四トロ同窓会二次会 2002年1月16日〜19日
誰でも歓迎!何でも自由に投稿してください。投稿内容は過去ログに保存します。「赤色土竜新聞」その他に掲載する場合もありますのでご了承ください。
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横須賀で 投稿者:千葉学班協 投稿日: 1月19日(土)15時06分53秒
青葉白址決戦?ほど大げさじゃなかったのですが、81年ごろにも解放派と横須賀市民公園
でも”内ゲバ”もどきがあって機動隊に止めに入られたことありました。
いきさつは忘れましたが、横須賀市民連合(だったかな?)主催の集会で朝早い集会でした。
ちょうど元駐日大使の”核持込み発言”の後ミッドウエーが入港、その入港阻止闘争で
大いに盛り上がった後、二度目ぐらいの横須賀での朝早い小さな集会でした。
男全員に軍手とマスクが渡され、市民グループが不思議な顔で見守る中、解放派20人ぐらいが
全員メットに旗竿でコールしながら登場。狭間派が整列して止まるなり、いきなりインターの
部隊は殴りかかりました。集会に参加するのが2〜3度目の私には事情が飲み込めず、
あっ! −という間の出来事でしたが、ケンカは最初に仕掛けた方が優勢で狭間派は
旗竿は使う間もなかったと記憶しています。機動隊が「ヤメロヤメロ」と割って入って終了。
その日の午後芝浦工大で日大支援の会議があり、始まるまで”あちらこちらで”
どったんばったん音が聞こえて来ました。
私は会議室に先に入り、弁当をパクパク食べながらも完全に顔に「怒」と書いてある
明大の狭間派の怖い顔を半べそ状態でチラチラ見ていました。
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鬼薔薇さんの質問に対して(続きです) 投稿者:菊 投稿日: 1月19日(土)10時57分15秒
鬼薔薇さんの「立場が逆だったらどうか?」のご質問ですが、当時の私であれば、「好きなように登場させておく」です。襲撃を準備しているのであれば、最低限の反撃準備はしますが、それも自分たちの武装で跳ね返すのではなく、学生自身の自主性を尊重しながら反撃するようにしたと思います。どうしてか、といえば、東北大の事件に関連して書きましたが、そんな登場は所詮カンパニア的であり、政治組織の政治的影響力の浸透度合いとは何の関連もないからです。そうした感覚は私だけではなく、当時の第4インターメンバーは持っていただろうと思います。そしてそれが、他党派と第4インター派の大きな違いであったことも事実です。
また、党派支配の固定化は、72−3年頃からです。それ以前は各大学に色々な党派・グループが混在していましたし、青葉城址さんが書かれていたように、ある意味で「仲良く」やっていたのです。そんな存在だったので、自分たちが空間を支配するなどとは考えたこともなかったように思います。
青葉城址さん、76年ではなく、75年かもしれません。76年の2月は、三里塚現地で翌年の実力闘争につながる転機になった「産土参道攻防戦」があったから。いずれにしても、そのあたりよく覚えていないのですね。というか、忘れようとしてきたので。
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「認識のズレ」がわかりました。 投稿者:菊 投稿日: 1月19日(土)10時55分53秒
青葉城址さん、ご回答ありがとうございます。当時の両派の認識の「ズレ」がよくわかりました。東北大の状況を当時の学生インターはよく認識いなかった、それがあのような方針を採用する根拠のひとつになったのだろうと思います。
もちろん、これは私の記憶なので、学生インターの東北大のメンバーに聞けば、「それはきちんと提起した」となるかもしれません。誰かなあ、当時の東北大のメンバーは。。。
つまり、当時の私たちの学生運動状況を巡る認識と個別東北大の状況は違ったわけですね。それでは、当時の東北大の解放派が「どうして、インターがここに登場するの?」と思うのは当然のように思います。
実は私は東北大の「衝突」事件については、「おずおず」と書いてきました。それ以前に、何よりあまり思い出したくない事柄でもありました。というのは、隊列の一番先頭で竹竿を振るっていながら、「これは間違っているのではないか」と当時思っていたからです。それで、ここの掲示板などでその事件に触れた書き込みを目にするのは(しかも茶化したように書き込まれるのは)、大変イヤでした。
当時の「間違っているのではないか」とは、単純に「内ゲバ反対だから」というのではありません。多くの学生インターメンバーはそう考えていたかもしれませんが、私の場合、東京のマンモス私大で支配的党派の裏をかきながら、組織拡大していくような学生運動(少しかっこよくいえば、「レジスタンス的な」)をやっていましたから、「組織の拡大」を目的にした場合、部隊での登場は何のプラスにもならない(当時の言葉で言えば「カンパニア主義だ」)と経験的に考えていたからです。
