過ぎてしまいました。
 鬼薔薇さんのおっしゃるとおり、公権力および社会的諸権力が価値法則の現実的=全社会的貫徹を担うものであることは判ります。しかし、まだ合点がいかないのは、権力というものが価値法則の貫徹の「結果」であるのかどうかということです。近代国民国家の成立に関してはある程度説明づけられる論理だとしても、スターリニスト国家や非ヨーロッパ圏の多くの国家についてはちょっと苦しいのではないかと思います。言い換えれば、商品経済の全面化した社会のみが国家形成を促すわけでもなく、また、資本制社会=商品経済社会というわけでもありませんから、価値法則の貫徹から無媒介に国家の成立根拠を説くことは困難かと考えます。帝国主義国家との対抗から説明づけるのも弱いという気がしますが。いかがでしょう。
 「国家」の拠って立つところをどう明らかにするのかが、「国家の死滅」に至る道、あるいは「協同社会」での「公共性」をどう構想するか、という問題とつながってきますので。

----------------------------------------------------------------------------
おお!勉強になります(@_@;;) 投稿者:まっぴょん  投稿日: 2月23日(土)17時24分56秒

鬼薔薇さん、ありがとうございます。
いまE・H・カーの「ロシア革命」ってのを読み始めたんですが、
物事を的確に把握し単純・明快に表現して見せる彼の能力に驚嘆しています。
「国家と社会」について、TAMO2さんと同じ表現がありました。(^^)
感想は読み終わってからゆっくりと・・・・・

----------------------------------------------------------------------------
価値法則と「共産主義」 投稿者:鬼薔薇  投稿日: 2月23日(土)10時37分14秒

>れんげさま おはようございます。
 高度に原理的なお尋ねで、巧くご説明できるものやら自信もございませんが、とりあえず稚拙な理解を申し述べてみます。かえってご疑問・ご不審を膨らませるのでないとよろしいのですが....。
 
 資本制とはあらゆる財・サービスが「商品」として生産され市場で売買されるシステムですね。この市場で人は対等な「商品所有者」として相対すると観念されます。この「対等=平等」が、ブルジョア民主制の「平等な個人」というイデオロギーを基礎付けます。けれども現実の商品生産は資本による労働の搾取に媒介されて行なわれ、経済的には資本家と労働者は対等でも平等でもありえません。それはヘーゲル・マルクス的な意味での「市民社会」の領域であり、近代社会思想が定式化した「万人による万人の闘争」の現実過程の世界ですね。階級対立はその基本要素でございましょう。
 
 この対立の中から押し出され、それを調整=調停するものとして「政治国家」が産まれます。「階級対立の非和解性の産物としての国家」というエンゲルス・レーニン規定は、弁証法の教科書的表現で言えば“対立物の統一”であり、「階級対立」を超越した「公共性」を体現する「公権力」となります。この権力の「公共性」は、市民社会の現実的対立を調停する社会合意の装置として、「平等な個人」というイデオロギーを「平等な一票」に集約した代議制(議会制民主主義)によって担保されます。ここでの「平等」は、抽象的に言えば、異質な使用価値を持った個々の資本制商品を通約する「価値」の普遍性の表現にほかなりません。「社会の中から出ながら社会の外に立ち、ますます社会から疎遠になっていくこの権力」としての国家というエンゲルス・レーニンの規定をこのように理解して大過なかろうかと存じます。
 
 けれども現実の階級支配は、この公権力だけによって担われるわけではございません。市民社会におけるさまざまな「社会的諸権力」がそれを担います。「工場」、「学校」、「病院」、「銀行」、「マスコミ」、「地域組織」などなど。それらは、個別具体的機能を果たす機関であり、経営者と労働者、教師と生徒、医師と患者、銀行と預金者・借り手、巨大情報メディアと受信者、地域ボスと住民など、「政治」における「個人」の形式的・抽象的平等に替わってここでは実質的・具体的不平等が露呈しております。抽象的には、個々の資本制商品の持つ異質な使用価値の生産に基礎付けられていると申せましょう。その基礎はいうまでもなく私有財産制にございます。
 これら個々の「社会的権力」は、公権力の下部機関ではなく、独自の権能を備え、相互に対立もし抗争もいたします。公権力としての政治国家は、階級対立の非和解性から直接に生み出されただけでなく、これら諸「社会権力」の機能を総括するものでもあり、その意味で階級支配の機関であるとともに価値法則の現実的=全社会的貫徹を担うものとわたし理解しております。こうした理解がエンゲルス・レーニンの書き残したものと異質にみえるとすれば、そこにはわたしの理解の不足や誤りだけでなく、資本制社会の発展段階の差もまたなにがしか反映しているかと存じます。
 
