四トロ同窓会二次会 2001年12月30日〜31日

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つねに原点にもどる事の重要性 投稿者:せみまる  投稿日:12月31日(月)21時22分18秒

わたしは「かけはし」でも書きましたが、階級闘争が勝利する確信のひとつはプロレタリア階級こそが「社会的多数派」である、という事です。反共プロパガンダ、直接制からはほど遠く、人民の要求を正しく反映できない代議制政治制度、小選挙区制をはじめとする不公平な投票制度、そしてまた相当額の資金がなければ立候補もできない無産者に不利な被選挙権制度などによって資本家階級は「擬似的多数派」を形成していますが、労働者階級は本来はもっとも多数の勢力であるわけです。

この社会が「階級社会」であって、ほんのひとにぎりの資本家階級と多数の労働者階級と、その中間の小ブルジョア階級とに分かれている事実、そして「民主主義」=多数決原理が「人類にとって公正な原理である」と信じられている事実は、社会主義がやがて勝利するだろうという確信を懐かせます。万人に認められている「民主主義」を武器として、これを徹底的に押し進めるならば、労働者階級の多数派が権力に到達するのは「原理」として否定できないからです

だから、革命派は、この「原理」を推し進めていけばいいのです。そのためには、同一階級内での「意見のちがい」を「軍事的対立」ではなく、民主的議論による多数派の形成へと進めていき、全プロレタリア階級が団結・統一した時、ブルジョア階級に対して圧倒的な多数派になれるのです。「戦争」の論理でいえば、「味方は統一し、敵を分断させる」事が勝利への道です。しかし、内ゲバは「味方を分断する」事によって、敵を有利にしているだけである、という事です。

もうひとつ。われわれが忘れてはならないのは、どの党派もすべての党派の「理論」は以上に述べた労働者の多数派の「原理」に従属するという事です。どの党派も、その指導者もたくさんの間違いを犯してきました。一貫して正しかった人物などひとりもいない、といっていいでしょう。クロンシュタット反乱へのボリシェビキの残虐の例をあげるまでもありません。したがって、自浄作用の可能性を失った党派は大衆に見捨てられてゆくでしょう。ひとつの党派を選択し、それに従って闘争を展開してゆくとき、つねに「自らを点検し、うたがう」行動が必要である、という事です。

ここにも内ゲバ党派が陥ってしまった「党派の論理」のワナを見いだすことが出来るのではないでしょうか? 「党派の論理」は「階級的原理」に従属するべきである、という事です。第四インター派の「内ゲバ反対」を「党派の論理」というのは自由ですが、それが「階級的原理」からみちびかれている事を理解するなら、すべての「階級的党派」が共有できる理論であると思います。

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「修辞」のことなど・承前 投稿者:鬼薔薇  投稿日:12月31日(月)20時34分11秒

>小西さま、続きでございます。

 革マル派にとっての「党派闘争」にあって、他党派は最初から「解体」の対象と位置付けられてございます。これは分裂前の革共同全国委員会の「反スタ」思想の基本構造でございました。分裂後の中核派がそこから(おそらくは60年ブント流入組の主導によって)ブランキズムへ分岐し戦闘的「大衆運動主義」へ一路邁進し、「反スタ」思想を事実上空洞化させていったのに対し、革マル派は全国委員会派の元祖「革命的マルクス主義」の思想と哲学を墨守してきたと言って差し支えないかと存じます。その立場からすれば、大衆運動の後退局面で具体的な「敵」を見失ったブランキズムの暴走は、物理的にどれほど脅威であろうと、理論的・思想的には恐れるに足らぬものとみなされたのではないでしょうか。真正の「階級敵」といった“上等な”規定を与えるに値しない相手とみなすのも、けだし当然かと理解しうるところでございます。

