四トロ同窓会二次会 2002年8月22日〜24日
誰でも歓迎!何でも自由に投稿してください。投稿内容は過去ログに保存します。「赤色土竜新聞」その他に掲載する場合もありますのでご了承ください。
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資本主義企業内で「頑張れば報われる」か? 投稿者:TAMO2 投稿日: 8月24日(土)22時31分49秒
新米管理職です。小生の会社も、「世界標準」と言われる業務評価ソフトを
導入し、管理職の業務管理がなされます。
これは、業務を細分化し(20項目くらいかな?)、それぞれについて点数
を与え、年度末に点数評価され、各項目の合計値で評価される、という仕組み
です。
但し、年度始めに「ない」項目は評価の対象になりえず、また、仕事内容は
情勢によってどんどん変わっていきますが、それらを上手く公平に評価できる
システムではありません。年始に「ない」項目が評価されない、ということは、
後から出てくる仕事は全て「会社へのサービス」ということになります。どん
なに頑張っても、報われることにはなりません。ですが、この「ない」項目の
仕事をしないと、別項「協調性」などで、大幅な減点がなされるという、素晴
しくムチャクチャなものです。これが、役員以外の全管理職に適用されます。
こんなものが、世界標準としてかなりの数の企業で使用されています。
個人主義的な発想に立つならば、かなりナエナエなシステムで、実際、欧米
ではこのシステムを見捨てている会社も多数あるのですが、なぜか日本では広
がっているようです。
それでもなぜ、多くのサラリーマンは頑張るのでしょう。小生の場合は責任
感と、仕事を持ち込んでくる仲間が「ありがとう、助かったわ!」というから
です。ウチの職場の場合は恐らくみんなそうだと思います。だから、競争原理
に#基づかない#社会も、今の日本では可能だ、と思うと言えば、飛躍が過ぎ
るでしょうか。
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ぎょうむれんらく 投稿者:まっぺん 投稿日: 8月24日(土)21時11分28秒
二次会過去ログを4月分まで公開しました。((^^)
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いずみ様 投稿者:野次馬 投稿日: 8月24日(土)16時23分18秒
>結局、遠山理論は「万人に数学を解放する」ことを目標として組み立て
られているわけですが、果たしてそんな必要がどこにあるのでしょうか?
理系的な専門技術を理論または道具として習得する必要がある人ならとも
かく、それ以外の人が、数学的な論証を細かく組み立てられる能力を有し
ていたからといって何かの役に立つとは到底思えないのです。
太郎次郎社系統の出版物を読む限りにおいては、おっしゃるような「たてまえ」を
もっていることは事実です。しかし、本体の機関誌「数学教室」を読むと、
遠山派には「ある種の初等数学に関するオタク集団」という側面が強くあると思います。
私は、
水道方式の、現実には何の役に立つかわからないような体系性や、
量の理論の、物理=数学的仮想空間などに、
シャルル・フーリエを思わせるような側面を感じとり、
不真面目さ(遊び心)に共鳴する、数学教育協議会の趣味的一ファンで
す。
こんな変な趣味を他人におしつけるつもりは皆目ありませんが
かつては、授業には積極利用していました。前述したとおり、
できるつもりでいる連中に対する抑圧手段として。
ちなみに、今ではスパイ斡旋業者として有名になった小野田譲二氏が、
新左翼圏と自立小僧の世界から離脱して、特殊相対性理論否定などの
独自世界に参入したきっかけになったのは、
数学教育協議会批判の著作で、、
社会評論社から刊行された『数学教育の基礎を考える』でした。