しかし、私も「全体状況から一般化する」「個別の状況を細かく見て方針を出せない」という点では、当時の指導的部分と大差なかったように今回の青葉城址さんの話しを聞いて思います。
しかし、そうした感覚は、当時の学生インターの指導的部分には共有されていなかった。同じ現場メンバーでも、解放派の鉄パイプ襲撃を素手で受け止めて撃退するような「九州男児」的な九大の学生インターは、また違った感覚だったろうと思います。余談になりますが、最近ペシャワール会の中村哲医師の本を読んでいて、「なるほど。これだ」と、九大理学部出身で仲の良かったYを思い浮かべました。中村医師は日野葦平の「花と龍」の主人公の孫で、筑豊の「川筋者」のようですから本物です。
話は戻りますが、「東北大登場」が唐突な方針であったことだけは確かです。そこには、前回書いた以外にも色々な要因があるように思いますが、当時の学生運動の指導部分の「人間的なタイプ」も影響していたように思います。その人たちの感覚は当時の学生運動方針の立案にはマッチしていなかった、しかし彼らはその後の三里塚の実力闘争場面では有能な働きをしました。つまり、与えられた明確な目標に向けて組織を動員していく、「軍人」的な能力にすぐれていたのですが、変化する状況のなかで、方針を出して党派間の駆け引きや党派闘争を展開していく能力は、あまりなかったように思います。また訓練もされていなかったのです。
なぜ、こうしたことをしつこく書くかというと、それが鬼薔薇さんや一同窓生さんの書き込みに対する私の意見につながるからです。鬼薔薇さんは「党派として」という点を問題意識として上げていらっしゃいますが、「内ゲバ反対−プロレタリア民主主義」をたとえ掲げていたとしても、その構成員(指導的メンバー)の方針いかんによって、その原則をうち捨ててしまいかねない危険な局面をも招来しうる。しかもそれはメンバーの性格や個性に、大きく左右される場合もあるということをいいたいのです。
幸いにも、当時の第4インター系の学生運動は、東北大事件以外には「内ゲバ的なすれすれの手段」を採用することはありませんでした。これはせめてもの救いだと考えていますが。
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歴史探訪? 投稿者:一同窓生 投稿日: 1月19日(土)05時49分59秒
青側の現場にいた青葉城址さんと赤側の現場にいた菊さんとで、語られる青葉城址会戦秘話
たびたびTVで放送される関ヶ原合戦の裏話のようで興味深いですね。
第四インターが綱領的に「党内分派の承認」しかしながら「民主集中制の承認」またしたがって
「多党制の承認」を持っていたし今も持っている、これが「内ゲバ主義反対」の綱領的基礎
なんだ、単純に言えばそいうことでしょう。
では他党派に対して暴力を振るわないかというとそんことはなくて、自衛武装はあたりまえの
ことですからそういう場面は少なからずあった。革マルの集会破壊に対する「自衛的戦闘性」
はけっこうなものでしたからね。
しかし、それと、夜陰にまぎれて活動家のアパートを襲い鉄パイプやバールで脳天をかち割る
ような行動、総括と称して死に至るリンチを加えるような行動、また党派機関誌で実行を煽る、
「戦果」を公表するなどという行為は全く異質なものであり、一線を画した扱いをしなければ
なりません。
これと自衛武装の暴力が同一だと認識してしまったら議論の基礎がなりたちません。ものごとは
厳密に見ることが必要ですが、これだけの大差・落差を差と認識できない場合はもっと小さな
差の認識・議論は不可能になってしまいます。
日本共産党を始めとするスターリン派(後期第三インターナショナル)の末裔たちの綱領には
「分派承認」「多党制承認」の文言は見あたりません。第四インターナショナルのアドバンテ
ージはここに集約されているというのが私の見解です。
追記:でもそんなの狭い「新左翼」(第四インターは自分は「新左翼」ではないと自称してます
が)のコップの中のアドバンテージであって、今の日本では常識=あたりまえです。
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71.6.15のこと 投稿者:青葉城址 投稿日: 1月19日(土)01時46分53秒
また出て来ました。(^^;)
>70年6月に明治公園であったからです。沖縄返還をめぐってふたつに分裂
>した「全国全共闘」のうち中核派と第四インターとで開催予定の明治公園に
>解放派が内ゲバのために先に来ていて演壇前を占拠していたのです。この時、
