四トロ同窓会二次会 2002年5月29日〜31日
誰でも歓迎!何でも自由に投稿してください。投稿内容は過去ログに保存します。「赤色土竜新聞」その他に掲載する場合もありますのでご了承ください。
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つーか 投稿者:黒目 投稿日: 5月31日(金)21時53分45秒
>しかし、それを理由に、この「革命政府」を否定できるのか、も問われなければなりま
>せん。当時のボリシェヴィキ政府に代わって政権を維持しうるいかなる政治勢力があっ
>たでしょうか?
てな言葉は、当然にも、正統派のスターリン万歳のスターリン主義者の人の口からも、スターリンの時代について出る言葉そのものですな。
勿論、「首領様万歳のチュチェな人」の口からも、「中国なんしか万歳な人」の口からも、同様に出る言葉であります。
是非とも「自分で検証」してみせていただきたいものです。
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そりでわ 投稿者:黒目 投稿日: 5月31日(金)21時17分36秒
スターリンが行った、諸々の悪行は、当然にもレーニンが行った事を継承する、「革命を防衛する」為の行為である、と説明されていると思いますが、この両者の違いとはなんなのでしょうか?
また、スターリンの時代に農民はそんなに暴動していないと思いますが、これはスターリンのボルシェビキが支持された結果でしょうか?
さらに、スターリンのやり方ではない方法を以って、「ソ同盟を防衛」する事ができたのでしょうか?
また、内ゲバ党派も、その内ゲバが、その党の「革命」にとって、どのように必然的なものであったのか、という事は説明していると思いますが、せみまるさんはこれを「自分で検証」されているのでしょうか?
>「決裂しないために、どういう方法があっただろうか」
「すべての権力を党にではなく、ソビエトへ」という方法があった、と繰り返し言っていると思いますが。
そもそも「反トロ教条主義」なるレッテルを貼られたままに、別にそれをはがそうとは思わんワタクシは(ワラ)、トロツキズムなるものは結局のところスターリニズムの双子の兄弟であり、その「残酷な弟」の性格や手法についての批判はできるものの、その出自を問題にする事は結局のところできはしないのだ、と思っているのですが、別にその事を論証するためにこれをやっているわけではありません。
「内ゲバ問題」と、その問題に決着をつけるための手がかりとして提示された「プロレタリア民主主義」という概念についての話をしているのです。
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反戦自衛官のホームページ開設 投稿者:小西 まこと 投稿日: 5月31日(金)19時09分23秒
熱い議論が続いていますが、本日、小生の東京新聞へのインタビューが掲載されています(カラー写真付きです、(^o^))。
この機会に、前から課題にしていた反戦自衛官のホームページを開設しました。まだ、工事中ばかりですが、ゆっくりと充実していくつもりです。インタビューは画像で読みにくいので、新聞を図書館当たりで読んでください(東京新聞のサイトはなぜか、このインタビューをデータ化していませんので)。そういえば、毎日新聞も僕の所だけデータ化していなかったですね。これは政治的意図ありか?。
http://www.alpha-net.ne.jp/users2/shakai/top/hansen.htm
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トロツキーは当時反対していたか 投稿者:アラブ復興車界党 投稿日: 5月31日(金)19時07分05秒
分派禁止規定について後年の「裏切られた革命」などで批判していますが、その当時はたとえ不本意にしても賛成したのでは。
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先に進まん 投稿者:ハンドルネーム未定 投稿日: 5月31日(金)18時03分58秒
どうも最近、マル経の基本概念の理解に対する自信というものがなくなってきた。というわけで、マルクス主義者の人から助言をいただきたいと強く望みます。
これまで、いろいろな人から意見を聞きましたが、一個のミカンと十個の饅頭が常に交換されうるとき、なぜ一個のミカンの交換価値と十個の饅頭の交換価値が等しいといえるのかについて二つの可能性があるであろうと思います。
(1)一個のミカンに含まれる労働量と十個の饅頭に含まれる労働量が等しいので、一個のミカンと交換されうる諸商品の量と十個の饅頭と交換されうる諸商品の量は常に等しくなる。よって、一個のミカンの交換価値と十個の饅頭の交換価値は等しい
(2)一個のミカンと十個の饅頭の交換は常に金の現象形態である貨幣を媒体にしてなされる。よって、一個のミカンの交換価値と十個の饅頭の交換価値は等しくなる
よろしくお願いいたします。
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革命と指導部のもんだい2 投稿者:せみまる 投稿日: 5月31日(金)16時50分14秒
●ボリシェヴィキは支持されていなかったのか?