これの帯に、当時数学教育協議会副委員長だった(と思う)森毅が推薦文
を書いてます。
その内容が、遠山啓におけるオタク的側面の指摘であったと記憶しています。
数学教育協議会メンバーの平均的な意識は、
数学はとても面白いものだから、みんな数学ファンになろうよ、
誰だって数学を楽しめることはできるよ、
ぐらいのことだと思います。
そこから、「とける」よりも「わかる」、「わかる」よりも「たのしい」
という戦略的図式が出てくるのであって、
「万人に数学を解放する」の意味内容が、
1970年代半ばあたりを境にして変容してきたのだと思っています。
(それ以前はさすがに、数学セミナーの監修、東京図書の数学新書でのソ
連圏の数学啓蒙書の発刊支援など、いずみ様の指摘のような傾向がはっき
りあったと思います。)
だからこそ、数学教育協議会の末端メンバーは代々木系が多かったにもか
かわらず(推測)、代々木主流の岸本理論とは全面的な対決を行ったのだ
と思います。
その後の、向山「教育の法則化」運動との敵対的対決についても同様です。
つまり、数学は苦痛であってはならない、数学は絶対的な快楽であるという
信仰に近い信念をもっているのが、この集団なのです。
とはいえ、お考えのように、嫌いだと言っている子供まで巻き込もうとい
うのはとんでもないおせっかいであり、困ったものだとは思っています。
それでも数学教育協議会は、戦後、日教組系の教師団体の中で最も興味の
わく対象であることには変わりありません。
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ただのだらだら雑感 投稿者:いずみ@もばいる 投稿日: 8月24日(土)12時57分34秒
「灯台出」というのが何を意味しているのか少しだけ不明瞭ですが、それが「東京大学卒」の意味であれば、「違います」。
いずみは水道方式はキライです(笑)。批判つーかただのブツクサはこちら
→http://www.izumichan.com/misc/juku/003-021.html
で、塾なのですが。
単に「教科を学ぶ」という面だけから経験則的に言うと、リアルな消防・厨房の母集団がいたとして、教科別に、真ん中4割・上3割・下2.5割・もっと下0.5割、という割合で分けて、真ん中が15〜25人くらいに納まる感じでクラス分けして教えれば、今の学校の授業時間数と同じ拘束時間で、相当程度の「目標達成」が十分可能なんじゃないか、という風に思ってます。
ってこれは今現在の都市部の中堅的な塾の標準的な作風だと思うのですが、学校がいかにティームティーチとかやったとしても、結局この効率には「勝てない」としかいいようがないように思います。
その面では、とりわけ都市部の学校の教師がいかに大変か(スタートラインがハナから超絶不利なのに塾と比較されてしまう)、とも思います。
もち、そこまでして学ぶべきものは何か、とか、他に学ぶべきものはなにか、みたいな命題は常に密接にかかわってきますが。。。
#でも、やっぱり「教授」には、資格やトレーニングではいかんともしがたい「センス」も必要なのかもしれません。
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競争のイメージ 投稿者:まっぺん 投稿日: 8月24日(土)11時07分30秒
>近代都市化された社会における、肯定的な競争の例はイメージしづらいのが、私の現実です。
同感です。将来のことは将来のひとたちにまかせればいいと思います。
今はあれこれ議論はできても、結論にいたる事はないだろうし。(^^)
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よこれんぼしたらとうはかんぶのかのじょ 投稿者:まっぺん 投稿日: 8月24日(土)11時03分12秒
ぶぁっはっはっは〜(^o^)。ぶらっくゆーもあですか。ジェルジ君の実体験だったとか?