>第四インターは、その演壇のうしろの青年会館前で前段集会をおこなってい
>たそうです。ちなみに、解放派はそれを知っていたけど、彼らもまた第四イン
>ターには手を出さなかった、と聞いています。
σ(^^)はこの場にも居りましたので、私の記憶している範囲において事実関係
を訂正させていただきます。
日付は、70年安保のあった6月ではなく、71.6.15です。
主宰は、中核派と第4インターではなくて、この6.15の分裂の直接的な原
因となった5.30集会(於明治公園)と同じく「東京入管斗、関東叛軍、な
んたらかんたら」で、要するに「八派共闘」的な枠組みのままです。このこと
は以前にマル共連で小西さんからも「歴史の正しい継承のために」と言った感
じで訂正のコメントをいただいています(より正確には「全国全共斗」は71
年には既に機能していなかったとの文脈だったような)。
と言う訳で、「解放派が内ゲバのために先に来ていて」と言うのはそのとおり
かもしれませんが(^^;)、分裂が既成事実化したのは、形式的には6.15夜
以降のことでして、明るい内は「未だ分裂していなかった」のです。あくまで
「形式的には」ですが(^^;)、解放派としては従前の枠組みとしての「統一集会
を追及するために」あるいは「中核派による統一集会破壊を防衛するために」
そこに来ていた……、なる屁理屈も一種有り得た訳です。(^^;)
ただし、第4インターについては、分裂前だからと言う理由ではなく、衝突す
ることは有り得なかったと思います。有り得たら、そもそもそこで第4インタ
ーが集会を開いていたかどうか?(例えばフロントが早々に別公園の集会に行
っていたように)。両者が武装衝突する理由はなかったからです。
武力衝突はひとえに中核派と解放派だけの問題でした。
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菊さんへ 投稿者:青葉城址 投稿日: 1月19日(土)01時36分20秒
菊さん、ご丁寧なコメントをありがとうございました。
投稿に際しては結構びびったところがありましたから、正直言って、ホッと
いたしました。さて、お言葉に甘えて、部分的ながらコメントを返させてい
ただくことにします。
>75年、いや76年だったでしょうか?私がまだ現場メンバーだった頃だ
>から、76年ですね、
そうかもしれません。
>そこには、当然「東北大でも他大学のような厳令的な支配が行われている」
>という前提的な認識がありました。特にその前に九大で解放派に鉄パイプで
>襲撃されていたことがメンバーの大きな憤激を呼んでいたこともあったよう
>に記憶しています(この時期は私の記憶違いで、もっと後かもしれませんが)。
九大のことは存じませんが、少なくともその頃より前で、東北大で解放派が
第4インターをテロったと言うことは無かったと思います(70年代の末以降
は全く知りませんが)。また、多少のひいき目は勘弁していただくとして、
当時、東北大(教養部)で解放派が「戒厳令的な支配」を行っていたとの認
識はありません。革マル派は別格として(^^;)、中核派や第4インターは「党
派として」はさすがに登場できませんでしたが(その故をもって、革マル派、
中核派、第4インターから見れば「戒厳令」だったかもしれませんが)、親
解放派ではないノンセクトやフロント、ブント系などそれなりの多様性は存
在しえていたと、私は認識しています。
その傍証としては、その頃、東北大(教養部)には未だ大衆運動が実態的に
あったことです。70年代半ばのエポックと言えば、ひとつは処分撤回斗争に
何と勝利してしまったことと、ふたつめにはサークル棟斗争の勝利(これは
詳しくは知らないですが)など。私は一種「時代錯誤」めいたもの(^^;)を
感じてしまったくらいですが、これらは、私自身は解放派のヘゲモニー以外
の要因の方が遥かに大きかったのではないかと読んでいます。解放派はむし
ろ彼らと「折り合いよく」やっていたのだと。
余談ながら、70年代半ばにおいてすら一種「69年的」な大衆運動を展開できて、
全国に名を轟かせた(?)東北大の(新左翼)学生運動にあっても、その運動
は殆ど教養部に限定されていたものでした。何より、あの69年においてすら、
東北大には「全学共闘会議」は結成できなかった。できたのは「全C共闘」、
すなわち全教養部共闘会議だけだったのです。それほど民青の力は(学部含め
て)強かったことと、もう一面では教養部の闘いがそれだけ苛烈であったとも
言えそうです。
その結果、教養部では激しく反目しあっていても、学部では、ノンセクト、解
放派、フロント、第4インター、ブント(叛旗系)、さらには当時「マル研」
と名乗っていた(?)中核系までが「まるでひっそりと肩を寄せ合うように」、