さて、やはり決定的なのは1921年でしょうね。クロンシュタット蜂起の最中に開催された第10回大会でレーニンによって「分派の禁止」が提起され、それは決議されてしまった。この事には大きな問題があると思います。トロツキーは当時反対したし、現在のトロツキストの多くもこの決議を問題視しています。しかし、それを理由に、この「革命政府」を否定できるのか、も問われなければなりません。当時のボリシェヴィキ政府に代わって政権を維持しうるいかなる政治勢力があったでしょうか? またボリシェヴィキは「プロレタリア民主主義を踏みにじった」というけれど、それではなぜ、ネップ政策が実行にうつされたとたん、全国の農民暴動はなくなってしまったのでしょうか? ボリシェヴィキ政府ははたして支持されていなかったのでしょうか?
●ボリシェヴィキにかわる指導部の可能性
もしも、革命政府が当時のロシア人民の多くに支持されていないならば、それに代わる政治勢力が政権を担当すればよいでしょう。それならばクロンシュタット水兵の主張にも正当性があったといえるでしょう。しかし、そのような勢力はいったいどこにあったというのでしょうか。ブレストリトフスクの屈辱的講和はレーニン以外に締結できなかっただろうし、戦意喪失したわずかなロシア軍部隊を一年で強大なロシア赤軍へと育て上げ、内戦に勝利できたのはトロツキーの軍事的天才の賜物でした。またその後のネップ政策の推進を見ても、政治・軍事・経済全ての面で、ボリシェヴィキの集団的指導体制の中でしかロシア革命は防衛できなかったでしょう。
●「革命の防衛」と「指導部の支持」
黒目さんはここで「革命の防衛」と「指導部の支持」とを混同していると思います。私は何度もボリシェヴィキの政策について全て賛成しているわけではない、と言っているにもかかわらず、それらを全て賛成しているかのようにすりかえて反論している。ここには「革命の擁護」と「指導部の支持」とを同一視して語ろうとする傾向が見られます。私は、そういう思考はしません。たとえ指導部に誤りがあったとしても、客観的に「革命を防衛するにはどうするべきか」という考え方をするように、インターにいた時に学びました。トロツキーはその後、革命がスターリンによって簒奪された後でも、「ソ連邦の防衛」のために闘ってきました。これを理解できない人々だけが「トロツキーはスターリンを後押ししている」と批判してきました。またベトナム戦争当時、我々は「ベトナムスターリニスト指導部」の元にあったとしても、ベトナム人民の革命的闘争を支持し支援してきました。この立場を共有するなら、ボリシェヴィキ批判が即ボリシェヴィキへの敵対へ結びつくわけではないと理解するべきではないでしょうか。
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革命と指導部のもんだい1 投稿者:せみまる 投稿日: 5月31日(金)16時49分09秒
●第9回大会までのボリシェヴィキ
1921年以前の段階でボリシェヴィキの一党独裁は成立していましたが、それは最後まで革命側に立った2つの党派のうち左翼エスエルがテロリズムによって非合法化された結果として成立した一党支配であった事は説明しました。黒目さんも、そこまでは明確にではないが理解を示していますね。また第8回大会、第9回大会まではボリシェヴィキ内部のそれぞれの分派による自由な民主的討論が行われていた。また、一党独裁にいたる経過を見ると、それぞれの党派が革命側から脱落していった時、その党派内部の革命的人々は次々とボリシェヴィキに合流していった事がわかります。つまり「ボリシェヴィキ」といっても、1917〜1920年段階のボリシェヴィキは1905年当時のものとは違い、多くの傾向を抱える党派となっていたのです。
●1920年での選択肢は?