ま、じょーだんはさておき、第四インター内部の女性差別事件に関する問題は重大です。この問題は日本支部崩壊の原因にもなっているわけですが、「組織が非抑圧的だからおこった」という事ではないと思います。そうした事件をひきおこしたメンバーの多くが三里塚現闘や各地域の責任ある位置の人たちだった事をみても、むしろ組織活動によって個人に強いられた困難さ、抑圧などが引き起こしたものでもあるからだと思います。外部の人には理解困難かもしれません。しかし、一般論として考えてみても、組織が女性差別を温存するものになっていた事は、単に実行犯の個人的問題ではなく、組織それ自身の問題である事はわかると思います。
現在の「失業率」は「労働力人口」中、「完全失業者」つまり失業中であることを積極的にアピールしている人だけの割合で計算しているわけですが、フリーターは、非労働力人口中の「就業希望者」に含まれていると思います。フリーターというのは、「フリーター」という名の失業者、労働力調整のための「予備労働力」なわけで、「かけはし」でも過去、これに言及していたと思います。探そうとしないで「注目しないのはなぜか」というのは軽率じゃないですか? 「選挙にかかわらなかった」発言の時もそうだったけど。
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まっぺん様 投稿者:野次馬 投稿日: 8月24日(土)09時57分52秒
>何らかの「帰属意識」は地域・職場的な生産諸関係の中で残るんじゃな
いでしょうか。その時、自分の所属する共同体のために、競争意識を持つ
ことは自然なことではないかと思います。
このあたりについては異論はありません。イタリアのルネサンス都市シエナのカンポ広場で開かれる地区対抗競馬を思い起こしました。あるいは、アメリカの農村部のフェアでの品評会を。このように競争をシンボル化してきたのが、現実の社会の知恵ではないでしょうか。この知恵を素材として、オリンピックやワールド・カップに代表される、おぞましいイデオロギー産業である近代スポーツが誕生するという悲劇もありますが。ご指摘のソ連の例は、スタハノフ運動とどう違うのかよくわかりません。ところで、かつての協同性を内包した競争の例は思い浮かべることができるのですが、近代都市化された社会における、肯定的な競争の例はイメージしづらいのが、私の現実です。
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いずみ様 投稿者:野次馬 投稿日: 8月24日(土)08時33分17秒
おっしゃていることの意味は、体験的に実によくわかります。
というのも、私自身も同様に
「学校社会での優位者」「子供(遊び)社会での劣位者」だったからです。
私の自慢めいた話は、それはそれで事実なのですが、
小学校(公立、東京下町)の教師が、熱烈な水道方式派すなわち数教協活動家であって、
算数以外の他の課目でも、このたぐいのさまざまな抑圧的恩恵を受けたので、
塾の現場でその真似をしただけのことです。
この面では感謝しておりますが、「平和教育」には辟易した記憶があります。
年齢がわかってしまいますが、学校集団で「千里馬」を見に行ったことがあるのです。
ついでに、デモ指揮教師様へ
佐藤学の引用ですが、むしろ、私はご指摘のくだりについては疑問です。
これは、アメリカ合衆国の国内情勢に関する月並みとなった報道を単に横滑りさせただけの表明にしか思えません。
佐藤学は、こんなことを裏付けるにたる膨大な個人データを本当に所有しているのでしょうか?時間があったら原文にあたってみます。だって、「多くの子どもにとって 親よりも下の学歴を決定付けられる場」と指摘するためには、社会統計にあたるだけではなく、個々のケースでの意識調査が必要と思えるからです。私には直訳的あてはめにしか思えません。
1980年代前期を境に起きたことは、
「村社会」「家社会」の絶対的権威がほぼ消えたことではないでしょうか。
このために郷里からの離脱が比較的容易になったために
どうしても「都会に出たい」という、一番の「学習動因」が後景化したことが大きいと
考えています。(これは、さまざまな知人から聞いた話の総合による判断です。)
すべての社会現象の原因を、経済関係に見る「下部構造主義」は、
近代経済学の「ホモエコノミクス」による議論立てとよく似たフィクションだと思っています。
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ガリ勉でも大丈夫 投稿者:つのじ 投稿日: 8月24日(土)05時40分28秒
中学のとき、無理やりクラス代表で応援団に選ばれた。はっきり言って発
声練習と応援の型の練習はきつかった。しかーし、指導してくれるのは任
侠肌の高校生の先輩。だから
不良連も俺がどんな罵声を浴びせようが応援練習という大義名分がある限り、文句は
言えんわけだ。応援団に逆らったら指導者の高校生が締めてくれると分かっているから
とても安心でした。お粗末さまでした。
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夜中ヨタ 投稿者:臨夏 投稿日: 8月24日(土)03時42分23秒