学部自治会への立候補等の取り組みを行っていたりしました(ただし70年代半
ばまでの話)。
これらをして、「東北的牧歌性」と言い得るのかどうかはわかりません。
>東北大に対する日本支部政治局レベルの「思い入れと拠点意識」
それはあるでしょうね、歴史的にも本来拠点であるべきだったところです。
その奪還は一種の「悲願」だったと想像します。
ps:
もしよろしければ、次回にでも、話は71年に遡って、なぜ第4インターが(中核
派とともに)、東北大教養部に「党派として」登場できなくなったか、その特殊
な顛末でも書かせていただこうとも思いますが、よろしいでしょうか?
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RE:感想:青葉城址会戦 投稿者:鬼薔薇 投稿日: 1月19日(土)00時16分32秒
>まっぺんさま お答えいただきありがとうございました。
>もしも第四インターと解放派とが逆の立場にあったら、第四インターは、解放派が登場す
>るのをさまたげたかどうか分かりません。たぶん当時の状況では妨げる必然性はないんで
>はないかと思います。
その傍証としてあげられた明治公園問題のご説明は、「解放派対インター」という個別党派関係のことのように思いますが、わたしの関心は少し別のところにございました。つまり、キャンパスのようなある社会空間(「拠点」)を排他的に独占(制圧)することを是とするか、それともそこは「公共空間」として他党派との併存を当然とみるの問題でございます。
実証・理論いずれにしても簡単には結論付けにくいものがあろうかと思いますが、わたし考えますに、「党派」というのはこの排他的独占を是とし併存を否定する一般傾向を内在させていたように思うのですね。事実として併存している場合でも、それは「力の均衡」の結果にすぎず、可能であればいつでも排他的独占へ移ろうとする傾向、それは私的独占の論理でございましょう。
ひとつの海のような「公共空間」とそこに浮かぶ島のような私的イニシアティブ・グループとしての政治集団(党)というイメージと、「公共空間」の私的領有(覇権)をめぐる利害集団としての党派というイメージと。おそらく「内ゲバ」と「(プロレタリア)民主主義」という(ここで話題の)テーマをここに投げ入れて考えますと、「必然性」とおっしゃるものの中身が解析を必要といたしましょう。「党派として」というところがキーではないかと申した理由もそこにございました。
第四インターの「反内ゲバ」政策は、上の私的独占の傾向が他派より相対的に稀薄だったという程度問題にすぎないのか、それともこうした傾向とは本質的に異なる行動原理の表明であったのか、それはご同窓の皆さまの総括テーマかと思いますので立入りませんが。
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感想:青葉城址会戦 投稿者:まっぺん 投稿日: 1月18日(金)22時43分37秒
もしも第四インターと解放派とが逆の立場にあったら、第四インターは、解放派が登場するのをさまたげたかどうか分かりません。たぶん当時の状況では妨げる必然性はないんではないかと思います。というのは、これに類似する事態が、70年6月に明治公園であったからです。沖縄返還をめぐってふたつに分裂した「全国全共闘」のうち中核派と第四インターとで開催予定の明治公園に解放派が内ゲバのために先に来ていて演壇前を占拠していたのです。この時、第四インターは、その演壇のうしろの青年会館前で前段集会をおこなっていたそうです。ちなみに、解放派はそれを知っていたけど、彼らもまた第四インターには手を出さなかった、と聞いています。残念ながら、第四インターに関しては伝聞です。当時私はまだノンセクトで、中核派と解放派との内ゲバ戦を観戦していました。
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感想:「青葉城址会戦」 投稿者:鬼薔薇 投稿日: 1月18日(金)20時03分58秒
事実経過についてなにごとか申し上げる立場にはございませんが、関係のご報告とやりとり、なにかしらほっとするものを感じながら読ませていただきました。青葉城址さんのお書き込み、心温まるものがございました。まっぺんさんの困惑には、すえいどんさんとご一緒に同情申し上げたく存じます。キーワードは「党派として」という点にございますね。
ところでまっぺんさん。もし立場が逆であったら、「内ゲバ反対」の方針に照らしてインターはどのような対応をされたとお考えでしょう。つまり、教養部キャンパスはインターの「制圧」下にあり、そこに解放派が「党派として」登場しようとしたとすると、インターも「党派として」これを実力で阻止したのか、それとも、「攻撃」がなされない限りはこれを放置されたのか、でございます。