 この「政治」と「社会」の二重制に対して「共産主義」を考えれば、私有を廃絶してこの搾取をなくすことであり、労働生産物が「価値」と「使用価値」の二重性を抜ぎ捨てることであり、階級が消滅し、公共性を「政治国家」へ疎外することなく「社会」自身が自立的に司ることと申せましょう。そのとき「個人」は、実質的な「平等」を相互に体現する「自由人」として連合するのでしょう。そこへの道のりが何千年を要するものかはわかりませんが、その社会をマルクスが「協同社会」と呼んだこと、60年代から注目されてきたところかと存じます。少し前の書物では、田畑稔『マルクスとアソシエーション』(新泉社刊)がございます。広松渉『マルクスの根本意想は何であったか(情況出版)も同領域を扱っておりました。わたしどちらもちゃんと読んではいないのですけど。また、マルクス論とは別に政治思想の分野で「公共性」が話題になっているようで、書名もそのものズバリの斎藤純一『公共性』(岩波)は、問題領域を瞥見するに便利で面白く読めました。ご参考までに。

----------------------------------------------------------------------------
価値法則 投稿者:れんげ  投稿日: 2月22日(金)22時41分16秒

 鬼薔薇さま。教えていただけないでしょうか。
 わりあい最近、趣味者的に関心が復帰してきたので、マルクス主義理論の教養がサビついています。資本制における政治と社会の分裂が、価値法則の貫徹の結果であるというのがよくわかりません。「共産主義」ってどんな社会なの? という世間の問いに応える重要なポイントだと思うのですが。

----------------------------------------------------------------------------
政治と社会>TAMO2さま 投稿者:鬼薔薇  投稿日: 2月22日(金)21時57分29秒

 さっそくのコメントありがとうございました。管理人さんのご指示もあり、議論は「二次会」のほうでと思っておりましたが、ここでいただいたコメントにはここでご返事いたします。

>なぜ、断絶を取り返すことができなかったか、これも大きなテーマだと思います。

 列強による包囲と軍事干渉を受けての内戦という極度に困難な状況を考慮に入れねなりませんが、重要なのは農業=農民問題だったのではないでしょうか。レーニンは成立した革命権力を「労農民主独裁」と名づけましたが、実体は労働者と兵士、その兵士の多くが農民出身でしたね。ボルシェビキは、農業綱領では社会革命党エスエルに多くを負っていたと存じます。そのエスエルとの連立が崩壊したことの意味は限りなく大きかったように思われます。先に「二次会」で話題になりましたクロンシュタット問題、マフノ問題、いずれもこの文脈に関わりましょう。
 
 資本制における“「政治」と「社会」の分裂”は、抽象理論的に申せば「価値」と「使用価値」の分裂=「価値法則」の貫徹の結果でございますから、その統合=止揚こそ「共産主義」の綱領的主題でございますね。共産主義への過渡期=社会主義の段階では、この分裂は長く残存いたしましょう。革命後にレーニンが「価値法則」の意義に言及したのもこうした意識だったと存じます。そこでの社会的契機を拡げていくことが「国家の死滅」の現実過程でございましょう。その推進の主体的条件として「プロレタリア民主主義」が主題化されるかと思います。
 
 ロシアではそれは政権奪取後に具体化するテーマであるほかなく、各政治党派はそれに備えた理論的・思想的準備が十分整っていたとも思いにくいのですね。他方西欧ではこのテーマ、少なくとも一定段階は政権奪取の前に直面する問題なっていたのではないでしょうか。アメリカIWWやイタリア評議会運動に対するレーニンの着目も、そうした視角からのものだったように思われます。ドイツにあったルクセンブルクが「工場の規律」をめぐってレーニンと論争したのも、イタリアのグラムシがロシアの革命を「資本論に反する革命」と呼んで熱烈に支持したのも、このズレをはさんでのことであにあったか/なかったか、それは「内ゲバ」全面化に先立つ60年代の闘いの中に検証されるべきテーマかと思われ、そこへ考えを進めて行く所存でございます。かつての社青同解放派やブントの一部で語られた「階級形成」論や「共同体」論、あるいは構造改革派の「民主的改革」論など、この点の理論的関心の所在を示していたとは申せましょう。けれどもそうした「問題関心」と現実政治の動きとはまた別の事柄、これまたロシア革命の場合と事情は似ているように思います。日本新左翼は結局「社会」と「政治」の二重性というマルクス主義の基本視点を政治方針化できなかったと、わたし思うのでございます。でも、「スターリン主義からの脱却」は、ここがおヘソではないのでしょうか。この点、「トロツキズム」もまたさして変わりないように思います。「反対派思想」と評したゆえんでございます。
 