黒目さんは「もしボリシェヴィキの立場ならどうするか」という私の問いには答えなかった。それは1921年段階の決定的に敵味方に分かれた状態を例にしてのことですね。すでに情勢がそのようになっている時ではどちらかの勢力しか選べません。それなら私の場合はボリシェヴィキの立場しか選べないことになります。だが私の本来の問いの意味はそうでは無い。もし1920年段階であったら黒目さんならどうしたでしょうか? それを聞きたいのですよ。つまり「決裂してしまったらどっちを選ぶか」ではなく「決裂しないために、どういう方法があっただろうか」というのが本来の私の問いなのです。
●自分で検証するべきである
黒目さんの主張のスタイルは明快であり、それ自身主張としては一貫しているんですが、やはり「革命の現実」との関係を考えるのを拒否する態度には同意できません。問題は「革命の擁護」をどう考えているか、ということだと思うのです。現実に生起し、いろいろ大きな問題を抱えながら進行していった革命を論ずるとき、そこに生じた問題について考える事と、内ゲバ党派が自己弁護のために主張する事とは同じようなものなのでしょうか? 黒目さんはロシア革命当時の状況についての説明を、内ゲバ党派の自己弁護と同じように「ボリシェヴィキの自己弁護」としか捉えようとせず、自分でそれを検証しようとしない。なぜでしょうか?
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防衛庁リスト問題について 投稿者:いずみ 投稿日: 5月31日(金)12時57分55秒
個人情報保護法案に反対する緊急行動が、コメントをリリースしました。
「防衛庁リスト」問題が現在の個人情報保護法案の欺瞞性を端的に表しており、さらにはこの動きが住基ネット、有事法制、公安調査庁とまでリンクしたものであると分析しています。
ぜひお読みいただき、ご意見ご感想などお寄せいただければ幸いです。
個人情報保護法案は、「メディア規制」などという一面的な見方で把握できるものではありません。少なくない左派が「メディア規制」という捉え方しかできていないこと自体が現在の否定的状況の反映です。
国会情勢は流動的です。機を逃さず、個人情報保護法案、住基ネット稼動断固阻止のために行動しましょう。
http://wsf.miri.ne.jp/cntlinfo/info/pr4.html
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ですから〜 投稿者:黒目 投稿日: 5月31日(金)12時36分21秒
その時点において、「プロレタリア民主主義」の原則に立ち帰ることこそが、現実的対応であったのではなかったのか、とゆってる訳ですが?
また、内ゲバやってる人たちの説明も、主観的には「現実に基づいた真実」である事は言うまでもありません。この事とレーニンなりトロツキーなりの「現実論」との間に、差はあるのでしょうか。
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まぁ平行線ということで 投稿者:せみまる 投稿日: 5月31日(金)12時12分25秒
議論は終息するしかないでしょうね。
「現実論」から出された弁明を「内ゲバ論者も弁明をしているじゃないか」ということで
「弁明」を一括して拒否するのでは議論そのものが成り立ちません。
「原則論」と「現実論」との議論は、どこまでいってもきりがありません。
あとは読者諸君の感想にまかせましょう。
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小野田譲二「体験的政治論」 投稿者:すえいどん 投稿日: 5月31日(金)12時09分21秒
「ただの酔っ払い」とか「ただの酔っ払いではない公安のスパイ」とか、いろいろ言われている小野田譲二氏ですが、彼が80年前後に書いた中核派論(「体験的政治論」「劫」5号、6号、ネットの小野田書店でまだ購入可能なようです)は、なぜ中核派があのような「スターリン主義的変質」をとげたのか?との解明につき示唆に富むもののように思えます。彼は67年10月の法大リンチ事件(三派全学連の分裂)を契機として離党するわけですが、自らと、そして中核派の思想的、実践的座礁が何に由来するか、それなりに真摯に検討しています。その検討に失敗して「ただの酔っ払い」になってしまったのかと・・・・・
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つか、 投稿者:黒目 投稿日: 5月30日(木)21時55分54秒
内ゲバをやる人たちは、常に、その内ゲバが帝国主義と闘うために如何に必要なことであるか、という理屈を発明しますよね?戦略的2重対峙とか謀略説とか。
クロンシュタットの反乱は、経済的危機が背景にあるのは明らかですが、その危機打開への政治的説明として、「すべての権力を党にではなく、ソビエトへ」というスローガンで説明した。権力が党へ集中し、党独裁という形態が生まれているということが、経済的危機の要因である、と。
トロツキーがネップという有効な案を提示したのに採用されなかったのはなぜか?
翌年、同じことをレーニンが言ったら採用されちゃうのはなぜか?そういう、腐った、状況に適切な対応が出来ない権力の状態、これの要因を、権力がソビエトにではなく、ボルシェビキに集中している結果である、としたのがクロンシュタットではないのでしょうか?