歴史に「もし」はないと申しますし、こんな仮定の話には意義を見出さぬということであれば、やりすごしていただいてかまいません。ただ、こうした思考実験を通して、「党派として」という場合の「党派」という存在に少し光を当てることもできるのではないか、とわたし思うのでございます。
「内ゲバ」というのはなにより「党派」の問題でございますね。「良い党派=内ゲバ反対党派」と「悪い党派=内ゲバ党派」に振り分けてみるだけでなく、そもそも日本新左翼における「党派」というのはいったいいかなる存在だったのか、あらためて考えてみるのも意味のないことではないと思うのですけど?
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きちんと説明してくれませんか? 投稿者:まっぺん 投稿日: 1月18日(金)18時41分33秒
ヨセフさん、いらっしゃいませ〜\(^o^)
あなたの信ずるものをここで宣伝なさるのはいっこうにかまいません。しかし
なんのコメントもなく、ただ貼り付けるだけでは、その意図を量りかねます。
どうか説明をおねがいします。
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リトル・ペブルに与えられたメッセージ 投稿者:ヨセフ 投稿日: 1月18日(金)17時30分23秒
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2.リトル・ペブルに与えられたマリア様のメッセージ
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No.001 1983年11月11日 金曜日
11番目の月の11番目の日の11番目の時刻
この大いなる広大なオーストラリア大陸の我が愛する子らよ。
今日は特にロ一マ・カトリック教会のすべての聖職者と、司祭
たちに語ります。私、あなたの天なる愛の母は、光の王国にま
します永遠なる御父から、大変重要なこのメッセージをあなた
に送るために、遺わされてまいりました。
<以下、管理者権限により削除しました。何の説明もなく貼り付けるはやめてください>
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細かい訂正 投稿者:TAMO2 投稿日: 1月18日(金)15時01分34秒
「動いていました」>「身構えていました」
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死刑判決がまた出ましたね・・・ 投稿者:TAMO2 投稿日: 1月18日(金)15時00分00秒
別のテーマ(但し、過去に議論されたテーマ)ですいません。新宿通り魔殺人事件の犯人
に掲題の判決が出ました。小生は、原則的に死刑廃止論者ですが、まあ、その代わり終身刑
や懲役200年とかの判決が「バンバン」でない限りは現状では死刑廃止には消極的です。
(以前、書いた通りです)
遺されたご遺族の方の立場が非常に社会的に不利な状況が、リンク先に書かれています。
ちなみに、包丁を振り回す人間に出会ったら、ここの方々はどうされますか? 実は、
小生、昔そういう目に遭いました。余り自慢にはなりませんが、護身術という名の殺人術
を若干体に染み込ませた時期があり、気づいたらカバンの紐を相手の首にかけて、締め殺そ
うと動いていました。包丁を振り回していた御仁は、小生のいた方向とは違う方向に行って
しまいましたが・・・。なお、これは「過剰防衛」だそうです。わけがわからんな、と思い
ました。
http://www.campus.ne.jp/~zonozono/ane/index.html
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青葉城址さん、初めまして。 投稿者:菊 投稿日: 1月18日(金)12時53分54秒
解放派サイドから見たご意見、ありがとうございました。
私は先日も書きましたが、現場の赤ヘル部隊にいました。前後の状況についてまったく記憶に残っていなかったのですが、青葉城址さんの書き込みで少し思い出したところがあります。
事件は74年2月ということはないですね。75年、いや76年だったでしょうか?私がまだ現場メンバーだった頃だから、76年ですね、きっと。その事件について1メンバーとして参加していただけなので、当時の東北大での状況や指導的な部分の方針について残念ながら、全くわかりません。