いずみさん>
>「体育ダメ、芸術関係ダメ、協調性マイナス、道徳性マイナス」みたいな、
>いわゆる「おべんきょう以外能がないヤツ」は、その唯一の「能」すら
評価されず
おー!いずみ同志!(>_<)
>高卒の(笑)いずみ
わたしの先輩は、「いずみは灯台出や」いうてましたで( ・∀・)
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野次馬さん江 投稿者:いずみ@もばいる 投稿日: 8月24日(土)01時37分34秒
「できる子への抑圧」ですが、これは塾ではめったに起こらず、学校で起こっていることとして書いたです。
むしろ、野次馬さんが書いたようなプレッシャーを与えられれば、それは
まさに「教授という場での正当な抑圧」たりえるわけですが。
まーいずみも、自分の能力を超絶過信した結果(笑)学校の授業が退屈で退屈で、そんな授業を強いられるのが苦痛以外の何物でもなかった、という原体験(笑)があって、それを踏まえた意見ではあります。
が、いずみがガキだった頃に比して、公教育の現場は大変貌を遂げてまして、いずみみたいな「体育ダメ、芸術関係ダメ、協調性マイナス、道徳性マイナス」みたいな、いわゆる「おべんきょう以外能がないヤツ」は、その唯一の「能」すら評価されず、どころか東京においては大学進学への道を著しく不利にされる、という状況が今に至るも続いているわけです。そんな「能」は評価されなくてもよい、というのはまったくそのとーりでもあるのですが、周りの評価を吸収して成長するガキにとってはこれはかなりのプレッシャーです。
以前54だったか55だったかで以前LPGさんが書いた、「そういうところで教師に抑圧された、相対的に「おべんきょができる椰子」が、そのルサンチマンを教師の「平等思考」に向け、その結果が一部の若者を「ネットウヨ」=実はただのうすっぺらな保守に向かわせているのではないか、というのが、すごく気になっているわけです。
ちなみに、今はいずみは、「公教育は読み書きそろばん+集団生活を学べばよい」と考えていて、そのためには多少は、「できるやつには退屈という苦痛、できないやつには無理やり覚えるという苦痛を、「集団生活だから」というだけの理不尽な根拠で押し付ける」というのもあってよいのかな、とは思っています。ただしそのためには、教師や学校を、ガキや保護者が選べる権利が不可欠だとは思いますが。
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2ちゃんねらーと同じギモーン設定 投稿者:いずみ@もばいる 投稿日: 8月24日(土)01時24分17秒
「批判すべきものはすべからく批判しなければならない」なんてのがそもそも自己の能力に対しての妄想以外の何物でもないな。とりわけ高卒の(笑)いずみはあんたとちがってバカだからさ、すでにあまたの批判が出尽くしてる革マルにまであえて言及する力量の余裕がないんだなこれが。
ま、現場で連中と衝突してるなんていう、ここで書くよりも数百倍緊張を強いられることもやってる、なんてことはあんたにとっては「どうでもいい」んだろうけどね。
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佐藤学は・・ 投稿者:デモ指揮教師 投稿日: 8月24日(土)01時17分44秒
佐藤学は『教育改革をデザインする』の中で次のようなことを述べていま
す。(本が手もとにないので不正確だが)
<不正確な要約>
かつて学校は、自分の親よりも上の学歴(社会的地位も)与えてくれる場
だった。80年代初頭を転機に、学校は 多くの子どもにとって 親より
も下の学歴を決定付けられる場になってしまった。<要約 ここまで>
この部分には「なるほど」と思いました。この本の他の部分には納得でき
ないところがたくさんありましたが。一応、参考までに紹介します。
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いずみ様 投稿者:野次馬 投稿日: 8月24日(土)00時37分38秒
おっしゃっている内容に、ほとんど異論はありません。
特に、
いずみ様の次の表現の方が、
>その優劣関係を他に拡大しようとしがちな
当方の
>現状における優位・劣位の関係を確定させる
という表現に比べて正確な事実認定だと思います。
この関係の確定を、イデオロギー的な実作業としておこなっているのは、
現実には、教師よりもいずみ様の指摘するような諸勢力だからです。
中には、こういった作業に積極的に荷担する教師もいはしますがね。
ただ、
>「できない子」と「できる子」の双方を抑圧している
については、本当かなとも思います。
私自身に関しては、クラス内で「できる子」と自認し他認されているよう
な子に対しては、たとえば算数・数学だと、
数学教育協議会的な意味での原理的な質問をすることで抑圧はしていましたが、
それが一般論でいえるかどうかはよくわかりません。
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横ヨタレス 投稿者:臨夏 投稿日: 8月23日(金)23時43分52秒
主体さん>
>ではなぜ革マル派を批判しないのでしょうか?
