四トロ同窓会二次会 2001年1月1日〜3日
まじめな議論・主張・あそび・ぐち・何でも!自由に投稿してください。投稿内容は過去ログに保存します。「赤色土竜新聞」に掲載される場合もあります。
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↓三角公園 投稿者:臨夏 投稿日:11月 3日(土)23時10分29秒
です。しっぱいしっぱい。
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まっぺんさん> 投稿者:臨夏 投稿日:11月 3日(土)23時09分43秒
業務、ご苦労様です〜!
わたしの投稿のうち、「3年前」と、「失業か、、」は、同一内容ですので、
「失業か」のほうも消してください。
ややこしいてすみません(^^;
釜で書き忘れてましたが、このころ、友人と釜をぶらついてたら、三角講演にチョー=バクさんを見かけました。
友人はチョバクを知らないらしく、なんかええコート着てはるのを見て、「ロシア文学かなんかのやつやで」と、無責任な論評してました。
そいつもいまでは某大学でマル経教えてます。
チョー=バクさんの歌は何遍か近くで聞きました。
最近は、社会復帰して、友人たちには遅れてますが、やうやく、大学院に接近し始めてます。人生最楽の時代というても過言ではないです(^^)
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いまも投稿したんですが、 投稿者:臨夏 投稿日:11月 3日(土)22時46分38秒
エラーがでました。
昨日は、なんか入ってみたいなんで、また後で見てみます。
まっぺんさんとこと相性悪うなったんかな〜〜。。
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大衆的話題 投稿者:臨夏 投稿日:11月 3日(土)22時44分18秒
北さん>
精神関係の病気もちのかたは、ほんま多いです!
いうてみると、「わしもわしも」ちゅう感じで、出会います。
わたしは、16年前発病して、高校のころお年玉持って家出して、東京にいって、自分を神武天皇の直系の子孫と思い込み、皇居にはいって天皇と話しをしようとして、半蔵門でつかまりました。
トロツキストらしくないですが、病気ということでお許しください(^^)(笑)
その後、病院にはいったり、でたり、また入ったりして、いまは薬さえ飲んでたら、平気なんですが、学者志望のくせに発想が止まる薬を飲んでるんで、悲しいです。
病気のころは、ばりばり考えてたんですが。
考えが止まらなくなる「連続思考」になって死にそうになったので、懲りて飲んでます。
菊さん>
ほんまお懐かしい(^^)
意味ありげなレスでしたが、コンピューターは、本来的には、ココロのなかの仕事を、外部に移す働きがあると思ってます。(そして、ココロの社会共有化も)。
でもかえって辛くなるのは資本主義が疎外するからでしょうか(笑)
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全然関係なくてすいませんが、
仕事場で日本の新聞見たんですが、河内の東大阪市に「司馬遼太郎記念館」てできたそうですね。
わたしは、公然たる司馬ファンなので、いってみたいなあ〜。
菊さんのはじめの書き込みのときは、「だまとっこうか」と思てたんですが、いうてみるもので、まっぺんさんも同好のかたのようでした(笑)
そのうち、フィレンツェに「塩野記念館」は、できへんやろうな。。
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話はそれますが、北仙台さん、ありがとうございました。 投稿者:菊 投稿日:11月 3日(土)21時58分40秒
何か無理に言わせたみたいで、申し訳ないです。
私はここで総括論議をしている政治組織の経験があって、それ以降かちっとした組織では働いたり、活動したりしないと決めて、現在まで来ています。
ですから仕事の現場で北さんのような経験はないのですが、この前もここでちらっと書いた安保ブンドの島さんは東京の陽和病院院長で在職中、労働組合の争議との板挟みになって、胃かいようを発病、胃腸を悪くしてそれが最期まで影響していました。
北さんの意見を読むと、ものすごくマジメだなあ、と思います。そして、自分のことを考えるとそこまで自分を問いつめるというか、内省的ではないなあ、と思います。私の場合、今の社会参加のあり方は無理をしない、できること、自分がやりたいと思うことを確かめ、確実にやる。こんな感じでしょうか。
次のサイトは私の関わっているボランティアスペースです。ここでパソコンクラブをやっています。この3年ほどなのですが、ここで知的なハンディを持った子供たち、引きこもりなど人との関係がうまく作れない若者たち、そして様々なきっかけで精神障害を負った人たちの世界を知り、色々なつき合いが生まれてました。それは私にとって、これからの人生を考える上で非常に貴重な経験となっています。
http://www.h3.dion.ne.jp/~nobiraka/
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わかりました、菊さん 投稿者:土日のトロツキスト 投稿日:11月 3日(土)21時46分27秒