 今日の「グローバリゼーション」は、資本の論理の貫徹形態が変容したことを示しておりましょう。この変容に対応した主体の側の自己変革は、ようやく模索の端緒についたところかと思われます。「トビン・タックス」議論は、この点で興味深い問題を提起しているかと存じます。

----------------------------------------------------------------------------
社会と政治の断絶 投稿者:TAMO2  投稿日: 2月22日(金)09時36分16秒

 鬼薔薇さん、こんにちは。書かれた文章に同意するとともに、掲題のことを思いました。

 カウツキーが政治革命と社会革命は別のものである、と言ったような気がしますが、ロシア革命の悲劇性はまさにその辺にあるのかな、と。帝国主義の最弱の環、あるいは後進国の有利性、そういうものがロシアのプロレタリアートを世界に先んじて権力の座につかせたわけですが(政治的に先んじる)、だが良質のブルジョア文化が成熟しなかったために社会総体はその政治体制を保障できなかった、と。

 「国家と革命」という革命前の書物はブルジョア社会が封建社会を打倒して誕生する中で生まれた掲題の断絶を人民の中に取り返し、人民権力をおしゃべり機関から行動機関にして、三権分立の欺瞞(欺瞞かどうかは個人的には疑問がありますが)をなくする意図に貫かれていると思いますが、現実のロシア革命はそれとは正反対のものとなりました。鬼薔薇さんの書かれているとおりだと思います。

 なぜ、断絶を取り返すことができなかったか、これも大きなテーマだと思います。

----------------------------------------------------------------------------
民主主義のこと・2:「階級」について 投稿者:鬼薔薇  投稿日: 2月22日(金)09時04分15秒

「階級」とは「社会」的概念だと申しました。あえていえば通常その存在を目でみて手で触れて確かめることはできません。通常目に触れるのは個々の「プロレタリア=労働者」ないしその組織であって、社会学などでいう「社会層」というのは、直接観測できるデータから抽出し現象的・実体的なものでしょう。それが社会観察として有効なものであること否定できません。でも、マルクス主義でいう「労働者階級=プロレタリアート」は、日常直接に観察できる実体ではないと存じます。実際マルクスその人は、たとえば晩年ようやく第1巻だけ完成した『資本論』で「資本主義的私有の最後を告げる鐘が鳴る。収奪者が収奪される」という黙示録的な未来像を書きつけたときでさえ、「労働者階級」を目に見える実体のように語ってはおりません。
 
 では「プロレタリアート」が目に見える存在となるのはいつか。それは彼らが「武装」したとき、すなわち「権力」として自らを表現したときでございましょう。マルクスはそれをパリ・コンミュンのなかに確かに「視た」のだと思います。それが『共産党宣言』に「唯一の修正」を加えさせた画期的な事件であったこと、よく知られているとおりでございます。ですから、「プロレタリアート」を「政治的」存在と観念することも、「政権は銃口から生まれる」というテーゼも、それ自体が間違っていたとは思えません。スターリン主義に固有の問題は、階級としての「プロレタリアート」が本源的には「社会的」カテゴリーであるその「社会的」契機を理論的に排除して純「政治」概念に観念化し、その概念化された「プロレタリア−ト」を実体としての「党」に観念的に吸収することにより、実践的には実体としての労働者・人民を国家による統制支配の対象に固定化してしまったことではないでしょうか。そのような「国家」は「死滅」の契機を喪失し、ただ肥大化するばかりでございます。
 