結果的にレーニンはネップをやるわけですが、これって主体思想みたいな、首領様がいったとうりにするといいんだ、みたいな話とどれだけの距離があるのだろうか、つー話だと思います。
当時のロシアのキビシイ状況を、「プロレタリア民主主義の停止」を正当化する為の要因として持ち出すのは、全くの本末転倒ではないのでしょうか?
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いえ、そーじゃなくて 投稿者:せみまる 投稿日: 5月30日(木)21時40分40秒
帝国主義側によって意識的に「プロレタリア民主主義の崩壊」へと導かれていった事実についての注意を喚起しているということです。
「100人の村」のたとえ話でいうとね、「革命」とは100個のまんじゅうのうち90個を1人のブルジョアジーが独占し99人が10個を分け合っている状態を、「100人に100個が平等にゆきわたる」システムへとつくりかえるためにブルジョアジーを打倒する作業ですが、クロンシュタットの背景にあるのは、打倒されたブルジョアジーが87個のまんじゅうをすててしまって13個しかまんじゅうがのこっていない状態になったとき、99人の中の「赤軍に優先的に分配した」ために分配にもれた人たちが蜂起した状態という風に例えられると思います。
13個のまんじゅうを「適正にわけなかったこと」への黒目さんの怒りは理解しますが、そもそもその根元にあるのは100個のまんじゅうを13個にまで減らしてしまった反革命側の行動にあるのではないか、という事です。「プロレタリア民主主義を停止したボリシェヴィキへの怒り」は理解しますが「そもそもプロレタリア民主主義の施行を不可能にしてしまった反革命軍への怒り」はないのでしょうか?
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ん〜?? 投稿者:黒目 投稿日: 5月30日(木)21時20分26秒
それは、「反帝国際主義」の立場からすれば、「プロレタリア民主主義の問題」なんかカス、というアレでしょうか?
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主体的問題とともに考えるべき問題 投稿者:せみまる 投稿日: 5月30日(木)21時08分28秒
ロシア十月革命は勝利したけれども、ブルジョアジーによる意識的なサボタージュや反革命側の妨害、白軍と外国干渉軍による内戦などによって国内は疲弊し、経済は革命前の13パーセントにまで落ち込んだ、と言われています。さらに、1921年当時の飢饉もあって、国内には餓死者、そしてチフスの発生と、まったくひどい状況になってしまいました。この中で、クロンシュタットの蜂起があったわけですが、革命勢力側の内部的問題とともに、外部から、このように革命政権を苦しめた帝国主義者の問題についても語っていくべきではないでしょうか?
同じやり方は、キューバに対する経済封鎖、爆撃、反革命部隊の投入、ニカラグアへの軍事・経済両面にわたる干渉があります。キューバはやはり一党独裁制をしき、それとともに反革命に手を貸す者を容赦なく摘発し、なんとか革命政府を維持してきました。一方ニカラグアの場合は、このアメリカの反革命的圧力に耐えきれず、政権を手放すことになります。この結果として、ニカラグア農民は、また地主に土地を奪い返されて苦しんでいます。
もともと革命というものは貧困者が権力の抑圧と貧困とに耐えかね、権力者を追放して自ら政権をうち立てようとするものであるはずですが、帝国主義勢力はこの政権に対して経済的・政治的・軍事的圧力を加えてきました。今もブッシュはその政策を意識的に、積極的に推し進めています。世界中の多くの革命政権はこのような作用をも重大な原因として政権そのものが強権的であったりゆがんだものに転落していった。政権の問題点を分析していくのも非常に大事であると思いますが、国際的な「反帝国主義」の立場から問題をたててゆく事も重要であると思います。文字どおり「反帝国際主義」の立場からの考え方です。
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んで、結局のところ 投稿者:黒目 投稿日: 5月30日(木)20時22分23秒
核心的な話題であった筈の「プロレタリア民主主義」については、このクロンシュタットの件については、みなさまの見解は如何様になるのでせふ?