了解しました、菊さん。そういう要約のしかたのほうが分かりやすい。というか、私が真意をちゃんととらえられなかったのですね。ごめんなさい。
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土日さん、私は人脈組織ということを今回、いいたかったのではないのです。 投稿者:菊 投稿日:11月 3日(土)21時36分18秒
確かに、人脈論が全面に出たキライがありますが、
私が今回一番言いたかったことは、
@JRCLの組織のされ方−明示的な基準を持つべきだった、当時でもヨーロッパやアメリカの組織はメンバーへの組織化の基準が違っていたように思う。
A議論の仕方の問題、の2つです。
人脈の話は前回の続きで、つい書いてしまいました。
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オルタナティブ 投稿者:土日のトロツキスト 投稿日:11月 3日(土)18時34分59秒
まっぺんさんから正論が帰って来ました。
女性解放グループについては、私もその後が知りたいと思います。
アメリカに在住しているときに、英文機関紙で日本の第四インター系女性グループの主張が掲載されていたような記憶がありますが、ちょっと定かではありません。
いつかアジア連帯会議のサイトで、組織内女性差別問題を回顧しての金子さちさんの論文の紹介がありました。本そのものを探しているのですがなかなか見つけられずにいます。
しかし彼女たちが『くちで批判していた』というのはちょっとちがうような気もします。どちらかというと、JRCL内の組織討論を継続して自分たち自身が消耗していくのを避けたのではないのでしょうか。おのおのが、女性の運動に身をおき、闘いながら、必死に男組織に挑んでいたのではと思います。ネット上でも彼女らの名前を発見し、活躍を垣間見ることができます。「どうして男組織の面倒を私たちがみなきゃいけないのよ!男たちの問題なんだから、まず自分たちで総括しなさいよ」という声が聞こえてきそうです。彼女たちは、日本支部の再建として自分たちの闘いを帰結させようとせず、外に向かって新しい戦線と団結を求めていったように推測しています。
このあたりは私にとってもトラウマの一部なので大変書きづらい。
菊さんへ、
人脈ではなくて、トロツキー理論と心中しようとしていたジャコバンも結構いたと思います。そういう人間には、トロツキー理論(自分たちが信じてきた)の有効性みたいなものこそ死活問題だったようにも思います。で話は、また『情勢・任務』になります。
今回は『オルタナティブ』についてです。
まっぺんさんが、PD派の学習会で、当時すでにオルタナティブが論議されていたと書かれています。
私はほぼ化石のような人間なので、オルタナティブについてよく理解できないところがあります。知るところでは以下のようになります。間違っていれば、批判・訂正してください。
地域運動の現場などで、例えば行政の開発などの問題に直面し、その開発に反対するとき、『じゃ、どうすればいいの』という住民の問いがある。この問いに対して、積極的に実現可能な代替案(オルタナティブ)を提起して実現することで運動の次の段階を模索していく手法ではないかと思うのですが。従来型の左翼だと、その問題はプロ独によってしか解決できないから、わがxx派に結集せよ(最大限綱領主義)というか、無償国有化労働者管理(過渡的綱領)に類する事を言うか、なにも提起せずに闘争主体におぶさってその手足になる。という手法をとっていましたよね。こうした左翼党派型の論理は、プロレタリア革命の現実性があり、かつ近い将来の社会主義建設で問題の解決が可能だということが前提になります。ところが、革命の現実性も集産型計画経済による解決もどちらも疑わしいということが明かになった。
そこで運動の現場からは、そんな夢を押し付けることはやめて、実現可能な、行政の論理とシステムに代置して実現可能なシステムを不断に提起してつくりあげていこうということになる。これがオルタナティブの手法で、黒寛的に言えば問題の解決を社会主義の河岸に置くのではなく『現在的場所的に実現していく』姿勢ということになるのではないか。
たとえば、原発に対置して太陽エネルギー発電を運動参加者の自宅で行う。共同組合運動を市場ルートに対置する。途上国生産者にはフェアトレードを不等価交換に対置するなどなど。これは、『社会主義』といういまや観念上のシステムとしてではなくて、実に個別的で実践的である。それを実現していくうえで、利害調節や人々の連合の様式などの新しい課題が問題になってくれば、それをまた次の代替システムの提案の中で解決していく。
将来世界がどういう方向に進むか、現段階では不明だ。経済システムや社会システムは複雑系そのもで予測不可能性が基本的特徴なんだから、あるべき”将来の社会主義”を観念的に語るのはもう止めようというのが、ここでは言外に含まれている。だから、『かけはし』が良く言う『社会主義的オルタナティブ』は論理矛盾に思える。
戦後共産主義運動史と対応させると、構造改革主義にある面で似ている。構造改革主義が現場の対案ではなくて、おもに政策的対案や制度圏内の提案にとどまる傾向だったので、今日の民衆レベルの白兵戦とはちょっと意義がちがうが。『現代の理論』グループや共労党系が比較的オルタナティブな取り組みが早かったのは必然性があるのでは。グラムシやトリアッティはオルタナティブ理論に類すること昔から言ってたのかな?