 「他党派解体」を基本とする「党派闘争」において、他党派はもともと「存在そのものが誤り」である存在であり、それに対して発動される暴力は最初から「革命的暴力」以外ではありえません。革マル派の対他派対応がきわだって排他的であり、その暴力が初期からテロ・リンチの性格を色濃く帯びていたのもそのためと考えられます。そのような「革命的暴力」を論理付ける「革命的マルクス主義」を、わたしきわめて有害・有毒なものと考えます。黒田哲学に裏付けられたこのイデオロギー体系はひとつの原理主義であり、革命思想に内在するマイナス遺伝子が原理的に純化された発現と考えるべきものと思います。その根底にあるのは、黒田哲学自身の言葉でいえば「疎外」されたる者という存在意識、ニーチェが言った「ルサンチマン」、社会心理学的に申せば「孤立者の憎悪」ということかと存じます。

 悲惨、というより陰惨と申すべきかもしれませんが、この「革命的暴力」の発散する毒素は、対抗党派にも強い伝染力をもって作用いたしました。革マル派と血を血で洗うがごとき死闘を繰り返す過程で、対抗諸派はこの毒素の浸透を受け、体質が次第に「革マル化」していったように思われます。その意味で革マル派はイデオロギー的に“勝利”してきたとも申せましょう。けれども「革マル・クローン」を「敵」として再生産する革マル派は自身の影と闘い続けることとなり、政治的・組織的には決して勝利できないという逆説に陥ります。対抗党派についても事情は変わりません。このドツボにはまった「勝利なき永久戦争」の全体が毒素を社会に拡散させ続け、社会の革命をめざす運動の思想と組織とそこに所属する人間の精神とを歪め蝕み腐食させてきた、それが過去30年(革共同第3次分裂から数えれば40年)だったことを顧みますとき、背筋が凍るような思いにとらわれずにはおれません。革共同だけの問題でないことは、ブント赤軍派と共産党革命左派からなる連合赤軍の事件を同じ時間軸に置いてみれば明らかでございましょう。

 特定人格の殺傷を目的意識化した「内ゲバ」の暴力は、単なる組織防衛や集会防衛の範囲を越えた質に規定されております。この「内ゲバ」を克服して新たな地平を切り開くには、この特殊な暴力を解体することが必要でございましょう。この暴力を暴力をもって解体することは原理的に不可能であることは少なくとも明らかと存じます。であれば、それを生み出す基礎を探り当て、その基礎自体の解体を展望するほかございません。そうした作業を進めることこそ、内ゲバに散った多くの若い命に対する最大の鎮魂ではないでしょうか。

 この問題を主題化するとき、革マル派という特定集団やその依拠する「革命的マルクス主義」に固有の特異性ではなく、そこに純粋培養された革命思想のマイナスの遺伝子を日本の革命思想の根っ子に遡って抉り出す課題が浮かび上がってまいります。「マルクス主義」もまたそのなかで、もう一度革命の思想として捉え返され吟味されねばならぬかと愚考する次第でございます。そこでは、非マルクス系、または反マルクス系諸潮流の経験からも(右翼民族派の思想と行動からさえも)、多くの教訓を引き出せるし、また引き出すべきだと思うのでございます。

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「修辞」のことなど 投稿者:鬼薔薇  投稿日:12月31日(月)20時30分01秒

>小西さま、コメントありがとうございます。
  前2回、自分でハンドルを誤記しておりました。お恥ずかしいかぎりでございます。

 さて、コメントいただいた点ですけど、「修辞」という表現は適切でなかったと反省しております。本旨はその前にまっぺんさん宛て書きましたものの、次のところにございました。

>ここで内ゲバの対象たる「他党派」は、「存在そのもの」を許すべからざる「敵」と位置
>付けられております。それは「批判」ではなく「せん滅」=「抹殺」の対象なわけです
>ね。この「存在そのもの」を認めない「抹殺」のための行動こそ、殺戮を目的意識化し
>た「内ゲバ」の核芯のはずとわたし思います。「反革命」とか「ファシスト」といった対
>象規定は、「存在そのもの」を許さないという敵規定の政治言語化にすぎません。