そこで76年として、当時の第4インターの現場学生メンバーの立場から少し書いてみましょう。以前、黒パンさんも書いていたように、73−74年と内ゲバが激化し、集団での内ゲバ襲撃が繰り返されていました。そういった中で革マル、中核、解放の3派の拠点大学はそれぞれ「戒厳令」的状況になっていました。にもかかわらず(そういう状況だからこそ、と言うべきか)、学生インターは学生運動の歴史的な拠点にメンバーを獲得、拡大し始めていました。早稲田、法政、明治、神大、広島大、九州大、北大、、、、。これについて、各党派はかなり「神経質」になっていて、いかにしてインター系活動家をつぶすかに必死だったという印象があります。どこの大学でも新しく加盟したメンバーは自分の大学を拠点にしている各党派活動家に殴られ続けていたので、全国のメンバーが集まる会議の場では、いつも「いかにして内ゲバ党派の支配を打破し、戦闘的な学生運動を再建するか?」というテーマが、「重苦しい」雰囲気の中である種の確信と共に(メンバーが新しく増え続けているわけで、それが自分たちが正しいという根拠になっていた)語られていました。
そこで、どうして東北大に登場することになったのか。そこは全く記憶にないのですが、学生インターのメンバーは、内ゲバ党派の暴力的な支配を打破するという共有感覚のもとに、自分たちの大学での困難な状況を突破するのと同じだという意識で動員されたのだったと思います。そこには、当然「東北大でも他大学のような厳令的な支配が行われている」という前提的な認識がありました。特にその前に九大で解放派に鉄パイプで襲撃されていたことがメンバーの大きな憤激を呼んでいたこともあったように記憶しています(この時期は私の記憶違いで、もっと後かもしれませんが)。
衝突事件自身の経緯は、ほぼ青葉城址さんの書かれている通りではなかったでしょうか。学生インターの部隊は慣れていないというだけでなく、「躊躇」があったように思います。つまり「内ゲバ反対」といいながら、こんな形で衝突をしていいのか、ということです。
なぜ、東北大であのような事態になったのか。これは私にもわかりません。東北大に対する日本支部政治局レベルの「思い入れと拠点意識」(他党派がそれぞれの拠点大学に「思い入れ」があるように)があったのかもしれません。
それからほどなくして、私は学生運動の指導的メンバーの一員になりました。そして東北大の事件もその象徴だった「戦闘的民主的学生運動の再建」という、それまでの方針から、三里塚を始めとする大衆運動に集中する方向に学生組織全体が転換していくことになります。そしてそこでは学生運動の進め方も、それまでのようなやり方ではなく私が早稲田でやっていたようなやり方でメンバーと影響力の拡大を図っていくようになります。
また、東北大事件の当時の指導的メンバーのほとんどは、その後三里塚現地の実力闘争を準備するグループの中心を構成することになっていきます。
歴史や真実は「個人個人のそれぞれの記憶を突き合わせる」ことによってしか、明らかにすることはできないと考えています。その意味で、青葉城址さんの書き込みは(書きたくなかったかもしれませんが)、私にとっても思い出したくない経験のひとつをもう一度、見直すきっかけになりました。再度お礼を申し上げます。ありがとうございました。
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真実を認識することがいかに困難か 投稿者:すえいどん 投稿日: 1月18日(金)10時22分14秒
攻撃と防御の逆転?まっぺんさんの困惑に同情します。これも、また、
「<真実>を認識することがいかに困難かを示す一例でもある」のでしょうか。
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貴重な資料をありがとうございました(^^) 投稿者:まっぺん 投稿日: 1月17日(木)21時28分11秒
ひえ〜・・・・ほぼ完全にはじめて聞く内容です。そうだったんですか。
「内ゲバ反対」の立場から、これをどう解釈するべきなのか?・・・判断停止状態ですねー。
>以上です。長々と失礼いたしました。何だか本論的話題を中断してしまった
>かもしれませんね。申し訳ありません。
いや、そんな事はないと思います。
「論理」としての議論ばかりじゃなく、こうした「具体的エピソード」も
含みつつ議論する方が、実際に即した議論ができていいと思います。
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青葉城址の衝突(4)←最後です 投稿者:青葉城址 投稿日: 1月17日(木)21時15分12秒
(続きですが、これが最後です)
元稿は以上のとおりで、これで私が見た本件衝突に関する概要は伝達できて
いると思いますが、少し追記します。
この「会戦」の位置付けは、解放派の側からすれば前述したとおり、第4イ
ンターの「党派として」の東北大教養部への登場「阻止」に尽きますから、