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Re:日本支部再建協議 投稿者:まっぺん 投稿日:11月 3日(土)17時10分13秒
政治情勢の流動の中でそれに介入し大衆の運動を発展させるための政治党派の存在は必要であると思います。それがトロツキスト党でなければならないかどうか、はそれぞれ違う意見があるだろうし、複数であってもいっこうに構わないと思います。
しかし現在の日本のトロツキストにその資格があるかどうかが、まず問題とされます。さしあたって新時代社と労働者の力派の両者は「シンパ」として公式に承認されていますが、そのふたつが協議して一緒になれば日本支部ができあがるというものではありません。
なぜなら、第四インターナショナルから日本支部組織が除籍された理由は、組織から女性が脱退し男だけの組織となったからです。そのような組織に女性解放の運動が担えるはずがありません。また、その経緯から考えても元女性メンバーの存在を無視して「日本支部」再建をめざすなどまったく欺瞞です。
その為にも女性達は何を考えているのか、知りたいところです。彼女たちは「おとこ組織」であった当時の組織を糾弾し、それに答える事のできない欺瞞に耐えかねて出ていきました。しかし、そのまま彼女たちは一方的に「おとこを批判する」地点でとどまっているのでしょうか? それは彼女たち自身にとっても不幸なことなのではないでしょうか? 私は、むしろ女性元メンバー達が独自に結集し「日本支部準備会」を作るべきではないかと考えます。「男をくちで批判する」立場から「行動で批判を示す」事を望みます。
いっそ新時代社の主要ポストをぜんぶ女たちで占めちゃえ!などと夢想するのですが・・・
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菊さんへ >再び取り組もう 投稿者:北(仙台) 投稿日:11月 3日(土)16時01分02秒
過去はいろいろありますが・・・・自分の胸のつっかえを取り去りたい。
ひとつはあのころ(25年前後前)の運動が破産していることを考えても
その運動から自分一人で消耗して、逃げ去ったこと。
もう一つは、そのころの私達の運動が結果的に以降の左翼運動の衰退を誘ってしまったこと。
最後に、日和ったが故それ以降の社会運動にも参加出来ず、現在の状況を作り出して
しまったこと(そりゃ買い被りだよって言われますね 笑)。
最大の理由は、先程も書きましたが、私自身が資本の手先となって仲間の労働者を
裏切り続けてきたこと。決して許される訳はないけど、精神を病み退職して初めてわかった。
来年は50歳、日本男性の平均寿命を考えると、20数年の間に何ができるだろうか?
労働者、資本のどちらにもつききれなかった中途半端な私のこころのリハビリは続きます。
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確かに。 投稿者:菊 投稿日:11月 3日(土)15時55分41秒
うーーん、人物史観か。なるほど。確かに人の話から入ったので回顧もその部分が中心になって、そういう趣はありますね。それから、書き方が「清算主義」的になっています。そこはぜひ、異論反論をお待ちしています。
それから私の最近の意識が「情勢・任務」みたいな発想から遠ざかっていることもあって、土日のトロツキストさんが今朝、前回書かれていたような問題意識からはズレていると思います。それは今回の私のテーマにも入っていませんので、別に考えてみたいと思っています。
次回は人の話から離れて、書いてみたいと思っています。
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よくわかる、でもちょっと人物史観? 投稿者:土日のトロツキスト 投稿日:11月 3日(土)15時07分18秒
菊さんが書かれていることについて。
なるほど。なるほど。旧新時代社=ミニ中南海の実態がわかるような気がします。
「そこで老人は、自らの後継者であるべきXに怒りをぶつけある決断をした。彼を支配していたのは恐怖だった。」みたいな。
1.組織を貫いていたのは「人脈」であり「親分・子分関係」だったというのは同意できますが、「だけであった」というのは言い過ぎな気がします。日本のトロツキズム運動というのは、急進主義的歪曲があったかもしれませんが、それなりの歴史的役割を果たしたのではないでしょうか。菊さんの分析をすすめると、『いい人がいい人たる条件とか、野蛮な人がいかに野蛮な人たりつづけるか』という心理学的分析が結論になっちゃいませんか?