 ここで「政治言語化」と申しましたのも、「党派言語化」もしくは「派内言語化」としたほうがより適切だったかと存じます。相手の存在を客観的に分析して「反革命」もしくは「ファシスト」などという評価を下し、そのような相手であるがゆえに対立は敵対的なものであり、相手の「存在そのものを許さない」という対応を導き出したのではなく、逆に、「存在そのものを許さない」相手とまず位置付け、それを「反革命」「ファシスト」などと後から呼ぶことにした、そして、そのように規定した相手に対して行使する暴力を「戦争」と位置付けた、そのような思考経路路を問題にした次第でございます。

 おそらくここで革マル派と中核その他諸派とのあいだに、ご指摘のような差異があるのは事実でございましょう。敵対する諸派が革マル派を「反革命」「ファシスト」などと(言い換えれば真正の階級的な「敵」と)規定したのに対し、革マル派のほうは、背後にある真正の階級敵が組織する「謀略」がまずあって、敵対する諸派はその「謀略」に踊らされる「手先」にすぎないという、より下位的な位置付けをしているのでしょう。
 けれどもこの違いは、上のような思考経路を考えますとき、果たしてどこまで本質的なものでございましょうか? わたしの感じを申しますと、革マル派のほうが「党派闘争」により「熟達」しており、より「論理的」に位置付け、構成し、展開しているのに対し、反革マル諸派のほうがより直截な「階級敵」規定を下しているというにすぎぬようにみえてしまいます。

 対抗両派の用語法とその意味をていねいに跡付けられた周到な作業には頭が下がります。けれどもひとつ不満を申し上げることが許されるならば、中核派による「内ゲバ」の路線上の位置付けなどが大変「合理的」にすぎるとの印象を免れぬことでございます。中核派は果たしてそれほど合理的・理性的に行動してきたのでしょうか?
 むしろそこには、敵対する革マル派への政治的・組織的な憎しみが先行していたのではないでしょうか? その内的衝動というものを取り出さねば、秘密部隊による殺傷目的の個人襲撃という行動は、とうてい理解できぬように思うのでございます。
 
 組織の論理に立って合理的・理性的な表現をとったのは、むしろ革マル派のほうだったように思われます。けれどもそれは、革マル派に憎悪が希薄だったことを少しも意味いたしません。「党派闘争」に固有の意味付けを与えて論理化してきた革マル派が内在させる「憎悪」は、実は対抗諸派よりはるかに根深く濃密な質を有し、なればこそより論理化され研ぎ澄まされた表現を持つこともできたのであろうと考えられます。(続)

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「内ゲバ反対」は「党派理論」か? 投稿者:まっぺん  投稿日:12月31日(月)20時18分42秒

ロック・ザ・カスバさんが論点をすり替えたり混同したりするのはたびたび見られましたが、
今回も私が「戦争」を否定したのに対してそれは「軍事を否定した」と思いこんで(或いはすり替えて)いますね。
そのうえで

>と内ゲバ」に軍事論を持ち込むこと自体を否定することで、私の批判をかわそうとなさっています。
>であれば、まっぺんさんおっしゃるところの「左翼」同士の「内ゲバ」ではなく、例えば、
>天皇制右翼やヤクザゴロツキ集団などとの暴力的衝突についてはどうお考えになるのでしょうか。
>彼らは明確に自覚的な反革命として、われわれの革命的な政治的意志の消滅を目指して襲撃をしかけてきます。

と言っているわけです。私は「戦争」を否定したが「軍事」を否定してはいませんよ。
私が「戦争と内ゲバを同一視するな」といっているのに
それに対してあなたの方は「戦争の論理」によって内ゲバを肯定しようとしているにすぎない。
「軍事はすべて戦争」という主張によって、あなたは「内ゲバ=戦争」へとすり替えようとしている。
そうすることによって「階級闘争」と「党派闘争」の違いについての無理解を自己暴露している。
これでは何の回答にもなっていません。

自衛武装の問題については小西さんが事実に基づいて解答を出してくれていると思います。
さて、ロック・ザ・カスバさんの主張によると・・・・

>したがって、それが「戦争」ではないとまっぺんさんが論拠するのは、単に「各党派を反革命と規定することは誤りだ」
>という第四インターという党派のひとつの政治的立場に由来しているにすぎないことがわかるでしょう。
>要するに彼らの「内ゲバ反対」論の根拠はそこにしかないのです。