なんでもかんでもできる、というものでもないでしょう(^^;
////
厨房のころから、「帝国主義や!帝国主義や!」と叫んできたわたしですが、
ようやっと『帝国主義』レーニンを読んでます(笑)
はずかし(^-^;
言い訳したら、随分まえ読んでタイクツなんで放置してたんですが、
読みなおして、半分ほど越えたら、歴史物語りみたいでおもろいですね。
でも、マルクス主義にしては簡単な本ですね(苦笑
表三郎の大昔の論文、
『労働と所有の分離』も読みなおしてます。さすが、昔より、理解できる。
でもだれも知るまい。
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主体思想学会様 投稿者:野次馬 投稿日: 8月23日(金)23時27分28秒
私自身の塾講師としての経験がバブル前だったということもあって、
現状認識がついていけていないかもしれません。
しかし、1960年代にあったような本格的な受験戦争が遠のいているとしか思えないのに、
こういった闘争(競争)から逃亡する感性が、広範に拡がっているのは、
がんばってもたいした成果はあがらないから、という状況認識からとは思えません。
日本の子供たちが、受験をめぐる競争についてひどくペシミスティックなのは、
バブル前からのことです。(論理的に説明できる根拠もないのですが)
実感としては、数人の教育学者が指摘するように、あきらめによる競争か
らの逃走ではないかというふうに思っています。
それが次のように書いた意味です。
>劣位にあるものは、この抑圧的な構造を宿命的なものと考える傾向にある、
という印象を持っています。
ゆとり教育については、新自由主義政策の典型である、社会政策の後退
もしくは、あまり使いたくない言葉ですが「愚民政策」であると思います。
実際には、かつての西尾幹二ではありませんが、
私立および国立の中高六年制一貫校の優位をいよいよ推進する
という意味で差別選別教育という構造は退行していないのではないかと思います。
この件については、実情の把握、主体思想学会様の見解の理解、両方について
はやとちりや、誤解をしている可能性があると認識しつつも、
とりあえず、投稿します。
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そういえば 投稿者:主体思想学会 投稿日: 8月23日(金)23時24分10秒
いずみさんは、以前「荒大介、宮崎学は運動圏全体にとって有害だから批判する」ということを言っておられましたね。
その認識自体はいいのですが、ではなぜ革マル派を批判しないのでしょうか?
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さらにいえば 投稿者:主体思想学会 投稿日: 8月23日(金)23時21分12秒
私個人に付いていえば、学校で「能力別指導」がされてなかったおかげで、同じクラスにとても多様な人間がいてよかったと思う。「できない子」を助けることによって「できる子」の能力がさらに高まるということもあるわけだし。
もちろん、受験だけを考えれば全く不利ですけどね。
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人の質問に答えない人に 投稿者:いずみ 投稿日: 8月23日(金)23時18分06秒
こちらから答えるつもりはありません。
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(無題) 投稿者:主体思想学会 投稿日: 8月23日(金)23時15分10秒
私自身「できる子」でしたが、「授業が退屈だった」という記憶は強烈にあるけど「抑圧されていた」という気はしないな。
「退屈な授業を強制的に受けさせられる」のが「抑圧」だというご意見ですか?
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いずみさんへ 投稿者:主体思想学会 投稿日: 8月23日(金)23時09分29秒
>能力別指導が行われないことが、どれだけ「できない子」と「できる子」の双方を抑圧して
>いるか、ということ、
能力別指導を行わないと、なぜ「できる子」が抑圧されるのでしょうか?
