四トロ同窓会二次会 2006年2月1日〜10日
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とにかく面白すぎる小島インタビュー! 投稿者:まっぺん 投稿日: 2月10日(金)13時28分14秒
他にも高見圭司や小寺山康雄等、構造改革派系から見た当時の状況、また革同高野派など旧総評系と組んで発行した「労働情報」運動についての樋口篤三インタビューなど、当時の運動をリアルに知る貴重な資料となっています。最後に小島インタビュー中の黒田、太田の確執と三多摩社青同結成「秘話」を紹介し『資料集』からの引用はこれでやめます。あとは買って読んで下さい。(紹介文のため敬称略しました。ご容赦。)
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第一次革共同の分裂と三多摩社青同
五八年の始めころに分裂が起きる。その分裂は黒寛と太田竜との間の分裂だが、そのときは黒寛が多数派で、太田竜は除名される。当時、日本の第四インターの書記局は太田竜になっていたから、統一書記局からの通達等の文書は全部、太田竜のところに来ていた。
それで、黒寛は、太田を除名したのだから、第四インターから来ている文書は全部こちらに返すべきだ、おまえが行ってこい、と吉村に命じた。吉村は千葉の四街道に住んでいた太田竜宅まで取りに出向き、太田のところに一晩泊まった。
そこで太田竜から吉村は、こんこんと聞かされた。現実の政治においてはこちらから行動をおこさなければだめだ。そのための第四インターの決定はこのような内容である。トロツキズムの歴史を含めてこんこんと説得されて、吉村は一晩でひっくり返った。
そして翌日、戻ってきた吉村は、黒寛に対して、
「あんたと手を切る」
と宣言した。
「理論的には黒田が正しいと思うが、政治的にはダメだ、太田竜のほうが正しい。したがって、オレはこれから太田竜と一緒にやる」
と言ってのけた。書類を取りに行ったのが、帰ってきたら絶縁宣言となった。その場には黒寛派がみんな集まっていて、吉村の報告を聞いて、あ然とした。それで黒寛は、
「世が世ならテメエは銃殺だ」
と言った。吉村は蛙の面に小便みたいなやつだから、平然として、
「さよなら」
と言ってその場を出て行った。
黒寛は当時、府中の黒田病院にいたと思うが、縁側に立って吉村が出ていくのを淋しそうに見送ったそうである。この場面を描いた文書が存在する。私はそれを読んで吉村に確認したら、そのとおりだという返事だった。
その吉村が三多摩社青同の原点を作った。三多摩社青同は我々が作ったのではない。吉村が作った。吉村は当時、東村山に住んでいた。太田竜に説得されて、全面的加入戦術をすると彼は決意して帰ってきて、その足で社会党に入党届けを出した。三多摩広しといえども、国労の数人を除いて青年党員はいないから、彼は直ちに社会党北多摩支部の青年部長になった。しばらくしてから、我々が学生運動はもうダメだと見切りつけて、三多摩社青同に入ったときは、吉村が基本的に種まきをしていた。
三多摩社青同運動の原型を作ったのは、太田竜の指示を受けた吉村だった。吉村が黒寛と手を切ったことから、黒寛も第四インターに見切りをつけて、独立活動をやり始める。だから吉村の顛末は偶然的なものだけれども、意味としては大きいと思う。(120〜121ページ)
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Re:抗議でんわ 投稿者:まっぺん 投稿日: 2月10日(金)12時58分6秒
「インターナショナル」は「インタナショナル」と表記することもありますね。むかし朝日新聞は「インタナショナル」と表記していた。そうすると第四インターは「第四インタ」になるわけです。事実、70年代にはそう表記されていた。僕らの場合、四トロとか四ターといった蔑称にはあまり反応しなかったが、朝日新聞には「インターと音引き入れてくれ」と抗議したような記憶があります。(@^-^@)
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名称問題といえば 投稿者:まっぺん 投稿日: 2月10日(金)11時53分45秒
そうですね。自分以外の組織に対して侮蔑的な意味を込めてわざと違う言い方をする。これは長い間左翼の間にあった悪癖でした。一番ひどいのが革マル派なのは今も変わりませんが、これって共産党の「トロッキスト」呼ばわりから始まってるんかな? 昔共産党・民青は「トロッキスト」と、小さい「ッ」で語気を強めて我々を罵倒していた。しかも、本物のトロツキストだけではなく自分以外の左翼は解放派であろうとブントであろうと全てそう呼んでいた。共産党によるこういう罵倒は、スターリンによるトロツキーの追放と、「反革命」「ファシストの手先」呼ばわり以来の「お家芸」なわけですが。
ところで、今回、この『戦後左翼はなぜ解体したのか』を出版してくださった同時代社社長の川上徹氏は、元共産党、全学連で、「新日和見主義」として査問を受け、追放されてしまった事で有名ですが、彼の古い著作に『トロツキズム』というのがあります。昔たまたま古書店で見つけたんですが、物凄い反トロ文書ですよぉ〜。当時の共産党の環境を忍ばせるものがありますね。他セクトの理論など真面目に検討する事はなかったのだろうと思います。こういう環境は左翼運動にとってマイナスです。もちろん、その「トロツキスト」の本を今回こころよく引き受けて下さった川上氏はもう、あのような偏った見方をしてはいないと思いますが。