という事は「内ゲバ肯定論も、内ゲバ反対論も、党派の主張でしかない」という意味ですね。
内ゲバ反対は「トロツキストの論理であって大衆のものではない」と。
そうでしょうか?
それこそ大衆をまったく無視した内ゲバ論者の自己弁護にしかすぎません。
内ゲバに反対するのは「四トロだけ」と断定するならば、なぜ
84年の中核派のテロに反対する声明に他の党派からも賛同者があったのでしょうか?
内ゲバに反対するのは「四トロに同調しているから」なのでしょうか?

これまでの内ゲバが内ゲバ党派同士だけでなく、社会運動全体に巨大な「階級的」損失を与えた事を
これまでの30年以上にわたる経験から大衆は充分に学んでいます。
学んでないのは、内ゲバ党派の、それも幹部だけでしかない事が、小西さんの中核派体験の
中からも理解できるのではないでしょうか?

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黒パンさん、そのような気がしてきました(^^; 投稿者:睦月  投稿日:12月31日(月)18時23分37秒

でも、なんかわざわざ但し書きをしてあるところが
脅迫されているようでヤだったので、引用はやめました。
つーか。誰のどんな行動が「反革命的」かと言われても
その人の目に「反革命」と映ればそう判断されるってだけの
話じゃないかと思うんですがね。

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ソウルから戻りました。 投稿者:黒パン  投稿日:12月31日(月)17時43分22秒

 アベル・パスとのお付き合いは、別の方が引き受けてくれたので
自宅で昼寝をしていました。この十数年は現場の仕事が年末か年始
に入り、あいた日に雪山に行ったりしていたので自宅で過ごすのは
ひさしぶりです。さて、ソウルからはトップ・ページは日本語で
読めるようにできるのですが、二次会掲示板は日本語表示に変えら
れませんでした。文字化けの中、ローマ字で簡単に書き込み、投稿者
とタイトルを逆に書いてしまいました。

 ざっと読んでいて気づいた点。
睦月さんの紹介サイトでイダ・メットのテキストの電子化コピーは、ここに転載は
「問題」ないと思いますが…

 この方のサイトで他のテキストの註をいくつか読むとサイト管理者は著か刊行者に断った
うえで電子テキスト化しています。
 ところが、このクロンシュタット・テキストに関しては鹿砦社に、サイ
ト管理者自身が断ったとか許可を得たとか一言も記していないのです。
 代わりに一般的なペーパーの刊行物の著作権の確認を記しているだけです。
サイト管理者自身も、無断で電子化したのではないかと推測します。
 つまり、刊行された本のフォト・コピーは<いわゆるコピー機を使って
複写すること>「禁止」ということですが、サイト自体の電子コピーは禁止
すると書いていません。サイト管理者自体も無断でしたら、そういう「権利」
はないし、いえるはずはありません。このような掲示板で議論するうえでは
電子化されている、せっかくのテキストを「自由」に引用すべきだと思います。

以下は、コピー貼り付け
≪(注)、これは『クロンシュタット叛乱』(1971年、鹿砦社。1991年新装版)中の、イダ・メット『クロンシュタット・コミューン』(蒼野和人訳)からの抜粋です。抜粋転載文の著作権・出版権は、著者・訳者と鹿砦社にあります。「本書の全部または一部を無断で複写複製(コピー)することは、著作権法上の例外を除き、禁じられています」。≫

 サイト管理者が自己防衛的にしか記していないように感じます。
余談ですが、鹿砦社はジャニーズ事務所のタレントか宝塚の役者の住所案内の本を刊行して訴えられましたね。

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訂正 投稿者:鬼薔薇  投稿日:12月30日(日)23時50分47秒

 前2発言、自分でハンドルを誤記しておりました。
 匿名掲示板なればこそ、ペディキュアの色のように大事にすべきものを、わたしとしたことが
お恥ずかしいかぎりでございます。