 史上初のプロレタリア独裁権力パリコンミュンが勝利していたらどうだったでしょう。戦士たちはずうっと「武装」しっぱなしでいたでしょうか? 60年代末期に「恒常的武装闘争」というアジテーションがあって、食事に行くにもゲバ棒もってくことかしらと笑いましたけど、当時の若き戦士たちも、アルバイトやデートにはヘルメットを脱ぎゲバ棒を置き、小ざっぱりした身なりでバリケードから出かけていったように、コンミュンのパリ・カナイユたちも仮に勝利していたなら、パン屋のおじさんや洗濯屋のおばさんの日常に戻って行ったでしょう。その日常にすでにブルジョアジーの姿はなく、おじさん・おばさんは地区コンミュンの委員会でなんたら委員の役職をもったにせよ、おじさんはやはりお酒を呑んで歌ったり喧嘩したり、おばさんは井戸端会議で亭主の悪口とのろけを一緒に語り合う姿にさして変わりなかったはず。そこに革命政府の下っ端役人がきて「革命的規律」の名のもとにお酒を取り上げたり井戸端会議を「分派活動」だと禁止したりしようものならジョーダンよしなと追い返し、でも一朝事あればただちに武器を取って登場する、それが暮しであり、社会というものでございましょう。
 
 レーニンが「国家の常備軍」に替えて「全人民の武装」を構想し、国家機関に勤務する者の給与を労働者の平均賃金を上回らぬようにと述べたのは、このような暮しの「社会」というものと、党や権力機関の「政治」との二重性を了解した上でのことと思われます。彼は政治権力の中枢にあっても、「政治」というのは「社会」という物的基底に支えられた「上部構造」であり、その権能は決して「社会」のすべてを制御できるわけではないことを、わきまえていたのだと思います。「政治のほかに文化というものがあって、これは法律や命令ではいかんともしがたいものだ」と語ったとき、そして「遺書」でトロツキーを「物事の純行政的側面に過度に熱中する傾きがある」と評したとき、レーニンはこのようなわきまえに立って、自ら創り出した権力内部に広がる「政治」万能主義の傾向(官僚主義!)を深く憂慮していたのではないでしょうか。

 その憂慮は、同じく「遺書」でスターリンを評した「粗暴」という特性の全面開花のうちに、恐るべきき現実となって全人民を強制労働と暴力的収奪と飢餓と精神的荒廃のなかに追い込んで行ったのでございました。しかもその「政治」が「革命」のイデオロギーとして世界中の闘う人民の頭脳を呪縛して行きました----「プロレタリア」という形容詞と「赤」の色をしっかり固着させて。

----------------------------------------------------------------------------
ごあいさつ 投稿者:鬼薔薇  投稿日: 2月22日(金)09時02分48秒

 こちらではお初でございます。
 2次会のほうで書き始めましたものの続き、管理人さんのご指示を受けてこちらへアップさせていただきます。なお、ご批判につきましては、2次会のほうへいただければと存じます。

----------------------------------------------------------------------------
追記 投稿者:臨夏  投稿日: 2月21日(木)22時22分26秒

ロシア革命を成し遂げたのは、
ボルシェヴィキなのか、
ロシア人民大衆なのか、
というふうにも問題を見れますね。

----------------------------------------------------------------------------
後衛として。 投稿者:臨夏  投稿日: 2月21日(木)22時16分17秒

まっぺんさん>
>それに「めざす」と決めたら、それは何らかの「革命政党に加盟する」か、
>手頃なものが無ければ「自分で革命党を作っちゃう」のでなければ
>「めざす」という事はできないでしょう。

そうはいっても、なかなか、一般人には、そういうことはできないです(^^;
かいしゃがクビになる可能性も強いし。
ここは、「前衛でなく、後衛として」革命を目指す、ということができないものかと。

それに、革命「党」というのは、政治概念であり、
これからの「革命」は、政治中心から、生活重視に傾いていかんとあか
ん、とも思いましす。それが大衆革命やと思うています。

@いずみさんでて来はらへんのかな。。

----------------------------------------------------------------------------
おしらせ 投稿者:まっぴょん  投稿日: 2月21日(木)21時17分24秒

三次会過去ログのページをつくりました。
昨年9月ころの比ヤングさんとの対話からあります。ところどころ抜けて
ますが、面白い部分は網羅してあります。
レッドモール党サイト「掲示板過去ログ」から入ってください。
久しぶりに比ヤング氏を堪能しました\(^o^)

http://redmole.m78.com

----------------------------------------------------------------------------