江藤さん、お越し頂き恐縮です。この「資料集」、まだ小島さんの部分を読み終えただけで、今高見氏のところを読んでる最中ですが、黒田寛一と太田竜の確執、そして三多摩社青同結成にいたる「三多摩社青同秘話」の部分もぜひ紹介したいと思います。小島文書はおもしろ過ぎる!! それから、最初に六人のインタビューを簡単にまとめた江藤さんの紹介文の最後の部分を紹介しておきます。(以下)
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以上、長々とインタビューの発言主旨を紹介してきたが、そこに共通するのは、党派やグループの違いを超えて、今こそ共同して総括討論を開始しようという意志である。戦後左翼の解体が誰の目にも明らかになったという状況と、日本で顕著になりつつある政治的、経済的、社会的矛盾が、いよいよ抜き差しならない段階に突入したという実感が、そこには共通して存在しているように思われる。(以下略)
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名称問題 投稿者:草加耕助 投稿日: 2月10日(金)06時02分6秒
ALL>あ、いや、別に恐がらなくても気を使わなくてもいいです(爆)
名称問題については、これ一度だけ書いて、もう書かないことにします。あとは「ご自由に」ということで(・∀・)/
まあ、一般にブント系の人は名称について、他の潮流の方々に比しても厳しい方だったように思います。特に「ブンド」という呼び方は、一般にブント系以外の人が、間違えているというより、「わざと」使うことが多かったですから。たとえば共産党の古い人は、必ず「ブンド」と言います。こちらが不快に感じることを知った上で使っているわけで、そこには軽蔑がこもってます。私らが「日共」つーてたようなもんです。それと中核派の人も「ブンド」って言いますね。つまりブントに対して批判的な潮流や立場の人が使う、一種の蔑称であると理解しています。
「日向戦旗」につきましては、パラチェン以降はまた別の話になりますが、80年まで「共産同(戦旗派)」というまったく同名の組織が二つあったわけで、区別するため、指導者の名前をとって日向派だの西田派だの言われても、なかなか文句が言えんかった。それで「本家争い」をやめて、「戦旗・共産同」にしたわけです。それ以降は「日向派」とか「荒派」は蔑称となったわけで、言われたら必ず怒った。
80年代のゲリラ事件の新聞報道で、ごく初期には「戦旗日向派」と報道されていたものが、だんだんと「戦旗・共産同」になっていったでしょう。あれは自然になったんではなくて、「日向派」と書いた新聞には、片っ端から抗議しまくったと聞いています。それも「日向派ではありません」なんて穏やかなもんではなく、「日向派とは何事だ!」くらいの激しい剣幕で抗議電話入れまくったそうです(故笠置さん談)。
こんな感じなんで、元栓の人が現状で「戦旗なんて駄目なんだ」とか言わずに、「もはや我々こそが本物の戦旗なんだ!」とかいう方向に思考がいってしまう感性もご理解いただけるかと(笑)。
戦旗以外では、全国委派(俗称:烽火派)の人が厳しかった。特に「派」もつけずに「のろし」とか呼ぶと怒られた(まあ当然ですが)。地方レベルで共闘していた時は、失礼のないように気を使いましたよ。ちゃんとお互いに「全国委の方針はどうですか」とか「へえ、戦旗はそうなんですか」とか話してましたけどね。でもお互いに、「こいつ、アジトに帰って人目のないとこでは絶対に『烽火』と(『日向』と)言ってるんだろうな」と思ってたんでしょうね(笑)。
まさか将来、この共産同(全国委)と共産同(戦旗派)が合同して、共産同(統一委)になろうとは思ってませんでしたけどねー。旧全国委派のあの人は今頃どうしてんのかなあ。統一委派でも頑張ってくれてたらいいけど。
しかし、これだけ大事にしていた「戦旗」と、大切に思っていた「ブント」の名前ですから、現在の荒さんを指導者とする某団体を「ブント」と呼ぶ感性は私にはないなあ。まあ、あの「ブント」さんと、この「ブント」さんは同姓同名の別人であると思えば呼べないこともないですが、ちょっと軽すぎます。「荒派」とか「日向」とかは組織名としては蔑称なんで、一応は中立的に「SENKI派」と呼ぶのがしっくりきます。
「ブントそのものがマヌーバーである」という小島昌光さんのインタビューについては、現状では私として何も言うべき材料がありませんので、当面は静観しようと思いますが、「トロツキスト側からみてそうだった」ということに嘘はないだろうと思います。あとはブント側の人間からの発言や回想を待ちたいところです。
http://hatahata.mods.jp/
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時代ですよ 投稿者:セクトNo7 投稿日: 2月 9日(木)22時53分40秒
60年から70年までは「ぶんど」でそれ以降は「ぶんと」と理解してます。本人たちの歴史を尊重しましょうや。
思い入れと歴史が本人の中にあるんだから、他人が言ったってだめですよ。
四トロも昔は禁句だったし。「ヨンター」なんて言ったら、さて
草加ちゃんも、おとなしいだけじゃないんだ。
もちろん掲示板の話だから、現実の話はどんな過激でも言えんとこあるのは、処置のすけだい!