>小西さま、わたしの書き込みにもご言及いただきありがとうございました。
 肝要と思われます点、なるべく早くコメントさせていただく所存でごいます。

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自衛武装論を支持 投稿者:小西まこと  投稿日:12月30日(日)16時26分49秒

 蝉丸さんの自衛武装論に対して、ロック・ザ・カスパさんが反論していますが、この問題は大事ですので僕も意見を述べておきたいと思います。
○やむなくの党派間対立は「厳格な自衛武装」としてのみあるべき(執拗なある党派の系統的攻撃に対して)
 まずは事実の確認です。
 革マル派は、内ゲバを「戦争」として規定していません。党派闘争と、74ー5年からは「党派闘争ならざる党派闘争」という規定です。
 これに対して中核派は「戦争」という規定です。
 ここでの問題は、鬼笑さんの論の問題ですが、中核派が「戦争」と規定するのは、72ー3年から、つまり、それ以前の内ゲバは党派闘争であったわけですが、革マル派へのK=K連合規定、反革命規定を契機に「反ファシズム解放戦争」へ路線化するわけです。
 つまり、中核派の場合、反革命規定は単なる「修辞」ではなくこの規定をもって党派闘争から「戦争」へと「発展」するわけです。
 この過程は「検証 内ゲバ」でかいていますから詳細は省きますが、問題は、この党派闘争が激化していくときに「厳格な自衛武装」として対応すべきであったということです。
 確かにカスパさんが言われるように、自衛武装のみでは、味方が相当傷つくでしよう。しかし、70年前後の革マル派のゲバは「敵を消滅させようとする」ほどまでは行っていなかった、と言わざるをえません。内ゲバが「消滅・殲滅」まで進んでしまったのは、「海老原事件」への対応など、中核派の側にも責任があります。
 また、仮に「消滅」させるような攻撃があったとしても、本物の前衛党派ならば、血を流しても「厳格な自衛武装」に徹し、その対象の反動性を大衆に訴え、その陣形の強大な形成の中でその対象の政治的孤立・消滅をつくるべきなのです。
 本来、自衛武装ー大衆蜂起の基本は「政治と武装ー軍事の統一」であるべき。
 「戦争」をしかけてくるのに自衛・防衛でかてるのか、というご指摘もありましたが、これはかてます。「防御戦争」というのは「戦争勝利」のもっとも有利な戦略的形式・方針でもあります。
 ただ、軍事理論上「防御戦争」と「自衛武装」は異なります。民衆の自衛武装を媒介とする対権力蜂起の場合は、大衆蜂起として実現せねばなりませんから、徹底した政治性ー自衛武装性の強化・拡大のみがそれを実現するでしょう。
 だからこそ、前衛は左翼内部の「反動的集団」や「天皇制右翼」などの「執拗な暴力的攻撃」に対しては、厳格な自衛武装を大衆に訴え、同時に自らもそれを実践していくことが必要だと思います。
 僕のこの考えの基本は、現代の「帝国主義本国」「先進国」では、ロシア革命よりももっと徹底した大衆の蜂起が必要だ、ということがあります。詳細は別に述べますが、湾岸・コソヴォ・アフガンと続く戦争で実証されたのは「先進国の民衆ー兵士(支配者)は、戦死者に耐えられない」ということを思っているからです。
 そして、中核派でさえも、19全総ー6回大会ー02年新年号を見れば明らかですが、すでに「対革マル派自衛武装」だけを強調しています。つまり、彼らも、この時代大衆運動を強化するには内ゲバをやっていたのでは大衆を獲得できないばかりか、自らの党も崩壊することをようやく自覚しているのです。
 少し長くなりましたので、補足は別の機会にいたします。鬼薔薇さんの意見も大変参考になります。 

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RE;内ゲバ論:続 投稿者:鬼笑  投稿日:12月30日(日)09時00分32秒

>まっぺんさま。続き、「軍事」まわりについてでございます。

>それは「戦争」としてはただしいでしょう。しかし、鬼薔薇さんのおっしゃるとおり、
>本質的にそこがちがいますね。わたしは内ゲバを「戦争」とは考えていません。

 せっかくでございますが、「戦争」(と考える)かどうかが「本質的」とはわたし思いません。「内ゲバ党派」がいう「戦争」という用語は(相手を「反革命」と規定するのと同じく)ひとつの修辞にすぎないと思うためでございます。ここで「戦争」(と考えるかどうか)に論点を見出すのは、失礼ながらお相手のペースに巻き込まれたご論議ではないのでしょうか?