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ずいぶん現場の実感と違う気が。 投稿者:いずみ 投稿日: 8月23日(金)23時07分51秒
主体うんちゃらは、もう少し、文教政策史とかも学んだほうがよいのでは。
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まっぺん様 投稿者:野次馬 投稿日: 8月23日(金)22時59分35秒
>「競争が人間を疎外するのは現代社会が資本主義社会だから」
そうはおっしゃっても、異性獲得をめぐる競争までもがすべて
資本主義社会に還元できるものとも思えません。
現在の俗論化されたダーウィニズム(その典型が竹内久美子ですが)が、
それこそ19世紀におけるイギリス資本主義社会の申し子であることは
十分存じております。
また、私自身が資本主義社会とは何なのか、ということを
ようやくわかったのが、友人の司法試験受験勉強を隣でひやかして、
民法というものをはじめて眺めたときであり、すべてが金額に還元される
という意味はわからないでもないのですが。
それでも、七七告発に対する対応から
ABCD問題としてはじめて公然化された問題まで
公式論では解説できない諸事態に
対処せざるを得なかったのが
この30年だと思ったもので、記した次第です。
賃労働と資本の問題を後景化させるまでに
諸問題が露呈化したのが1968年革命という問題だと
認識しております。
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野次馬様 投稿者:主体思想学会 投稿日: 8月23日(金)22時58分00秒
少なくとも戦後の日本においては、教育は「分断」のための道具というより「統合」のための道具と見る方が適切ではないでしょうか?
つまり、受験競争の勝者がいわゆるエリートになることによって、「国民みんなが、誰でも受験でがんばりさえすればエリートになれる」という構造を作り出した。それによって国民の意識的統合を作り出した。(つまり、「エリート」は他人より頭が良いだけの人間で、他の点では他の国民と変わらない、という意識状況)
ところが、現在は「受験戦争の勝者がエリートになる」という前提が急速に崩れつつあります。名門大学を卒業して大企業に就職したからといって、「エリート」であることが保証されるわけではない。いつ会社がつぶれて路頭に迷うかわかりません。
前提が失われたので、教育の国民統合機能も働かなくなってきた。いろんな意味でこれまでの差別選別教育が崩壊し、代わりに「ゆとり教育」が打ち出されてきた。「そんなにがんばって勉強しても、どうせ大した就職口はないよ」という意識が広がっている。
という状況じゃないでしょうか。
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(無題) 投稿者:主体思想学会 投稿日: 8月23日(金)22時27分18秒
まっぺんさんご紹介のページを読んでみました。第四インターの文書は独特の味わいがありますね。例えば
http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Bull/3211/13thcom.html を見ると、
|わが同盟は、労農合宿所における強姦事件の中で「第四インターは腐っている」と批判され、
|革命党建設の根本的とらえ直しが突きつけられてきた。
なんとなく革命前夜の緊張感がありませんね。なるべく抑圧的でない組織を作ろうと意識的に努力していたのが伺えます。しかし、その非抑圧的な外見の裏で、強姦事件の多発という「腐っている」としかいいようがない事態が進行していたのは何故なのでしょう。理解することが難しい現象です。
ところで、園江さんのページを見ると、ジェ(以下略)さんは現役のJRCLメンバということになっていますね。ところが、
http://seikeiken.hypermart.net/syuukai/bungei3.html
をみると、「よこれんぼしたらとうはかんぶのかのじょ」というジェ(以下略)さんの作品が掲載されています。他の人がこれを言うなら何でもないですが、第四インター関係者が言うと「冗談になってない」という感じがしませんか?
わたしも一首考えました。
「おんなめあてのかくめいうんどう」 ちゅちぇ
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(無題) 投稿者:主体思想学会 投稿日: 8月23日(金)21時55分59秒
「かけはし」2001年9月3日号より
(http://www.jrcl.net/web/framek883.html)