面白かった。茶化してんじゃないよ。
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細かいミス発見 投稿者:まつき 投稿日: 2月 9日(木)21時01分14秒
『戦後左翼はなぜ解体したのか』を面白そうですね。
私の一次ブント理解には西部の『60年安保 センチメンタルジャーニー』があるのですが、今の思想的立場はともあれ、そんな雰囲気を感じさせてくれる本だなと思いました。
早速、買い求めて読まさせていただきたいと思います。
さて、表題の件ですが
でも「当時、青木と呼ばれていた姫岡」は逆ですよね...
http://www.google.com/search?hl=ja&c2coff=1&q=%E5%A7%AB%E5%B2%A1%E7%8E%B2%E6%B2%BB&lr=
http://www.google.com/search?hl=ja&q=%E9%9D%92%E6%9C%A8%E6%98%8C%E5%BD%A6&btnG=Google+%E6%A4%9C%E7%B4%A2&lr=
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> 「ブンド」ではなくて「ブント」です。 投稿者:伊達 純 投稿日: 2月 9日(木)20時06分23秒
1994年の頃、戦旗・共産同の神奈川の人たちとキャンプ&沢登りをしたのですが、夜、私が「あなた方、日向戦旗は」ということを言ったら、「オレたちはブントだーっ!」と言う訳ですよ。
「でも西田戦旗もいるし、あなた方だけがブントと言うのは」と言うと、「あれはアダチだーっ!」と言う(^^;;;;;;;;;;;;)。
何だかなぁ…(^^;)。
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ソウル・トレイン販売中 投稿者:三浦小太郎 投稿日: 2月 9日(木)13時38分44秒
脱北者の悲劇と、救援運動家の不当逮捕などを描いたドキュメンタリー映画「ソウル・トレイン」。各地で自主上映などされていますが、日本の救援団体、
北朝鮮難民救援基金http://www.asahi-net.or.jp/~fe6h-ktu/toppage.htm
よりDVDが販売されています。定価は3千円プラス送料。日本語字幕つき。ご希望の方は、難民救援基金までお電話もしくはファックス、メールなどでご注文ください。
北朝鮮難民救援基金:電話・ファックスは03−3815−8127
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要するに 投稿者:主義者Y 投稿日: 2月 9日(木)12時24分44秒
ドイツ語へのこだわりがなければ「BUND」を「ブンド」と発音したくなっちゃう、使い始めたコトバはそのまま使い続ける、ということではないんでしょうか?創設当時の当該本人たちですら・・・
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僕は「ブンド」といってましたm(__)m 投稿者:北@仙台 投稿日: 2月 9日(木)11時41分59秒
草加さんも関西でしょうけど、大阪では70年代当初 共産同系はブンドと呼ばれていたような(W
少なくとも千里山にあった某大学では・・・というか、私は共産同を総括・止揚したという立場(?)党派にいましたから、名前なんぞどうでもいいと思ってました。
しかし、名前を間違うぐらい失礼なことはないというのはわかりますよ。(昔、褥の会話で昔の彼女の名前をだして、あわやの危機に陥ったことがありました<笑えない)
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草加さんのご意見に異を唱えるのではないのですが 投稿者:まっぺん 投稿日: 2月 9日(木)10時45分49秒
70〜80年代ブントの活動家であった草加さんが自分の正式組織名を主張されるのは当然の権利です。ただ、下記小島昌光氏のインタビューを読むと、「60年安保ブンド結成」秘話とも言えるもので、その中では島成郎、姫岡玲二等によって結成された「ブンド」は、実はマヌーバーとして「反代々木左翼統一戦線」的な装いをもって呼びかけられたもので、当時の全学連や東大自治会を握っていたトロツキストにも呼びかけられ、作ったあとトロツキストは排除された、という驚くべき裏話が語られているのです。つまりその時には小島氏自身が「ブンド東大細胞LC」であったと語っているのです。清水丈夫も小島氏に「ブンドへの参加」を呼びかけたとの事。