2.菊さんの人脈分析によると、今野氏グループ、織田氏グループが組織的力を有しており、酒井氏グループはグループとして体をなしておらず、酒井氏は国際書記局との窓口か、イデオロギー的シンボルとして奉られているにすぎなかった。とも読めます。しかし80年代後半の新時代社分裂の際には、主流を形成した(あるいは再び奉られた)のは酒井氏のほうではなかったか。とすると、分派闘争の際には旧人脈とは別の再編軸や力学が働いたのではないかとも思います。とくに若手政治局員と菊さんが書いたD氏、H氏が組織防衛という観点から独自のイニシアチブを発揮した可能性もよみとれるのですが。だとするとむしろ、「組織防衛」のための新時代社共同体がこの過程で生まれ、無責任な前世代との世代間攻防に発展したという図式も読み取れますが、いかがでしょうか。
3.さらに人物史観的言辞を付け加えれば、8回大会議案の中心部を起草したK氏と9回大会議案を起草した(と聞かされていた)(もう一人の)K氏のその後は、「親分-子分」関係を分析する上で感慨深いものがあります。ご両人とも酒井氏直系(たぶん)の新世代であり、理論的な洞察力に優れていたが、前面に立ちすぎたが故に周りから集中砲火を浴び撤退されてしまった。(もう一人の)K氏は、『労働者の力』の方でお名前を拝見し、再び卓抜した理論的能力を発揮されていることを喜ぶと同時に、うーん人脈とは面妖なものだと改めて思いました。
4.親分世代が引退され遺恨がうすれたなら、今改めて、日本トロツキズム組織の再建協議を始めたらどうなりますかね。有意義な総括論議がなされるのでしょうか。
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PD派の学習会 投稿者:まっぺん 投稿日:11月 3日(土)15時04分45秒
20年も前のことでかなり忘れていますが、あらたなオルタナティブの模索をテーマとしていたと思います。
この間「かけはし」に連載されている15回世界大会議案文書では、マイノリティの問題と環境問題が重要な課題としてとりあげられていますが、20〜30年前には、すでにそうした問題は一般に重要なものとしてうけとめられてきていました。われわれ、というよりも左翼は一般的にこの問題への取り組みは立ち後れていて、むしろ民間のNGO団体のほうが先進的であったと思います。そうした運動への重要性を問題にしていた点でPD派は他の分派とちがっていた、といえるんじゃないかなぁ?
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ぎょーむれんらく\(^o^)/ 投稿者:まっぺん 投稿日:11月 3日(土)14時52分45秒
臨夏さんの投稿、重複しているものは消しました。
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臨夏さん、パソコンの具合が悪いようで。 投稿者:菊 投稿日:11月 3日(土)12時25分26秒
おひさしぶりです。PCの具合が悪いと大変。いつからこんな事になってしまったんだろうと、思いませんか?
入谷さん、私は玲恩はやめた方がいいと思う。だって、自分より長く生きるんだよ。自分が死ぬ時まで、レオンにつきあうの?