|それでは実際の失業者と失業率はどれくらいになるのか。総務省が行った今年(注、2001年)
|二月の「労働力特別調査」によれば、「非労働力人口」に数えられている就業希望者は九百
|八十二万人に達する。たとえば子どもの世話のため長時間の通勤は困難だなどの理由で現在
|は求職活動をしていないが、「適当な仕事があれば働きたい」という人は四百二十万人もいる。
|これらの「就業希望者」は、社会に就業をサポートするシステムがあればすべて働くことが
|できるにもかかわらず、働く機会を奪われている失業者にほかならない。「完全失業者」
|三百三十万人に「非労働力人口」に数えられている「就業希望者」九百八十二万人を足せば、
|事実上の失業者は千三百十二万人となり、失業率も一七%を超えてしまう。
「かけはし」のこの論文では抜けてしまっていますが、ここで挙げられている数字のほかに、低賃金で不安定な条件で働いている「フリーター」層も実質的には失業者に極めて近い存在ですよね。
「かけはし」がなぜ若年フリーター層にあまり注目しないのか、不思議に感じます。
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競争について 投稿者:まっぺん 投稿日: 8月23日(金)19時56分46秒
野次馬さん、レスありがとうございます〜\(^o^)
きわめて公式論的ないいかたですが「競争が人間を疎外するのは現代社会が資本主義社会だから」ってことになるんじゃないでしょうか。
資本主義社会ではすべての価値観は「金額」で計られてしまう。われわれはそのただ中で生活しているので、「そうではない価値観をもつ社会」を想像するのはむずかしいと思いますが、資本主義的生産関係が廃絶され、将来、もっと社会主義的な共同意識の中で人々が生活できるようになった時を想像した場合、国家は廃絶にむかうとしても、何らかの「帰属意識」は地域・職場的な生産諸関係の中で残るんじゃないでしょうか。その時、自分の所属する共同体のために、競争意識を持つことは自然なことではないかと思います。ソ連では、工場同士で競争をやらせていたようです。もちろんそれがどんな形でおこなわれたかは問題がありますが。
資本主義社会でも、企業内部をグループごとに結束させ、個人的競争意識ではなく集団的に競争させる方法がとられている企業もあるようで、そういう意識を引き出すことが実際に企業を活性化させている例もあるようです。もちろん、「グループに対してどれだけ貢献しているか」は最終的には個人への評価となって「給与・賞与・出世」という結果に結び付くわけですが。
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教育なんて抑圧ですが、何か? 投稿者:いずみ 投稿日: 8月23日(金)17時30分54秒
>現状における優位・劣位の関係
というのがあるのは当然ではないでしょうか。
「読み書きそろばん」を含めた一切の教育は必要ない、という立場に立つのでなければ。
また、指導→被指導という関係が抑圧そのものであり、かつその抑圧なしには指導一般は成り立たない、ということも当然な気がします。
問題は、「時空間の1点に過ぎない、現状かつ小さな評価対象における優位・劣位の関係」を、その評価対象以外に少しでも拡大することであり、「抑圧関係」を、その教授過程以外に少しでも拡大することであるはずです。
能力別指導が行われないことが、どれだけ「できない子」と「できる子」の双方を抑圧しているか、ということ、また能力別指導が行われた場合にしばしば発生する「その優劣関係を他に拡大しようとしがちなガキ(差別語)どもや親ども」といかに「対峙」できるのか、ということ、この双方と向き合わねばならない。そんなしんどい作業につきたがる人が年々減ってるのは当然ちゃー当然かも。。。
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管理の問題を別として 投稿者:TAMO2 投稿日: 8月23日(金)17時06分42秒
例えば、小生は小学校5年の頃、かなり足が速かったのですが、怪我をして次の
運動会では断トツのベッタでした。それから、足が回復したことはありません。
一方、肩の強さはプロ野球に入ってもトップクラスでした。齢40を前にして、遠投
95mはなかなかのものでしょう。
競争によって得手・不得手を認識することは、成長過程において非常に重要なこと
だと思います。
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まっぺん様 投稿者:野次馬 投稿日: 8月23日(金)16時42分14秒
>問題は「競争だからいけない」のではなく、競争が人々の経済条件を左右するからいけないんじゃないでしょうか?