そうしてみると、後の70〜80年代と比較して60年安保当時には、「ブンド」が正式だったのか、あるいはそれほど厳密ではなかったのか、という可能性もあるのではないでしょうか。
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Re: 討論よ起これ! 投稿者:草加耕助 投稿日: 2月 9日(木)07時47分42秒
とりあえず一つだけ
「ブンド」ではなくて「ブント」です。
革共同系の人や共産党系の人に何回言うたやろ、このセリフ。
http://hatahata.mods.jp/
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あらっ!ご本人が・・・ 投稿者:鍋山 投稿日: 2月 9日(木)07時04分20秒
江藤さん、ごくろうさまです。
もうみなさん60過ぎの方々は、どんどん『生前遺言』(汗)を書いて欲しいですね。
「全国反戦」・「主体と変革派」・「労働情報運動」とか・・・
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資料集『戦後左翼はなぜ解体したのか』について 投稿者:江藤正修 投稿日: 2月 7日(火)21時28分26秒
マッペンさん
私が編集した資料集『戦後左翼はなぜ解体したのか』を紹介してくれて、ありがとうございます。
小島さんのICP総括は確かに面白くて、私は彼に全部、文章化してもいいのか尋ねました。マッペンさんは省略していますが、最も面白いのは後に革マル派を創出した黒田寛一が第四インターの書記局の責任者であった時のエピソードです。
黒寛の人となりがリアルに表現されていて、なるほどと、唸るような逸話です。ぜひ、お金を払って、ご購入ください。
『戦後左翼はなぜ解体したのか』は、第四インターの戦後階級闘争へのかかわりの敗北を総括しつつ、それを梃子に戦後左翼全体を問題にしました。“私たちの敗北”を全面に提出したことによって、少しは客観的な総括を提出できたかな、と思っています。こちらの方も、ぜひ、手に取ってください。
まずは、宣伝まで。
江藤正修
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寺岡総括を叩き台に、討論よ起これ!(4) 投稿者:まっぺん 投稿日: 2月 7日(火)14時50分38秒
―――この間、同時代社から『六〇年安保―六人の証言』という安保ブンドの本が出ました。小島弘や森田実など六人のインタビュー集ですが、そうした話は一切出ていません。
小島 このような裏の話が載っているはずはない。清水丈夫もオルグにきて、
「ICPとの違いは違いとして分かっている。あんた方はあんた方の立場がある。しかし、今、大事なのはみんなまとまって代々木に対抗しないと潰れてしまう。だからみんな集まってくれ」
と言った。当時、清水は駒場担当であり、姫岡の下で働いていた。
(略)
酒井与七と太田竜との「複雑な関係」
小島 ところが酒井のほうは、太田竜との理論的格闘で追いつめられ、ほとんど頭が解体しかかってしまう。太田竜は一週間に一回、四〇〇字詰めで一〇枚の原稿を書くが、書き始めから書き終わりまでほとんど修正がない。一気に原稿を書いても、起承転結がはっきりしている。ものすごい頭脳で、常人ではない。…(略)…
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…以下、興味深い話がまだまだ続きます。社会党協会派に加入して、「ミイラ取りがミイラになった」人の話や、六五年のICPとJRの組織統一についての経緯では、ICPに対抗して三多摩にオルグに派遣されたJRメンバーが次々にICPに獲得されていく話、太田竜は政治的関係も背景にあったが「女性差別」を理由に除名された事など、初めて聞く話ばかりで、とにかく、驚きの貴重証言満載です。
http://www.doujidaisya.co.jp/
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寺岡総括を叩き台に、討論よ起これ!(3) 投稿者:まっぺん 投稿日: 2月 7日(火)14時48分56秒
ブンドのマヌーバー体質
小島 『戦後左翼はなぜ解体したのか』があまり触れていないブンドについて、もう少し詳しく話しておきたい。トロツキストの塩川全学連からブンドが執行部を奪還したあたりの話で、これはあまり知られていない事だ。