そういえば、北さんは西の方のご出身でしたね。
私は土日のトロツキストさんやまっぺんさんとのやり取りでおわかりのように、89年から99年頃まで10年くらいの「社会参加の空白期」があります。この2−3年、いろいろ考えて自分で出来る範囲でやり始めていますが。
北さんもそんな感じなのでしょうか?もしそうだとすれば、どうして「再び取り組もう」という気持ちになったのでしょうか?無理のない範囲で、もしよかったらお聞かせいただけるとうれしいのですが。
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土日のトロツキストさん、まっぺんさんに触発されて(2−3) 投稿者:菊 投稿日:11月 3日(土)11時21分27秒
(2−2より続く)
先日書いたKさん、Sさんはこうした構造をすっかり見通していました。私は何のきっかけで彼らと意見交換をするようになったのか忘れてしましたが、Kさんは「今野は、織田は、酒井は・・」と私の感覚的な意見を冷静な分析で裏付けてくれました。Sさんも「あいつらは・・」と独立独歩でした。Wさんは政治局のメンバーの個人的な生活や性格まで見通した上で、卑近ないい方でわかりやすく分析し、それはしごく的を得ていました。
私はそうした人たちが専従の中にいること自身が大変不思議でしたし、どうしてこのように鋭い分析と方針を考えている人たちが、組織の中心でないのだろうかと残念に思ったことを今でも思い出します。
あと1人、変わらなかったのが、今も新時代社にいるKさん。彼はものすごいインテリなので、組織の乱暴な意見には組みしない。といって、私の意見にも同意してくれることがありませんでしたが。その意味では、全共闘世代のメンバーの方が感覚的には、総じて親近感があります。ただ60年安保世代でも「敬愛している」のがHさん。彼の発想は面白かった。今野、織田、酒井・・・から独立していたし、でもやり始める事業がことごとくうまくいかない。ひょうひょうとしていて、私にも暖かかった。(ちょっと脱線しました)
●分派闘争の推移についての私見
すでに述べたとおり、私は80年代半ばから後半の分派闘争は経験していません。前回土日のトロツキストさんが、分派闘争が「情勢認識や戦略」を巡るモノにならなかったことが残念と書いておられますが、あえていわせてもらえば、上のような組織構造・水準でしかも嫌気のさしたメンバーが大分離脱した後でやっているので、期待されるような議論にはなるはずもないと思うのです。
女性グループは別にして、おそらくPD派以外のグループは「人脈」と「お互いの個人的感情」を基本に、あとはそれぞれのグループの正統性や他との違いを際だたせるために、文書を作成したのではないかと思います。それは「ためにする」議論に他ならないだろうと考えています。
【3.日本型意識構造はしばらく先に書きます】
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土日のトロツキストさん、まっぺんさんに触発されて(2−2) 投稿者:菊 投稿日:11月 3日(土)11時19分27秒
長くなってしまってごめんなさい。昔の誰かの論文のようになってはマズイ!!
●私自身の主体的責任(その構造との関わり、自覚・無自覚さの度合い)私がSにオルグされたのは大分早かった。多分、76年頃ではないかと思います。学生インターに入って、3−4年目ですから、非常に早かった。どうしてそんな早い時期にオルグされたのだろうか?
当時、私は主観的には日本支部がプロレタリア革命の主体となると位置付け、そこで職業革命家を目指していたわけだから、周りの学生インター=JCYメンバーより早くSになれたのは自分の革命家としての「資質」が認められたのだと思っていました。今思えば、「傲慢」な意識であきれ果てますが、そう信じ込んでいた。そして学生活動家から専従への道を一直線に歩んでいきました。JCYの書記長になるまでは。
では、なぜオルグされたのか?これは私の所属している地区のJR専従が東北大出身のWさんだったということが大きく関係していると思います。そして私の出身大学。つまり、一生懸命活動しているし、学生運動の伝統ある大学の出身であるし、宮城グループの若手として、Sにオルグしよう。事実私は、織田グループより、宮城グループの現実感覚に親近感を持っていましたから、80年頃までずっと宮城グループ−JCY・D、Oさんに近い動きをしていたと思います。そこにおいては、上に書いたような「組織の実態」には全く無自覚だった。ですから、組織を離脱していくメンバーも結構冷たく見下していました。