相手部隊の深追いを含めて(特に非武装の本隊への)「襲撃」や「せん滅」
など有り得ないように思えます。要するにセレモニーとしての登場を単に阻
止すればよかっただけですから。但しドンパチの過程で「行き過ぎ」めいた
ものは少しは有ったかもしれませんし、無かったかもしれない。
片や、第4インター側の位置付けは・・・・、すみません、実は私はそのこ
とに関する記憶が片鱗もないし、よくわからないのです。ただ、既出のよう
に解放派による「襲撃」に対する「防衛」であるとだけ仰られても、どうに
も腑に落ちないのです。まさか襲撃を「引き出す」ために進軍して来た訳で
はないでしょうから。
少なくとも川内(東北大教養部)に「党派性を前面に出して」登場しようと
しなければ衝突は起こらなかった。これがもし東北大片平(教養部ではない
地区)で開いていた集会を解放派が「襲撃」したのなら、それは文字どおり
「襲撃」にあたるでしょう。しかし、当時の党派間の事情としてそのような
ことが起こる必然性は無かった筈です。とすれば、この衝突がなぜ起こった
かの考察が不可欠だと思います。やはり「教養部への登場vs阻止」の文脈を
抜きには語れないのではないでしょうか?
※推測ですが、第4インターの方から解放派に、東北大教養部への「平和的」
登場の申し入れを行ったが、解放派の方から強く拒否された、と言うシナリ
オは十二分に有り得たと思います。そして、その結果どうするか、第4イン
ターの方で色々と議論されただろうことも想像できます。その議論の中味は
知るべくもありませんが、結果としてはあのような形に落ち着いたと言うこ
とでしょうか。
言うまでも無いことかもしれませんが、ある党派(複数)を学内に登場させ
まいとするスタイル(つまりは縄張り争い)それ自体を、正しかったと見な
している訳ではありません。これも数多ある悔恨のひとつではあります。併
せて、この件に関して「解放派が正しかった」などと申すつもりも毛頭あり
ません。しかし、事実経過は正しく認識してもらいたい、少なくとも「とも
かく解放派は内ゲバ主義者だから、訳もなく襲撃して来た」かのようにしか
取られかねない記述は誠実ではないと思ったのです。
以上です。長々と失礼いたしました。何だか本論的話題を中断してしまった
かもしれませんね。申し訳ありません。
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青葉城址の衝突(3) 投稿者:青葉城址 投稿日: 1月17日(木)21時12分39秒
(続きです)
次に、上記リンクの2番目(8902.html)の文を引用・コメントします。
>再現!青葉城決戦!!(Re: 東北大)
>投稿者 ザーカイ 日時 1999年 10月 06日 14:48:44:
>回答先: 東北大 投稿者 トンペ−生 日時 1999年 10月 05日 14:32:16:
>
>>(略)80年代 になって中核が奪い取ったと聞きましたが、学生
>>運動退潮時にどう やって勢力を拡大できたのですか。また、イ
>>ンタ−が一番強かったとか、インタ−と解放の青葉城決戦があ
>>ったとかって本当ですか。
>>内ゲバ反対のあのインタ−が。
ザーカイさん。まず「青葉城」と言うのは残存していません。あるのはちっ
ぽけな城址(しろあと)だけです。ただし、衝突の場所はまさしく青葉城址
のところでした。確か「青葉城址前」なるバス停が在ったような・・・・。
次に(新左翼系で)「インターが一番強かった」と言うのは疑問です。東北
大にあっては、60年代前半ならいざ知らず、70年代前半〜半ばにかけて
はひいき目でも2番手、もしかすると4番手だったかもしれません。
>しかし退潮期の青葉城決戦ですかあ・・・ロマンチックだなあ―。
>(イメージ・アナウンサー古館伊知郎風)
>
> 冬将軍の足音が聞こえ始める頃
> 黄昏時の青葉城
> 古城のふもとに向かい合う勇者たち
> 一方は蒼の兜
> 一方は紅いに鎌鎚紋章の兜
季節は初冬ではなかったような、どちらかというと春だったような・・・。
時間は丁度昼休み時間です。でも場所がキャンパス外だったため、観客(一
般学生)の数が少なかったことが少々残念と言えるかも。(^^;)
> 現代のカインとアベル
>
>両雄の手にはいくつもの激戦を闘い抜いてきた相棒のバール
> 中世の騎士のようないでたちの彼ら
> 心には「約束の聖地=自治会」の防衛/奪取を秘めて
さすがに双方「バール」は無かったはずです。
当時自治会は民青だったと思いましたから「防衛」ではないし、勝敗の結果
が「奪取」に繋がる訳でもありません。ま、その後の主導権には若干の影響
を与えたかもしれないが。
「中世の騎士」かぁ。なるほど、いでたちはともかく、中味は確かにドンキ
ホーテだったのかも?