ブンドを作ったのは誰かというと、基本的には島成郎だ。島が作ったといっても、彼はまとめ役だった。島のもとでブンドの路線を論文等で提起したのは、当時、青木と呼ばれていた姫岡である。このときの彼らの方針上の「建前」は、共産党本部と対抗するためには、すべての革命派が大同団結しなければならない、というものであった。だから、関西派も革共同もICPも全部入って、みんなで新しい流れを作ろうと島は提起した。
なぜ島がそのような提起をしたのかといえば、全学連は革共同(JR)の塩川が握っているし、東大駒場の委員長はICPの私という状況だから、それと対立してブンドを作ることはできない。だから、完全にマヌーバーで組織した、ブンドははじめからマヌーバー型の組織として作られたということになる。
これは重要なことである。最初に鮮明な旗があって、その旗の下でブンドが作られたというわけではない。彼らとしてみたら、JRの塩川などはトロツキズムとしての理論が出来上がっているから、理論的立場を現在構築中の島たちは対抗できない。だから左はみんな集まれ、といって時間稼ぎをして、その後、塩川を切っていく。この期間はわずか数ヶ月だが、その後の展開を考えると大事な点である。
私の記憶によれば、ブンドの結成大会が開かれたのは一九五八年一二月だったと思う。五九年六月に開かれ唐牛健太郎が委員長になった全学連大会では完全に分裂したから、ほんの僅かな期間でしかなかった。だが、オール革命派結集として結成されたはずのブンドは、実際に統一した組織活動は一切行っていない。だから、ブンドを結成したときの状況は、はっきりさせておかなければならない。要するに、島と姫岡がマヌーバーで作った。代々木と対決するため、革命派は全部まとめて新しい組織を作るという名目で結成されたのが、共産主義者同盟ということになる。
実際に、私はブンド駒場細胞のLCだった。姫岡が私のところに来て、みんなを集めてくれと言ったので、西部をはじめ自治会常任委員や社研、歴研などの活動家を全部集めて、二〇人くらいでブンドの駒場細胞を作った。そのとき西部は私に、ブンドの駒場細胞のキャップをやれと提案した。すると姫岡が、「いや、それはだめだ。大衆団体の委員長と細胞のリーダーが同じ人間ではまずい。当然、分けるべきだ」と言って、別の人間をキャップにした。
その段階ですでに彼は、作るまではICPを利用するが、役割はそこまでと決めていた。それ以降、私は一度もブンドの会議に呼ばれたことはない。姫岡は別の人間をキャップにして、「ICPは大衆運動主義でどうにもならない」などと言って特訓をしたわけだ。それ以降、彼らは細胞会議を開かずに、ずっとフラクション会議をやった。ブンドはできたけれども、我々は一切そこから排除された。ICP派は当時自治会に四人ぐらいいて、みんなブンドに入っていたけれども、一切呼ばれない。西部が中心になって組織した東大駒場のブンドは、そうしたフラクションを軸に作られた。
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寺岡総括を叩き台に、討論よ起これ!(2) 投稿者:まっぺん 投稿日: 2月 7日(火)14時47分47秒
社会党への加入と学民協の結成
小島 当時、社会党の中には佐々木啓明がいて、寮生自治会である全寮連の書記長をやっていた。全寮連書記長としての佐々木啓明は、総評のスケジュール闘争と似たような方式の寮闘争の構想を持っていた。つまり寮生の要求を組織して、春闘に合わせて闘争を組んでいく。労働者が二、三月に春闘に向かっていく時期に、寮生も自らの要求を出していく。例えば寮費値上げ反対とか、食事の質量の向上など、いろいろな要求を組織して寮生も闘っていくという構想である。
我々は佐々木啓明の路線はICPに近いと考えて、一緒に学生運動として協議会を作ろう、学民協を作ろうということになった。これを提起したのが五九年の春で、私が学民協の議長、佐々木が事務局長に就任した。
東京大学、学芸大学、早稲田大学など二〇大学が学民協の基盤だったが、半年ぐらいで分列してしまった。分列には様々な要因があったが、基本的には我々(ICP)がトロツキストではないか、なぜトロツキストを社会党内部で抱えるのかと、右から批判が出たからである。
我々を抱えたのは社会党青年部の西風勲や仲井富など、後に江田派の幹部となり社会党構造改革派の中心を担う青年部中央官僚たちであった。社会党には学生活動家がいなかったから、現役の東大の自治会委員長などがひと塊になって社会党に入党するとなれば、こんなにうまい話はない。多少のことがあっても目をつぶる。
それで彼らはトロツキストを抱えていこうとしたが、よくよく見てみると、結局、庇を貸して母屋を取られてしまうのではないかと不安になる。学民協の佐々木啓明にハッパをかけた。