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ちなみに 投稿者:せみまる 投稿日: 5月30日(木)19時17分36秒
80年代、第四インター(日本支部)は主要に5つの分派に分かれてそれ
ぞれフラクションを形成し、各地区でも論争し、機関紙「世界革命」紙上でも、それぞれの見解を表明していましたが、その中で「L派」フラクは「レーニン主義党建設」を言っていたと思う。この時の「レーニン主義」の概念には「党の独裁」概念が含まれていたのだろうと思います。「レーニン主義」とは「組織論」のことと理解され、それは「中央集権的組織建設」として合理化され、結局は女性たちの問題をのりきるための方便に使われた、と新時代社自身も総括しているようです。
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そのうえで「レーニン主義」について 投稿者:せみまる 投稿日: 5月30日(木)18時57分13秒
それでもレーニンの業績は否定できないし、われわれが学ばなくてはならないと思うことはたくさんあります。ただ、レーニンやトロツキーの行動について、過去の検証をもとに、何を肯定し何を否定するのか、そして、より重要なのは、今、われわれの前で起きている事象について、それをどう適用していくのか、を考えていけばいいのだと思っている。また、「レーニン主義」という名で祭り上げられ権威主義的に当てはめてきた「レーニン主義」はこれから没落していくでしょう。
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善悪の彼岸 投稿者:すえいどん 投稿日: 5月30日(木)18時56分29秒
クロンシュタットやマフノ、あれ「銀」や。「銀が泣いてる」の銀や。ホンマは味方やけど、あの局面では殺さなあかんかった銀や。そんな銀を「主体の善悪」なんかで論じてどないするっちゅーねん。引用終り
こういう将棋の駒にはなりたくないなとは思いますが、それはさておき、ロシア革命について善悪をいっても始まらないというのは、そのとおりでしょう。また、せみまるさんの「革命の防衛」という一点に照らして考える時、当時の悲惨な状況から、それしかやむを得なかったというのは、その政治的選択を称揚し倫理的に肯定するという趣旨ではないと思われます。ただ、他方、そうであっても「捨て駒」の側からの、我々を殺して守った革命の内実というのは何かの問いは避けられないところで、その問いに対する答が、今日の検証内ゲバの論議に連なる中味となりうるということではないでしょうか。互いの神を撃ちあっていても不毛であると感じた次第です。
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トロツキーのクロンシュタット非難 投稿者:せみまる 投稿日: 5月30日(木)18時48分53秒
レーニン、トロツキーがクロンシュタット反乱について言いがかりをつけて非難しているのは本当です。松田道雄によれば、3月3日のプラウダは「2月13日のパリ・マタン紙急報によればクロンシュタットに反乱がおこったという。これはフランスのスパイが事件を早まって発表したことを証明する。数日後にフランスのスパイの計画した事件がおこったからである」と書き、反乱の指揮者がコズロフスキー将軍であると報じたそうです。松田道雄はこのあとトハチェフスキーの精鋭部隊とトロツキーが派遣されて反乱を鎮圧したと書いていますが、トロスキーさんはつぎのように書いています。
クロンシタット事件で、蜂起者弾圧を指導したのは、トロツキーではなく、当時のペテルブルク指導者であったジノヴィエフです。この点よく誤解されて、トロツキーがあたかも血の弾圧の責任者かのように言われていますが、これは本人も否定しているし、その後の綿密な歴史研究によっても否定されています。このような伝説が成立したのは、トロツキーがユダヤ人で、当時の白軍が、徹底してトロツキーを、血も涙もない悪魔のような存在にしたてあげて、それを大々的に宣伝し、それが農民出身者にかなりの程度、浸透していたからです。
(クロンシタット事件について 投稿者:トロスキー 投稿日:10月09日(土)16時07分04秒 より)
http://redmole.m78.com/1999/1999-10b.html
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というか 投稿者:黒目 投稿日: 5月30日(木)16時26分53秒
そんなさ〜、既にネタが割れた二枚舌で、労働者人民が今なお踊らされる
か、つーと、この文明開化した世の中で、既にあり得ないと思いますがね。
一部のカルトな信者さんを除いてですが。
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ちなみに俺はマルクス主義者ですらありませんが 投稿者:黒目 投稿日: 5月30日(木)14時50分46秒
さよう、強いのは常に、謀略でも策略でもなんでもアリアリの、かつ、軍事的に相手を圧倒してる奴が強いに決まっております。
んで、そういう連中の跳梁跋扈が、左翼の論理的整合性を犠牲にしつつ、運動を支配しようとしてきた、というのが、この「内ゲバ問題」の核心なのではないでしょうか?