もうひとつは政治的な駆け引き、権力志向を全面的ではないにしても肯定していました。早稲田の雄弁会やマンモス私大のノンセクトがメンバーとなり、彼らがJCY学生組織の中心になっていった時期があり、そうした大学での勢力拡大には、権謀術策が必要でした。。彼らをオルグした中心は私ですが、その「権謀術策」や「権力志向」について、私も含めて積極的に利用していました。もとよりそうしたやり方に反対する(思想としてのトロツキー指向とでもいうような)学生メンバーもいたので、常に議論が対立することが多かったですが。これは結構普遍的なテーマだと思うし、JRCL―JCYを超えて、今でも議論されるべき問題だと思っています。
「これはおかしいのでは」とはじめて考えたのは、前回書いたPD派のルーツ時代前後です。新時代社の大衆運動ビューローの会議で、異論を述べはじめた。「三里塚を中心に・・」という大衆運動の進め方に対する疑問だったと思います。そこで政治局とJCYを実質的に動かしていた青対(青年運動対策)D氏は、九州のN君を呼び寄せ、コントロールの利かなくなった私の替わりにしようとした。ところがそのN君も最初こそ「関東の学生は難しいことばっかりいいよるけん」と「関東征伐」に意気込んでいたものの、アッという間に私と同じような意見になってしまって、「ミイラ取りがミイラになった」(笑)
そこまでの段階で私はすっかり消耗していて、自分の意見で他人を納得させ、そして一緒に行動しようという提案をすることはとても出来なかった。ともかく組織とは独立させた自分の意見・考えを表明するので精一杯。それまで「私」という個人としての独立した意識で物事を考えるのではなくて、つねに「我々」だったわけです。それを「我」にしていくのには当時の自分には大変な努力と思考方法の転換が必要だったのです。それでも自分の意見表明をしただけでも、周囲の反応はすっかり変わりました。専従連中のほとんどの人が私と口を利かなくなった。会議でも感情的な反発を受けるようになった。地区の官公労労働者メンバーからの反発が特にきつかったのですが、その発言の裏にはD氏の影がハッキリ見て取れました。「仕方ないなあ」「書記長辞めるまでの辛抱だ」と思っていましたが。
(2−3に続く)
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土日のトロツキストさん、まっぺんさんに触発されて(2−1) 投稿者:菊 投稿日:11月 3日(土)11時16分11秒
細切れですが先日の続きで(2)です。先日のまっぺんさんの書き込みで、まっぺんさんがPD派の学習会に参加していたとは初めて知りました。
土日のトロツキストさん、私もこの文書はレジュメを作ってから原稿として書いて載せているので、時間がかかります。ですから、1週間に1−2回のやり取りがせいぜいです。そんなペースでは、数ヶ月かかってしまうかもしれませんが。
このところ、土日も働くことが多く、パソコンとは朝から晩までにらめっこしていますが、「組織の総括」に関わる内容なので、気分転換に書き込
みというわけにもいきません。
そんなわけで、土日さんの最新の書き込みとはずれていることもあるか思いますが、お許し下さい。
前回少し自分に甘く書いたのですが、
PD派のルーツの集まりを持つ前からすっかり「やる気」をなくしてしまって、縮こまっていました。そんなこともあって、分裂後の論争にも加わらなかったように思います。
では、今回は、次のテーマで書いてみたいと思います。
2.私自身の責任−分派闘争の推移と関連して
(前回書ききれなかったので、内容を少し変えた)
●当時の組織の実情
まず、組織の実情から考えてみます。JCYへの加盟はメンバーにとって(強烈にオルグされたにせよ)、自発的意志での結集だったろうと思います。問題はS=JRCLの組織化です。Sへのオルグに明示された統一的な基準はありませんでした。「もうそろそろ、オルグしてもいいだろう」−これです。その基準が明示されないどころか、非常に恣意的だったこと、これが結局、JRCLの「親分子分構造」をJCYより強力に作り上げたのだろうと思います。当時の政治局員Kが、ある大衆運動の戦線の責任者Sさんに、「なぜ、あいつをSにしたんだ」と文句を言っていた。SさんはKに何を言われても自分の考えを曲げるような人ではないので、自分たちの細胞の決定だといってツッパリ続けた。私はそれを横で見ていて、Sさんはエライなあと感心した。そんな横車がまかり通っていたわけです。Sさんのような人は滅多にいなかったから、問題になりそうだと判断してそんな機嫌を損ねるようなことはほとんどの人はやらなかった。これは織田氏を中心とするグループでも今野氏を中心とするグループ、そして70年以降の学生出身グループでも同じだろうと思います。