わたしはそうは思いません。
人間を管理する側にとって競争させることが重要なのは
順位づけを強制することで、集団を分断するためだと思います。
それは必ずしも、経済だけではないでしょう。
偏差値に象徴される差別選別教育は、社会における競争の典型例ですが、
その後の人生における経済効果との相関関係が強いのは確かに事実であるにしても、
現にある教育現場での体験に由来する感想からすれば(塾講師として)、これが抑圧的であるのは、
そういった将来的な問題よりも先に、
現状における優位・劣位の関係を確定させるという面が大きいと思います。
これは構造の問題であって、
こう言ったからといって、たとえば塾講師がそういった意図で管理している
と考えているわけでは必ずしもありません。
この例でいうと、一般的に優位にあるものはそういった構造には無頓着で、
優位・劣位は偶発的なものと考える傾向にあり、
劣位にあるものは、この抑圧的な構造を宿命的なものと考える傾向にある、
という印象を持っています。
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返事 投稿者:野次馬 投稿日: 8月23日(金)15時10分59秒
noiz様
失礼しました。
私自身は、労働と遊戯の関係について、
かつては、ウイリアム・モリスの影響を強く受けていました。
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怠ける権利 投稿者:noiz 投稿日: 8月23日(金)14時06分30秒
ラファルグの『怠ける権利』はぼくも興味深く読みました、が、細かい内容を忘れてしまいました ^^;;;
野次馬さんが言及された粉川氏のラファルグ紹介は間違っていないと思います。確認のために引っ張り出そうにも、今ダンボールの中です(笑)。
労働を神聖なものとみなさない思想的系譜はいくかつあるようですが、マルクス主義的な系譜のなかから「怠惰」擁護論が展開されたのは特筆すべき契機ではなかったかと思います。
幾つか思いつくことを雑駁に並べるとすれば、フーリエなどは労働を遊戯にまで高められるとかなり楽天的な議論をしていましたね。ファランステール(ファランジュ)という理想社会・コミュニティでは労働=遊戯となりべきであり、そうして各人がはじめて能力を全的に発揮できるのだと。確かに「空想的」ではあります。『四運動の理論』が最近再刊されたようなので、読んでみようかな。
他にも「労働≒遊戯」論の系譜で、苦役としての労働の廃絶を唱えている人にボブ・ブラックという人がいます。ただし表現があまりに挑発的なのであまり言及されませんね(笑)。
http://www.ne.jp/asahi/anarchy/anarchy/data/black1.html
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中間総括的な文章を 投稿者:黒目 投稿日: 8月23日(金)01時58分48秒
書こうと思ったのですが、長くなったので自前のとこに書きました。
「瓦解した主体の行方」ね(w
批判等をお待ち。
http://6514.teacup.com/kurome/bbs
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久しぶりに参加 投稿者:野次馬 投稿日: 8月22日(木)23時22分14秒
noiz様
次の文は粉川哲夫のサイトからの引用ですが、ご参考までに。
>すでにポール・ラファルグは、『怠ける権利』のなかで、労働への執着
と信仰が続くかぎり、そこでの造反は所詮新たな労働への隷属にすぎず、
従って最もラディカルな造反は労働の放棄すなわち怠惰にしかないことを
力説した。
googleで見ると、加藤哲郎や上野千鶴子もラファルグの議論に着目していますね。K・マルクスの娘婿ということですが、左翼史上、ユニークな立場にあった人のようです。この本は1972年に人文書院で翻訳が出ています。学生時代に読んで大きな影響を受けたはずの本なのですが、現在は手元になく、本当に、粉川さんが言っているような内容だったかもあまりよく覚えていないのですが。ずさんな投稿ですみません。ご投稿の内容に強い関心があるものですから記したまでです。
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「勝ち負け」について思うこと 投稿者:まっぺん 投稿日: 8月22日(木)22時04分12秒
ここでも何度も紹介されましたが、ヨーロッパの労働者や失業者の運動はすごい規模になってますよね。数十万単位の民衆があつまって、WTOやサミットに対抗したりして、元気がある。日本の運動とはかなりの較差を感じます。これは「ヨーロッパのほうが失業が深刻で日本はそれほどでもないから」なんでしょうか? 数次的に見ると、日本は今5・3とか5・5%のあたりを推移しています。しかしヨーロッパでは10%を超える国もあって、深刻であるにちがいない。
でも、失業率の計算のしかたが日本とヨーロッパじゃかなりちがっている事も考慮にいれなくちゃならないと思います。日本では、1週間のうちにたった1時間でも仕事をすれば、たとえ賃金をもらわなくても「完全失業」ではなくなるけど、ヨーロッパ ナ日: 8月19日( ーバリゼーション(アメリ J9/syohyou.html
陳独秀に対す 驍ウによれば、コムスンは「介護」の美名にかくれて相当ひど
い事をやっているようですね。
社会保険行政が破綻の危機に瀕 +ヨ俘mJjァソ14t{+ヲチ3F棄キ~^ラ_#w%ョヒv<ニ;qhP