勿論、タイムマシンにのっかって、1918年の時点でレーニンをぶち殺しておけば、事態がましな方向へと向かったか、というと、甚だ疑問ではあります。これは既に終わり、その生み出したものまで全部見たあとの世界に我々は生きているわけであり、「戦国シュミレーションゲーム」のネタ的には面白いかも知れませんが、詮無いことであります。
また、レーニンという複雑なキャラクターであったからこそ、ロシア革命というもんが成立したのだ、というのも、非常に御尤もであります。問題は、今なお、このレーニンの立ち振る舞いを参照し、レーニンの行為である、という事を正しさの根拠として立ち振る舞う、「レーニン主義者」を名乗る連中が跋扈し、状況を腐らせている、という事であると思います。
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同意しつつ、そこに論理で固めるマルキストの「弱さ」を見るわけです 投稿者:TAMO2 投稿日: 5月30日(木)14時34分13秒
>彼らはクロンシュタットを葬り去り、「彼らは反革命であった」というという嘘話で塗り固めな>ければならなかった。これは明らかに論理的整合性をかなぐり捨てた行為です。
小生は逆に、「論理的整合性」を無理に取ろう、何でもリクツで説明しようとするマルキストの限界を見るわけです。
今から出張に出ます。では。
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ひつこく、何が論理的であるのか、について 投稿者:黒目 投稿日: 5月30日(木)14時25分42秒
クロンシュタットのスローガン、「全権力を党にではなくソビエトへ!」というのは、当然にもほんの数年前の革命のスローガンをもう一度持ち出したものであり、これは既に革命を裏切り始めていたボルシェビキの論理的不整合を突きつけるものであり、この時点で論理的整合性を持っているのはクロンシュタットなのです。
トロツキーという人は、ボルシェビキの中でも最も論理の人であり、論理に殉じた人であると思いますが、そのトロツキーですら「クロンシュタットはロシア全部が飢えているときに特権を要求し」云々、と、全く破綻した、支離滅裂な謀略まがいの言辞を弄さなければならなかった。彼らはクロンシュタットを葬り去り、「彼らは反革命であった」というという嘘話で塗り固めなければならなかった。これは明らかに論理的整合性をかなぐり捨てた行為です。
で、一方で、「政治的判断」で、クロンシュタットを葬り去ることで、ボルシェビキは権力を維持したのであり、その「政治的判断の正しさ」という事において、評価しよう、という話であると思いますが、この「政治的判断の正しさ」を支える論理こそが、内ゲバを支える論理そのものである、と思います。
悪霊はここに宿るのです。
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まぁあんまり精緻に詰める話でもないのですが、 投稿者:いずみ@出向先 投稿日: 5月30日(木)13時36分46秒
もともと宮崎と中核派の接点(&スパイされた核心の1つ)は金山克巳氏を通じてのもので、宮崎がエセ文化人面するよりも前の話だと思うです。そしてその関係があったからこそのその後の展開なわけで、「他に頼る文化人がいないから宮崎を担いだ」というのとはちと異質な気がしています。
それはそうと、小西さんカキコの後段、「反戦自衛官」という字面が全メディアで紹介されていて、かつ「何じゃそりゃ?」と突っ込まれても仕方ないのに何にも解説が出ていなくって、痛快至極です。^^;;
大逆転ホームランのチャンスですね。いろいろがんばらねば。
そして、この板をかつて土足で荒らした元横堀要塞戦士・現「クロワッサン」編集部の國貞陽一が、またもやネットワーカーに敵対する言辞を為していることにもきっちり反駁しなければ。
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いずみさんの説もせみまるさんの説も正しいのでは 投稿者:小西 まこと 投稿日: 5月30日(木)13時31分49秒
両方の説も正しいと思いますよ。なぜなら、中核派は、第四インターへの内ゲバ行使以後(その前からもそうでしたが)大衆的に、とりわけ左翼系文化人戦線から孤立しました。70年前後で作りだしてきた中核系文化人のほとんどは80年代後半には中核派に見切りをつけました。この結果が90年代に入って宮崎学などという人物を担ぎ上げるというような事になってしまったのです。
その背景に泉美さんの言う軍事力学主義があったと言うことでしょう。
このところ、「防衛庁情報公開請求者リスト流失」問題で反戦自衛官がしっかり有名になってしまいました。情報公開法に基づく市民の正当な請求に対して思想調査まで行い、違法行為をくり返す自衛隊が、有事法制を作るとは何事だ、と言う雰囲気が広まってきました。
ここは一挙に、有事法制・個人情報保護法などを粉砕するチャンスかもしれません。
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参考文献 投稿者:AIT久我山支部(準) 投稿日: 5月30日(木)13時30分09秒
http://www.ne.jp/asahi/anarchy/saluton/archive/nro1_4.htm
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違うかな〜? 投稿者:せみまる 投稿日: 5月30日(木)12時37分25秒
80年代のインターの「対中核派」党派闘争は、徹底して、「大衆的基盤をヤツラからはぎ取る」というものでした。当時の活動家から直接聞いております。つまり、これが中核派の内ゲバに対する「復しゅう戦」であったわけですね。
それで大衆的基盤を失ってあせった中核派がイカサマ師に飛びついてしまった、と思っていたんですが、ちがうかなー?