 問題は「暴力」の質にあったはずとわたし考えます。対抗党派の指導的人格を肉体的に抹殺することを意識的に目的化した「暴力」というもの、これを正当化するための修辞が、相手を「反革命」と規定し、行使する暴力を「革命的」と形容し、その行動を「戦争」と呼んでみせたにすぎません。
 特徴的なのは、こうした形容や命名が自派のなかだけでしか通用しない私的言語だという点でございましょう。それは仲間内の符牒であって、社会的な自己表現ではすでにないのです。ここで「社会的」というのは、対権力・対社会・そしてなにより対大衆の関係性を申します。対他党派関係はこれらのなかで決まってくるはずのものでございました。「内ゲバ」における関係はそうではありません。そこには自派と対抗他派以外には存在しない、そのような関係だけが残される地点へ不可避に導かれるのだとわたし思うのです。
 
 ご指摘がありました。
 
>そもそも「党派対党派」の関係でしか、内ゲバを見ていない事が最大の問題です。

 「内ゲバ」というのは論理必然的にそうした地点へたどりつく、それが本質なのではございませんか? ロック・ザ・カスバさんが内ゲバを“「党派対党派」の関係でしか”見ていないのは、彼の議論の誤りなどでは決してなくて、その立場から必然的に導かれたものであり、内ゲバの本質を正確に示しているのだとわたしは思います。露骨に申しますと、“「党派対党派」の関係でしか”見ていないからこそ「殺人」を公然と正当化できるのでございましょう。そうした立場の人に対してそれ以外の関係でも見よと言うのは、内ゲバを止めろとおっしゃるのに等しいこと、それでは議論にはならぬと存じます。
 
 「戦争」は政治の延長だというのは有名なクラウゼビッツ・テーゼでございますが、「内ゲバ党派」のいう「戦争」は、政治の延長ではなく政治の空洞化、その疎外態の延長でございましょう。どのような「政治」が、如何にして自らの本質を疎外したものとなったか、それは「軍事」に先立つ「政治」そのものの問題として検討を要するテーマとわたし考えます。
 
 示されるご姿勢にはある意味賛同しつつ、まっぺんさんのご論議にいくつか本質的な弱点(失礼!)を感じるがゆえの余所者発言とご了解下さいませ。

追記:アップ直前にロック・ザ・カスバさんのご発言「革命戦争としての内ゲバ」拝読し、
   いくつかの点でわたしの考えが裏付けられた気持ちがいたしました。

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RE:内ゲバ論 投稿者:鬼笑  投稿日:12月30日(日)08時54分27秒

>まっぺんさま

 余所者の横からの口出しにご応答いただきありがとうございました。せっかくですので少々議論させていただきたく、よろしくお願いいたします。

>内ゲバ党派同士の「戦争」が結果としては大衆運動そのものを後退させてきたこと、
>そして本来、社民や共産党の限界を突破して大衆をより左へ引きつける役割を期待さ
>れていたはずの「新左翼」運動が内ゲバによってたたき合う中で、大衆的支持を失っ
>てゆき、結果的には左翼的展望をうしなった大衆は民主党だの自民党内改革派だのに
>期待し始めた。内ゲバは左翼全体を後退させる犯罪的な行為なのです。(行末改行処理)

 “お説ごもっとも”とは存じます。でも、それだけでは答えになってはいないとも申し上げねばなりません。おっしゃる「内ゲバ党派」のリーダーや活動家も「大衆的支持」を失ってもいいと思って行動したはずはございません。それなのになぜ? というところを明らかにしなければ、「無力」とのご批判も当然あるでしょう。そして、「われわれこそ『内ゲバ』に終始反対し続けた(唯一?)正しい党派であった」という、それ自身ひとつの「党派」的正当化論に終りかねぬと懸念する次第でございます。
 「内ゲバ」は党派左翼の内部世界を越えた社会問題でございました。世界の変革を目指して結集したはずの左翼政治集団が、なぜお互い殺し合いの暴力に血道をあげるにいたったのか? その理由と道筋を解き明かすことが、「内ゲバ」批判の要諦かと存じます。
 