(略)
我々の路線は、どちらかというと経済主義である。一方、佐々木啓明は安保国民会議の専従事務局員だったから、安保闘争の政治的高揚をひしひしと感じていた。彼は
「学民協がこのままでは右翼路線になる。これではいけない」
と提起した。
意識的に経済主義路線を選択していた我々は、
「冗談ではない」
と主張して激突した。社会文化会館の二階で開いた学民協の第二回大会だと思うが、我々が多数派だから、そこで佐々木啓明を除名した。彼らは佐々木を中心にして集りを作った。後の解放派の源流である。…(略)…
結局、この予備軍規定は理論的に正しい要素があるものの、運動論としてはダメだったことになる。そうした反省があって、我々はもう学生運動をやっても可能性が少ないと考え、加入活動と労働運動の方に入っていった。…(略)…
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寺岡総括を叩き台に、討論よ起これ!(1) 投稿者:まっぺん 投稿日: 2月 7日(火)14時46分25秒
寺岡衛『戦後左翼はなぜ解体したのか』が出版され、トロツキスト界隈と共に当時の左翼運動に関わってきた人々の間でも少しばかり話題になっております。同時代社社長川上氏によるとかなり売れているそうです。2月4日にこの出版記念会があり、当時の活動家であった人々、高見圭司、小島昌光、塩川喜信、遠藤一郎はじめ諸氏参加のもと、非常に貴重な話をいろいろ聞く事ができました。また、同日、この本を補足する意味をもった「資料集」が出版されました。これには江藤正修が解説し、彼をインタビュアーとして高見圭司、樋口篤三、小寺山康雄、山田邦夫、清野和彦、小島昌光らのインタビューが載っています。僕は本日、まず最後の小島氏のものを読んで、非常に面白かったのでここに紹介します。ところどころ省略しますが、読んでびっくり!なおICPとは「国際主義共産党」=太田竜派。(以下引用)
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寺岡総括を叩き台に、討論よ起これ!/小島昌光(資料集103ページから)
ブンドの先駆性論とICPの労働者の予備軍規定
小島 (略)…
これについて当時の全学連主流派は、学生はプチブルであると規定した。学生はプチブルだから、階級闘争の本隊にはなり得ない。それでは、学生の役割とは何か。本隊に対して警鐘乱打することが学生の役割である。なぜ警鐘乱打できるかというと、学生はプチブルだから階級的な基盤が不安定である。プロレタリアートでもなくブルジョアジーでもない学生は、中間で動揺しているから、危機感だけは先鋭になる。だから先鋭な危機感をもとにして警鐘を乱打できる。これが先駆性論である。
そうしたことは寺岡も書いているが、その根拠が書かれていない。
これに対して我々ICPは、学生はそれ自体が階級ではない、学生そのものは階級だとは言えないと批判した。学生はこれから階級に入っていく。だから階級の予備軍だと規定した。学生から労働者階級になる者もいれば、官僚になってブルジョアになる者もいるだろう。つまり、学生は一つの集団をなしているが、それはこれから分解し、それぞれの階級に帰属していく予備軍だと主張した。これがICPの予備軍規定である。
(略)
―――予備軍規定は、論理的一貫性がありますね。
小島 当たり前だ。太田竜というのは、きわめて論理的な人間だ。我々と決別して以降はおかしくなったが、途中までは実に原則的な立場から階級規定をきちんとやる卓越した人間だった。…(略)…ICPは、学生自身を階級の予備軍と捉えて、その中に存在する階級的利害のプロレタリア的な要素をいかに組織するかと考える。ここから学民協(学生運動民主化協議会)路線を作り出し、加入戦術と結びついていく。
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まあ、感情ですから 投稿者:TAMO2 投稿日: 2月 5日(日)23時07分51秒
ついでに書くと、仕事で中国人とお付き合いがあったので、彼らへの違和感〜差別感が
ないとは申せません。エグおまっせ、彼らは(謎)。
多分、彼らは日本人よりも、アメリカ人とのほうが一緒に仕事をしやすいだろうな。
あの徹底的な、殺伐と言いたいまでの個人主義は、学ぶべきかも知れないが。
三浦さんへ:
少し古い話ですが、脱北者が多すぎて、中国の朝鮮族が支援し切れなくなったと聞いて
おります。支援不足で一部の脱北者は強盗と化しているとも。(逆に自衛のため、脱北
者を殺しているという話も。)