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あ,もちろん 投稿者:AIT久我山支部(準) 投稿日: 5月30日(木)12時34分22秒
前後の発言の流れは理解してるつもりですよ。
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う〜ん 投稿者:AIT久我山支部(準) 投稿日: 5月30日(木)12時32分15秒
>>あの局面では殺さなあかんかった銀や。
こういう論理(すじみち)をこそ何とかしなくちゃ,と思うわけです。けど。
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これは違うのでは。 投稿者:いずみ@出向先 投稿日: 5月30日(木)12時28分28秒
>これによって中核派は孤立し、それはスパイ宮崎学に対する無防備な対応につながっていったのだろうと思います。
さすがに宮崎への無防備ぶりとインター襲撃問題を直結させるのはムリがあるのでは。
初開陳ですが^^;;、中核の「宮崎への無防備」は、2つの要素から来ている気がします。
(1)「大衆に依存せず力関係(ゲリラ、有名人など)に依存する」軍事力学主義。
(2)「非合法党建設」路線の中で幹部内の警戒心が極度にゆがんだこと。
これらのうち(1)はもともとある気がしますし(「100万人のテロリストの党」)、(2)は革共同戦争の中で出てきたものでしょう。
いずみは、宮崎のようなスパイが接近してきたのが仮に70年代だったとしても(あの当時、宮崎型スパイが接近なんかしないのでは、というツッコミは置いといて^^;;)、それに対して「無防備に共闘する」「かつぎあげる」ということは中核派はしたと思います。
ただし重大な情報をスパイされたのは(2)があるからでしょう。
しかし、インター襲撃問題は(1)(2)とは関係なく、
(3)軍事威嚇の味を覚えてしまったこと
によるような気がしています。
もちろん、これらを「党の腐敗」として片付けることもできるし、「スターリン主義的体質」と言うこともできるとは思いますが、いずれにせよ時期や背景は違う気が。
また、宮崎問題の発覚後の対応だけを取れば、それは確かにインター襲撃と「同根」といえなくもないかも。
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あ、ひよりんさんの 投稿者:せみまる 投稿日: 5月30日(木)12時07分41秒
感想もほぼ一致するものですね。
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東北大内ゲバ闘争について 投稿者:せみまる 投稿日: 5月30日(木)11時58分29秒
内ゲバに対しては、「実力で粉砕する」のは正しいと思う。しかし、その「実力」の内実が問題なのです。
東北大学では四トロ部隊が自分たちだけでそれをやろうとした。
これでは結局「党派どうしの内ゲバ」になっちゃうわけです。
内ゲバ研究会での別方面からの報告でも、多くのインターのメンバーが
いちばん思い出したくない事件であったと述懐している事からも、
あれはやるべきではなかったと総括できるでしょう。
大衆的な結集で内ゲバを粉砕しなければならない、というのが、84年での教訓です。
あの内ゲバ反対声明は「内ゲバ党派といっしょには運動をやらない」空気を作りだしました。
また、インターは意識的にそのように多くの団体に働きかけた。
これによって中核派は孤立し、それはスパイ宮崎学に対する無防備な対応につながっていったのだろうと思います。
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弾圧はまさに論理の帰結では? 投稿者:TAMO2 投稿日: 5月30日(木)11時51分29秒
様々な革命の初期に見られる寛容すぎる態度、新しい世界へすぐにもいけるという幻想、それらが引き起こした一連の過程を抜きにして考えるならば、マフノ・クロンシュタットへのレーニン派の態度はまさに権力維持の論理の帰結じゃないでしょうか。