> 否応なく高まる緊張感・心臓の鼓動
>
> どこかのお寺の鐘が不意に「ゴ〜ン!!」
> 驚き、鳩が飛び立つ音とともに静寂は破られた
> 「突撃〜」
> 自らの恐怖感を掻き消すが如き雄叫び
> 「ウオ―!!!」
> 青葉城決戦の火蓋は今切って落とされた!!!
この部分は事実です(なんてウソですよ〜)。(火暴)
>#こんな感じだったのかなあ(笑)すべて想像ですので、関係者各位は怒らないでね。
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全然怒りはしませんけど、事実経過として気づいた点を修正させていただき
ました。
以上、もし私の記憶違いでなければ。
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(つづく)
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青葉城址の衝突(2) 投稿者:青葉城址 投稿日: 1月17日(木)21時11分52秒
(続きです)
まっぺんさん、私の記憶によれば一部事実関係が逆です。(^^;)
先ず次のことを前提として承知しておく必要があります。
第4インターはこの頃、党派としては東北大(正確には教養部)には登場で
きない形になっていました。これは、71年時の沖縄闘争を巡って全国反戦
全共闘が中核・インター組と解放派・フロント・その他組に分裂したことが、
その是非はさておき、まだ尾を引いていたことによっています(ローカルに
はさらにプラスαの事情もありますが省略)。ただし、そのことはあくまで
も「党派として」であって、東北大学新聞社(第4インター系)等の大衆サ
ークルとしての活動については特に制約はありませんでしたし、実際、人脈
的にも彼らとの関係は別にまずいこともありませんでした。いずれにせよ、
そのような事情にあって、第4インターが「党派性を前面に出して」東北大
に再登場するには、解放派のバリアを武力で突破する必要があったと言うこ
とです。
上記引用からは、第4インターが(党派として)学内で恒常的に活動してい
るようなところを、解放派が襲撃して来るので、そのための正当防衛である
かのようにも読み取れますが、私の認識は違っています。むしろ形の上では
攻守は逆で、第4インターが攻める側、解放派の方が防衛側にあたっていま
す。その意味で、「攻める側」が「防衛を目的とした武装」として語るよう
に思えて、読んでいてかなり違和感があったことは否めません。
場所は、後述のとおり、青葉城址前。ここは緩い坂になってまして、坂を登
り切ったらキャンパスになります。青の部隊は、赤の学内突入を阻止する形
となりますから、キャンパスを背にして坂の上の方に位置しました。赤の部
隊が坂の下から攻め登って来る形です。動員のレベルのためでしょう、上か
ら見た記憶では、赤の方が青よりも随分多かったと思います。とは言え、ド
ンパチ自体は数十人規模、百人は居なかったと思います。だから大会戦と言
うよりは精鋭部隊(?)による中会戦と言ったところでしょうか。
さて、勝敗ですが、これは簡単に決着がつきました。私の印象では、申し訳
ありませんが、この時赤はすごく弱かったのです。ことの是非は別として、
これは明確に「熟練」の差によるのだと思います、数は少なかったけれども、
始めから青が負ける気は全然しませんでしたし。かくして、この中会戦で青
の阻止線を突破できなかったことによって、第4インターの「党派として」
の学内再登場は失敗に終わった(解放派から見れば学内登場を阻止した)と
言う顛末であります。これも一種のセレモニーだったと思います。
ただそれだけのことであって、私のおぼろげな記 ッすでに示してございます。 v