>各党派のそれぞれの「党派闘争」は共同の闘いの構築の中で、大衆とともにやるべきな
>のです。

「べき」ではあるけれどそうはならなかった、なぜか? “やらなかったのが悪かった、間違いだった”では歴史総括にはなりません。この点に関してわたし先週末、次のように書いたところでございます。
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 「○○派」という集団形成のうちに「党」と「大衆」をセットでくくり込んだのは、日本の新左翼「党派」の特徴的な組織形成でございました。「党」とはもともと意志した個々人がそれぞれの思想にもとづいて結集する私的な集団、それに対して「大衆」というのは社会的存在でございます。学生自治会にせよ労働組合にせよ、一般に「大衆組織」というのは、ある社会的規定を根拠に形成される「公的」な存在です。そのなかで各「党」は、「指導性」を競い、大衆の側からの「選択」に晒されて決定されるはずのものです。「党派」というのはこの「大衆」を分断し、「党」との関係を閉ざし、「選択」の自由を奪って成り立ったといってよろしいかと存じます。結果、「党」は大衆からの選択に直面して他「党」と競合し、切磋琢磨して自らを鍛える契機を直接には持ち得ぬこととなりました。-------- 内ゲバと対「大衆」関係 投稿者:鬼薔薇  投稿日:12月22日(土)22時37分45秒

“やらなかった”というより“やれなかった”のでしょう。「党派」は、おっしゃる「大衆」というものの独自の存在を価値付ける位置関係をその構造上もっていなかったためでございます。別の言い方をすれば、「党派」の中の<党>は、社会的存在としての「大衆」から自立できていなかった、自立するだけの政治的成熟を遂げていなかった、要するにそれらは<党>と呼び得るだけの内実を持てない段階にあり、その段階にとどまり、結果として変質を遂げた、ということになります(※)。

※故周恩来があるとき、「日本の左翼は戦闘的ではあるが未熟である」と評したと聞き及びます。60年以来日本新左翼に温かいまなざしを向けていた彼の苦言には、20〜30年代中国の革命運動の苦い経験が込められていたことと察せられます。なかでも特に未熟だったのが「中国派」だったのは皮肉な話でございましたが(苦笑)。

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革命戦争としての「内ゲバ」 投稿者:ロック・ザ・カスバ  投稿日:12月30日(日)08時09分16秒

>ロック・ザ・カスバさんが「攻撃」と「防御」を同一視し、どちらも「戦争の一部分」と
>位置づけるときそれは「戦争」としてはただしいでしょう。

私は「防御」のみに特化した軍事を実践することなど不可能だということを指摘しました。
それに対してまっぺんさんは上のように一定の理解を示してくださいました。
しかしながら今度は、