また、論理的整合性は「閉じた世界」を志向するものと思いますが、現実はそれを幻想として斥けるようですね。あらたな矛盾は生まれ、それとまた闘って整合性を取ろうとするのが左翼かと。ほんでまた・・(以下略。その意味でも、レーニンは左翼であると思います。
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違いは鮮明ですね。 投稿者:せみまる 投稿日: 5月30日(木)11時49分02秒
すえいどんさんの整理でほぼいいんじゃないでしょうか。また黒目さんのまとめもそれでいいんじゃないでしょうか。結局、「革命闘争」において「革命の原則」が現実に直面した時に、どのように対処したか、それを「現実主義」によって解釈するのか、それとも「原則」の側から批判するのか、という議論である、と思う。だから、黒目さんの「労働者民主主義」についての原則的指摘はそれ自体としては正しいし、尊重されなくてはならない。
しかし、私が最終的結論を保留しつつも、それでもボリシェヴィキのかなり行き過ぎとも思える行動にも同情的な立場をもつのは「革命の防衛」という一点に照らして考える時、当時の悲惨な状況から、それしかやむを得なかった、と思うからです。もちろん、そこには「条件」があります。ボリシェヴィキが革命から内戦、その後の経済再建にいたる過程で見せた「断固たる革命防衛」の意志を持っており、また、スターリンに簒奪されるまでは、「やむを得ない状況」として、いわば「原則」も念頭においていた事はこの党派とそれに率いられた革命を擁護する価値がある、と考えられる条件であるという事です。
スターリンはそうではなかった。かれは書記長の地位についた時、その地位を利用して各地区書記の任命権を利用して人事をかため、また「分派禁止」を恒久化することによって権力を自分のものにしていった。そしてボリシェヴィキ党そのものを変質させていった。このスターリンの出現と、それ以前のボリシェヴィキの苦闘とを区別せず同等に解釈するのには反対です。もちろん、ボリシェヴィキ党の当時の行動(代行主義)がスターリニズムの出現にとって有利であったのは事実です。その意味で、ボリシェヴィキに責任がないとはいえない。しかし、当時のロシアの状況で「代行主義」をいっさい否定できる状況ではなかった事実も踏まえるべきであると思います。
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善悪ではなく、論理なのです。 投稿者:黒目 投稿日: 5月30日(木)11時41分32秒
左翼とは何か。
それは、論理の上に世界を作ろうとする指向性であり、論理的に整合性のある世界を目指す、論理と行動である、と考えています。
そういった意味では、レーニンは左翼ではない。
・・・・・なんちて(ワラ
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マルキストの語彙は貧困だねぇ・・ 投稿者:TAMO2@はんなり関西人 投稿日: 5月30日(木)10時19分34秒
こら、標準語よりも、地の関西弁で書いたほうがよろしおまっしゃろなあ。昔から思うねんけど、何でマルキストって、なんでもかんでも「正当化」のリクツで世の中説明しようとすんねんやろ。ここトロツキズムファンクラブのサイトやから、例えばトロツキーはんの「裏切られた革命」なんかでソヴェト労働者階級の敗北の理由をテルミドール反動の勝利とかにしてるけど、それやったらあらゆる革命は反革命が事後勝利するんか、言うんや。それやったら、かのP・F・ドラッカーが言うみたいに、革命なんか意味ないやんけ。大体、革命指導部として闘い、左翼反対派として闘った自分の闘い : 5月21日(火)01時04分00秒
では、そのアナキスト でも読んでみたらどうでしょうか。まっぺんさんとの関係の中でリンクされて来たか、まっぺんさんがリンク オなりません。
「新左翼」は最早歴史の瓦礫 フマニにおける戦術 Trotsky/29/syohyou.html
陳独秀に対す 驍ウによれば、コムスンは「介護」の美名にかくれて相当ひど
い事をやっているようですね。
社会保険行政が破綻の危機に瀕 +ヨ俘mJjァソ14t{+ヲチ3F棄キ~^ラ_#w%ョヒv<ニ;qhP