二つ目に組織の議論水準の実態について、簡単に書いてみましょう。私は80年頃(77−8年頃からかも)からJRCLの中央委員会に参加していました。大体2日ないし3日間会議をやるのですが、これが会議としての体をなしていない。例えば酒井与七氏が膨大な青焼きレジュメにもとづいて、世界情勢・日本情勢と任務みたいなものを半日以上提案したりします。ほとんどの人が寝ている。寝る方も寝る方だけれど、提案する方も提案する方です。そして挙げ句の果てに、訳のわからないやり取りをほんの少しして終わる。全議題が同じようなやり取りではないけれど、似たようなパターンが多かった。つまり議論が成立していないのです。
これは後知恵になるけれど、私は大企業の会議に参加するようになって、正直言ってその「賢さ」に驚きました。ミーティングの位置づけを先ずハッキリさせて時間を決めてから、議論をする。ブレーンストーミング、プレゼンテーション、報告、そして打ち合わせ・・・・。
ブレーンストーミングでも、何のためかということをハッキリさせて議論する。例えば、認識を一致させる。あるいは自分がわからないことは恥ずかしいことではなくて、そこから議論が深まるという前提で、わからないならわからないとハッキリ言うようにする。
時代は大分下がりますが、こうしたやり方の一端でも定着していれば、組織は合同当時のレベルを超えて、新しい認識と団結の質を作り出せる基盤を生み出していたかもしれない。少なくとも、事態はもう少し違っていただろうと思います。
話は少しそれましたが、「議論のしかた」「意見のやりとりのしかた」が組織的に根付いていないのです。「どうして議論が活発にならないのか。最近のJCYは情けない」と私に向かっていった政治局メンバーがいましたが、何のことはない、指導部・トップからまともな議論が出来ない組織だったのだろうと思います。
(2−2に続く)
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イレギュラーず さん、菊 さん、臨夏さん 投稿者:北(仙台) 投稿日:11月 3日(土)09時27分56秒
>イレギュラーず さん
同じパブテスト系ですが、ホサナ教会ではありません。パブテスト仙台基督教会です。
48号と旧4号との交差点にあります。(えらそうに言ってますがホサナ教会は知らないです^^;)
>菊さん
市民運動、労働運動が元気にならない限り、この国の未来は暗いとおもいます。
仙台みたいに寒い所でのホームレスの人たちは大変です。
それも「寄せ場」がないので就労にも限界があります。手配師が一人一人声をかけているそうなのですが、ご多分にもれず相当悪質なのがいて、賃金未払いで飯場をおいだすなんてこともあります(最近では長町モールのムービックス建設の際にあったとのことです)。
>臨夏さん
懐かしいですね。飛田はよく父親に連れられて焼き肉を食べに行きました。
60年代の飛田は「昔」の面影が残っていて、通りに飛び出すようにして作られた半分屋台の焼き肉屋が軒を連なれていました。そこに出入りする人たちは汗まみれで、いかにも労働者といったひとが多いと子供ながらに思ったものです。
しかし、高校・大学と釜に少し係わるようになって、その飛田も釜の住人
にとっては贅沢なものと知りました。
臨夏さん、私も病気持ちです。前の会社で人事担当管理職の立場と、仲間を
整理する無念さの板挟みになり「発症」してしまいました。カウンセリングでは
ずいぶん前の「逃亡」が原因しているのではないかといわれました。
いま、自分の言いたいこと(間違っているかも知れない)を堂々と言う
「こころのリハビリ」をしています(運動としては無責任な立場かもしれ
ませんが)。
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厨房なのか? 投稿者:霧島錬太郎 投稿日:11月 3日(土)09時20分34秒
うーむ私が来ると更に荒れるとは心外だな〜
労働者が強くあれる国って今の所日本なんですかね?
なんとなく資本家が政府によって守られながら国民が得るべきものを搾取してるようにも見れますし,その反面,労働者サイトでは主張をしやすくマスコミより注目され社会問題として取り上げられやすくも感じます。
むろんまだまだではありますが世界的に見てどんなものでしょう
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分派闘争その後 投稿者:土日のトロツキスト 投稿日:11月 3日(土)01時23分27秒
だいぶ書き込みが遅れてしまいました。
いろいろ考えていたのです。ごめんなさい。
まっぺんさん、PD派の学習会に参加されていたんですね。どんな内容でした?