暴力を基本的に市井から排除した日本の庶民には想像もつかない状況があると思います。
生きるためには酷いことも「受忍」しなければならないのでしょうかねぇ。
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石埼 学さんの講演会のご案内 投稿者:小西 まこと 投稿日: 2月 5日(日)13時48分45秒
第4回、ホットライン・フォーラムでの石埼 学さんの講演のご案内を致します。ぜひご参加下さい。
●「憲法状況の現在を観る」
―自民党改憲案、国民投票法案をどうとらえるか
講師 石埼 学さん(亜細亜大学助教授)
■と き 2月18日(土)午後6時30分〜
■ところ 東京・中野勤労福祉会館3F和室
(JR中央線中野駅南口下車徒歩3分)
■入場カンパ 800円
新進気鋭の若手憲法学者が、最新の憲法状況を読み解く!「改憲」「国民投票」……で「日本」は、どうなる。「自衛隊をどうする……“戦後60年の日本の互解的状況”の中から―九条実現のための立憲的不服従―を追求する。
(最新刊に『憲法状況の現在を観る』社会批評社刊・定価1500+税)
http://www.alpha-net.ne.jp/users2/shakai/top/67-0.htm
ひとりでも多くの皆さんの、積極的な御参加をお願い致します。
■連絡・お問い合わせ先
米兵・自衛官人権ホットライン
〒161-0034 東京都新宿区上落合2-29-1-402号
●電話:03(3369)3977(受付時間:月〜土18:00〜21:00)
●Eメール:gi-heisi@jca.apc.org
●URL:www.jca.apc.org/gi-heisi/
●FAX:03(3366)4650
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どの民衆も同じではないか? 投稿者:北@仙台 投稿日: 2月 5日(日)10時24分8秒
確かにあの紅軍三大規律、八項注意(私が評価するのはこれだけ)を生み出した中国民衆との落差はあると思いますが・・・。ただ、意見を言う主体の民族の内容を言わずして、ある民族だけを抽出した感想を公開するのは、その民族への差別意識をより増大させることになると思いますよ。
二次会読者ならお分かりかと思いますが、この女性を食い物にするといったことは、世界中どの地域にでも存在します。これは、「性」の商品価値とそれを通した隷属的労働が、男社会に非常に都合よくできているからでしょう。
たとえば、ホームレス(野宿者)全体に対する女性の割合を見ても明らかです。現代日本地域において女性のほうがより自律的で関係性の崩壊が少ないとしても、総体の2〜3%(当地調査)という数はあまりにも少ないといえるでしょう。
支援者サイドの早期発見・保護(女相への同行)活動が盛んに行われていますが、同じように「裏」の社会の「早期発見・獲得活動」が行われているのも紛れもない事実です。どちらが先に声をかけるかが、その女性の運命を決めるといっていいほどです。
また、まさしく「人身売買」(国際結婚)された中国人女性がホームレス状態となり、野宿男性とカップルとなっている実例がありました。結婚によって日本国籍得たのち、結婚が破綻、野宿となったようです。異邦地での生活・国籍状態の不安等で支援施設の利用を拒否、心優しい男性(であってほしい)と連れ添っています。
つまり、日本民衆の中においても性奴隷とされる女性は多数存在します。これを言うと日本では、逃げることができるのにしない当事者の「任意」の行為だとして「自己責任」なんという都合の良い言葉が出て、その実態が闇に葬られるのです。
「脱北女性」がだまされ威力をもって「売買」される中国・朝鮮地域の現実と、どこにも行き場がない状態で「だまされ」「性商品」化する日本地域の現実はまったく変わらないのです。これは世界中どの地域においても変わらないでしょう。常にこの視点をもって考えるべきだと思っています。性奴隷=性の商品化に限らず・・・中国人民も日本人民も朝鮮人民も最低な奴はそこいらにいる(あなたの中にも、私の中にも)、それが民衆の現実です。
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中国民衆の名誉のために言っておきますと 投稿者:三浦小太郎 投稿日: 2月 5日(日)09時13分19秒
一応、中国民衆、特に朝鮮族の名誉のために言っておきますと、1995年以降の北朝鮮大飢餓の時代、脱北者を、中国政府の命令を無視して匿い、食糧を与え、援けたのもまた中国民衆、とくに農業を営む比較的貧しい朝鮮族の人たちです。彼らは歴史の中に名前を留めることもなく、まさに右手のした事を左手も知らないような形で多くの命を救った事を忘れてはなりません。