>わたしは内ゲバを「戦争」とは考えていません。

と「内ゲバ」に軍事論を持ち込むこと自体を否定することで、私の批判をかわそうとなさっています。
であれば、まっぺんさんおっしゃるところの「左翼」同士の「内ゲバ」ではなく、例えば、
天皇制右翼やヤクザゴロツキ集団などとの暴力的衝突についてはどうお考えになるのでしょうか。
彼らは明確に自覚的な反革命として、われわれの革命的な政治的意志の消滅を目指して襲撃をしかけてきます。
それに対し反撃を組織し、逆に彼らの反革命的意志の消滅をかけたたたかいに決起することは、
明らかに革命戦争の一貫たるたたかいといえるでしょう。
そこには、冷然たる軍事の掟があり、「やらなければやられる」という関係があります。
さて、まっぺんさんいうところの「内ゲバ」について、その当事者たる各党派は敵対している
党派を各々「反革命」と規定しているわけですから、彼らにとっては、敵対する党派は天皇制右翼
とあくまで同列にあるはずです。
したがって、それが「戦争」ではないとまっぺんさんが論拠するのは、単に「各党派を反革命と規定することは誤りだ」
という第四インターという党派のひとつの政治的立場に由来しているにすぎないことがわかるでしょう。
要するに彼らの「内ゲバ反対」論の根拠はそこにしかないのです。
歴史上、左翼の仮面を帝国主義戦争推進者が多々あらわれ、人民を欺いてきたことは誰でもしっているでしょう。
そのような部分を仲間と認識して、いつまでも対決をさけつづければ、人民の敗北は必至でしょう。
どの党派がそのようなものであるかを個々ここであげつらうつもりは私にはありません。
しかしながら第四インター派が「武装自衛」を掲げる以上、「内ゲバ反対」を大衆的な結集軸と
したりするのは潔いとはいえないのではないでしょうか。

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(無題) 投稿者:ザーカイ  投稿日:12月30日(日)05時04分17秒

>いろはさん
そうでしたか,勉強になりました。

>あうせさん
正当防衛であれば無罪ですし,殺意がない、事故で人を殺めたなどの場合は過失致死ですから殺人罪ではないですね。ですから死刑が求刑されることはありません。よって問題外。

 それと「殺されなければ生きていたはずのそのヒトの人生に対して、何が報いとなるのでしょう…?」との「問い」について。
ある人は死刑は報復刑だといっていますよ。つまり「報い」になるんだと・・・。
ですがわたしは刑罰を含め被害者(の遺族)への「報い」として処罰があってはならないだろうといっています。
近年被害者の人権などという議論がありますが,現段階では社会の秩序維持機能として死刑を含む刑事罰があるわけで、被害者に報いるものとしては存在していません。
また死んだ人には権利(せいぜい名誉について民事で観とめられている程度か?)がありません。ですから何も報いる必要はないのです。

 さらに死刑を含む刑罰は社会を運営していく上での効果や機能性の問題ですから,「善悪」の問題ではありません。また正誤で語るものでもありません。
そして善悪や正誤で理解できる必要もありません。よってそのような視点で「一生わからない」とか「わかる」という話ではないのですよ。
 もちろん文学・宗教としてなら別ですが(藁)

>自殺ならいいのか?って話にもなっちゃう気もしますし。
自殺で何かまずいことがありますか?自殺ならいいんだと思いますが?

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簡単に事実だけ 投稿者:いろは  投稿日:12月30日(日)01時18分33秒

ザーカイさん。

>今の日本では尊属殺人や大量殺人については死刑が適切であるとなっている。

尊属殺人の刑法上の規定(200条)は1995年に廃止されています。
ですよん。
(その前には判例上ガタガタしていましたが)。
また、大量殺人と死刑に関する規定もまた刑法上は存在しません。
量刑の問題として司法判断に委ねられますが・・・。

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あうせ♪は… 投稿者:あうせ♪  投稿日:12月30日(日)01時07分36秒

個人によって解釈や考えが違うのは前提としても、死刑についてはすぐに判断がつけられるものではないでしょう。
ヒトがヒトの命を奪う権利など、確かに誰にもありません。
でも、正当防衛だったり、事故だってあるわけです。
皆が皆、殺意を持って殺人にはしったわけではないでしょうね…。
そして、殺されなければ生きていたはずのそのヒトの人生に対して、何が報いとなるのでしょう…?
死刑がそんなにいけないものであったなら、なぜほぼ世界中に有史からその制度があったのでしょうか?
まっぺんさんのいうとおり、生きる権利は確かに個人にあると思います。
しかし、死ぬ権利については必ずしもそうではないケースが多いと感じています。
自殺ならいいのか?って話にもなっちゃう気もしますし。
あうせ♪には死刑制度の是非についてはまだ自分でも考えがまとまっていませんので、つい思ったことを書いてしまいました。
ヒトがヒトを裁き、命までをその手中にしてしまえる。
それが正か誤か、善か悪かあうせ♪には一生わからない問題かもしれないです。
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