菊さんの久しぶりの「全面展開」が聞けそうですね。楽しみにしてます。
菊さんの、『「戦後共産党的手法」と「戦後労働組合運動的手法」から自由でなかった。左翼全体がそうであった』というのは同感です。企業社会の派閥抗争・学閥なども同根で、ブルジョア社会の意識、文化がそのまま民衆の意識を形成してしまうという実例でしょう。
それを変革する制度的筋道を組織内に作って、機能させるというのが必須条件だった。あと、親分-子分関係を言うならば、親分のボス交や本音とたてまえの使い分けを許し、かつ親分から学んでしまった子分たちもずいぶんだらしないと思う。で、子分の子分たちはというと、あっ、私のことか。
菊さんが取り上げる予定の項目以外では、私は時代認識と革命戦略の問題があると思います。これは、運動のなかで生まれて来る性格のもので観念的に論じても不毛であると思われるかもしれません。が、この問題にある程度の決着をつけておかないと、私にとってのJRCLは消化されていかないのです。
70年代前後のJRCL(あるいは新左翼運動)の存在意義は、ベトナム革命との合流を意識していた点にあると考えます。60年代の3者合同が、基本的には第四インターの早産・死産論を背景にパブロ・ボサダス主義的観点からなされたという点、ベトナムから開始するであろう反帝永久革命の進展に自らの未来を託していた点は特筆すべきでしょう(とくに『ジャコバン』の私には)。しかし、カンボジアのクメール・ルージュ政権の悲劇(篠田節子『弥勒』読みました?)、労働者国家間戦争は事態がそう単線的ではないということを明らかにしました。
さらに、90年を前後する労働者国家の相次ぐ崩壊は、とくに民衆運動を媒介としていた点で私にとって衝撃でした。私が信じていた旧来のレーニン・トロツキ−主義の観点からは理解を超えた現象でした。
当時私は、『ペレストロイカや中国民主化運動は、労働者国家の政治革命の開始点であり、近い将来トロツキーが予測したように、暴力的に官僚体制は打倒され、労働者農民のソビエト、評議会が再組織されそこに権力が移行するだろう。その先駆的役割をポーランドが果たすだろう。』と考えていました。89年当時、『労働者の力』で織田氏も同様の記述をしていた記憶があります。ところが、ソ連・東欧圏では、自壊的に官僚体制ともども集権的計画経済は崩壊し、反革命武装蜂起なしに資本主義経済体制が復活してしまいました。
他方、いわゆる新植民地諸国として定義されるはずの後進国は、二極に分解し、韓国、台湾、タイなどでは、驚異の経済成長と民族資本の伸長がおこりました。またこれらの諸国において独裁体制打倒は、マルクス主義政党の力によらず行われ、反帝永久革命の道筋もとりませんでした。
こうした時代の流れのなかで、マルクス・レーニン・トロツキー主義に代わる(むろんその卓越性を継承しながら)新しい理論と戦略が求められていた。あるいはそもそも明示的なイデオロギーに支えられた前衛組織はすでに存在価値を消失しはじめたとも考えられます。
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3年前 投稿者:臨夏 投稿日:11月 2日(金)23時37分41秒
いまはわたしは外国で楽しくやってますが、
数年まえまで、分裂病が終わったあと、反動で鬱病になり、その期間無職で、
毎日びくびくしながら暮してました。
雀の涙ほどの塾講師の収入のほか、家族にまあまあ余裕があったので、実家にもどり、食わしてもらってました。
そういうなかで、「ああ、無宿になるのだけはかんべんしてくれえ」と、貧困妄想に陥り、みじめったらしかったです。
わたしは過去何回か、中華区に入りかけたことがあるのですが、このときは、「ああ、入らんでよかった」と、ココロから思ってました(笑)(新左翼やと、益々仕事が無いように思って、です)。
釜ヶ崎とか飛田にいくのが好きやったので、このころも何回か尋ねてましたが、同情どころのさわぎではなく、「せめてこうはなりとうはない」と思いながらみてました。
釜の越冬斗争に参加しようともしましたが、また分裂があやしくなってきたので、現地で説明だけ聞いて帰ってきたのもこのころかな。
やっぱり、越冬くらい、手伝いたかったな。
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お子さんの名前 投稿者:黎 投稿日:11月 2日(金)23時36分05秒
>入谷さん
レオン強行を断固支持します。
私は、はじめマルクスから丸久にしようとしたら、
「車のマルク」みたいでダメと周りから強固に反対されました。
(田舎の中古車やさんです)
でも、結局レーニンにあやかった名前を付けましたが。
初志を貫徹できなかった私は、入谷さんに希望を託します。
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失業か、、 投稿者:臨夏 投稿日:11月 2日(金)23時35分08秒
いまはわたしは外国で楽しくやってますが、
数年まえまで、分裂病が終わったあと、反動で鬱病になり、その期間無職で、
毎日びくびくしながら暮してました。
雀の涙ほどの塾講師の収入のほか、家族にまあまあ余裕があったので、実家にもどり、食わしてもらってまし 。資本、経営が責任をとらずすべてが労働者にしわ寄せされている。こういうこ ニ本つなぐサイト。私たちのサイトで英語の勉強
のためにチャット、メッセージ、メー 法案」が通過しましたが、これ ノw2u.biglobe.ne.jp/~Trotsky/29/syohyou.html
陳独秀に対す 驍ウによれば、コムスンは「介護」の美名にかくれて相当ひど
い事をやっているようですね。
社会保険行政が破綻の危機に瀕 +ヨ俘mJjァソ14t{+ヲチ3F棄キ~^ラ_#w%ョヒv<ニ;qhP