ただし、中国政府の取り締まり強化の中、今度はこのように脱北者、特に女性を食い物にする人種が出てきたこともまた事実なんですね。中国政府もこのような人身売買を取り締まる意志があることは事実なのですが、それ以前に、脱北者を難民として保護する事が、ブローカーそのものの存在を無くすためには最も必要であることは疑いを入れません。
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「大地の子」の人民中国とエライ違いだ 投稿者:TAMO2 投稿日: 2月 5日(日)08時24分59秒
元、中国盲従分子としては、「中国人の腐敗もここまで来たか」という印象が第一です。
すいません、ほかのことは辛くて書けない。
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昨日の集会から 投稿者:三浦小太郎 投稿日: 2月 5日(日)08時11分15秒
昨日の守る会大阪集会の内容を少しだけ紹介します
人身売買の被害者、李明花さんの証言の一部です。今日は午後1時半から東京食糧会館(麹町駅徒歩3分)ですので、興味のある方は是非おいでください
脱北女性 李明花さん証言 脱北者人身売買の実態
私は1998年6月北朝鮮を脱北し、中国で約5年間生活していて2003年1月韓国にきた李明花です。
お姉さんは工業大学を卒業し、鉱山で仕事をしていましたが、あまりにも過酷な力仕事が続いたので、もう体が持たずに職場からいなくなってしまいました。お姉さんが居なくなって1週間が過ぎたころ、お姉さんと一緒に中国に行ったと言う男生が家に来て、お姉さんは今中国で元気で暮らしていると言い、一通の手紙を見せてくれました。その手紙にはお姉さんの字で中国が暮らし易いし、お金も稼げるので中国で暮らすつもりだと書いてあります。しかし、私たちは離れては暮らせないので、必ずお姉さんを探すと言ってお母さん、私、妹3人でその男性について行く事にしました。実はその当時私の仕事は宣伝部で歌手生活をしていましたので、お姉さんが中国に行っている事実が分かれば舞台生活を続けられないし、家族に被害が及ぶだろう思ったので脱北を決心しました。
しかし、中国に行ってみるとすでにお姉さんは既にどこかに売り飛ばされた後でした。ここで何日か待っていればお姉さんが来るからという男性の話を信じるしかない私たちは倉庫、屋根裏、豚小屋から山の奥に居場所を変えながら3日間お姉さんを待っていました。そしてある夜、和龍に行こうと言ってタクシーの運転手と女性が来ました。隠れていた山から下りてそのタクシーに乗って市内に向かいました。私たちの前に大きな罠が待っていることも知らずに・・・・・・。
その場に着いてみると、私たちを待っていたかのように、何人かの中国人たちが中国語でしゃべりながら打ち合わせをし、私と妹は同じ車に母親だけは別の車に乗るように言われました。私たちは別れたくないと泣きながら訴えましたが、るとお母さんの乗った車について行くから心配ないと言われ、仕方なく彼らの言うことを聴くしかなかったです。
その後、テレビのドラマのような出来事が起きました。交差点でお母さんが乗った車は直進し私たちの乗った車は右の方に曲がったのです。妹と私は車の中で泣き喚きながら騒ぎましたが誰も力になってくれませんでした。このように私たち家族はお姉さんに続きお母さん、妹、私まで金で売られました。これは後で分かったことですがお母さんは年齢が高いから売れないから私たち姉妹を売るため分けて連れて行ったのです。その時、私は21歳、妹は18歳でした。
私は我慢できましたが、妹は18歳で何も知らない子が10歳も年が上の人に売られて行くのを見て、何もしてあげることが出来ない悔しい気持ちで、二人で抱き合って泣きました。私が身売りされた家(中国朝鮮族)には2級精神障害を持っているお父さんとお母さんがいまして、その家の長男と私は結婚生活を始めました。北朝鮮にいた時は家の生活もそれほど苦しくもなく子供時代から(6歳)歌だ ッA(実は私も)えー!と言っとく。
共同体ね?地方ではもう壊れているのに、まだあるように言われているのは?
まことさん
社民党が「やじろべえ」みたいになりながらも、共産党と自民党護憲派=加藤さんまでの干渉材になれれば、それはそれで存在 オ語訳)でもいいかもね?
??? L齡hとの軍 冥もそも自衛隊は軍隊であり、人道復興支援の キ。
戦争の「残酷な現実」 ノヘ? 投稿者 Fした。<