四トロ同窓会二次会 1999年12月9日〜11日
REDMOLEPARTY/THEFOURTHINTERNATIONALFANCLUB
------------------------------------------------------------------------
NHK「どのようにホロコーストと向き合うか?」 投稿者:ザーカイ 投稿日:12月11日(土)23時14分46秒
NHK「どのようにホロコーストと向き合うか?」ドイツ「ヴァルザーVSブービス論争」途中から見たが以下のような感じでした。
―――――――――――――――――――――――――――――――
2000年(統一10周年)に向けドイツでは首都ベルリンにホロコースト博物館が建設されている。そんな最中、作家ヴァルザーは出版協会「平和賞」の記念講演で「アウシュツビッツの手段化」と語った。これに端を発し、この論争がおこった。 当然に、左翼やユダヤ人は「ユダヤ人はアウシュビッツをネタに物質的要求をしている」ということを指していると思った。しかし、ヴァルザーは「アウシュビッツの手段化とは、ユダヤ人などが言う意味でも、ホロコースト博物館建設でもなく、他国の『東西分裂はホロコーストの罰だ』というような発言を指している。」「きまった言葉で、きまった形で過去と向き合うのではなく、統一国家ドイツが他のヨーロッパと同じような国だと言うことからホロコーストと向き合うべき」と主張。 しかし、彼の主張には一種のナショナリズムの香りがしているため、保守層に受け入れられることに。そして、ユダヤ人・左翼には批判されることになった。しかし皮肉なことに、ドイツはユーゴ内戦時、「アウシュビッツの手段化」を行うことに。つまり、大統領いわく「我々ドイツはホロコーストから学んだ。そして、今ユーゴでホロコーストが行われている」と、戦後初めて国外に兵を送ることになった。
―――――――――――――――――――――――――――――
こんな感じの話。途中からなので、ブービスの主張はわからないが、きっとユダヤ人と同じものだったのだろう。
「相手(ユダヤ人)を傷つけまいと、きまりきった言葉・切り口ばかりではまずい。思考停止だ。わたしも他のヨーロッパと同じ国になりたい。しかしながら、ヴァルザーは『良心の問題』と、社会からホロコーストのことを切り離す発言がある。これには反対。」(ユダヤ中央協議会 談) しかし、実際にドイツではホロコーストについてはテレビ等で特集組まれたりするが、紋切り型で、戦後世代には関わりにくい言論思想状況らしい。また、物言えば唇寒しでもあるようで、用意に語れないみたい。そのためまた紋切り型になるらしい。思考の悪循環。
「公開の場で、議論されることに意義がある」と、新聞社の人が言っていたので、いままでそれさえなかったようだ。 日本のように大臣とかの「馬鹿げた発言のおかげ(?)」で公開の場で議論されることはいかにも寂しい言論思想状況だが、ドイツのように注意深すぎて、国民が内向的になって語らず、ネオナチのような形でしか「ナショナリズムの本音」を言えないのも問題だね。 いまだにヨーロッパで「危険国」扱いされりゃア、これだけ国際化した今、不都合も多いし、国外でいやな経験をする個人も多いだろう。 国民国家の形態を取る現代で、ナショナリズムがあるのは当たり前。それはそれで語らせないと国民が自己中毒を起こす。ナショナリズムの風潮も困るが、語らせず偏狭なものになることも怖い。
フランクフルト学派のハーバーマスもユーゴ爆撃を支持していることからも、過去と向き合うことと、今を語ること、そして未来を語ることの難しさを感じた。 その一方で旧態依然でいられる人をうらやましくも思ったりするが・・・。
------------------------------------------------------------------------
初めて「洗脳」の言葉をきいた時 投稿者:まっぺん 投稿日:12月11日(土)21時51分59秒
ザーカイさんがはじめてこの言葉をきいたのは「オカルト」集団がらみだったそうですが、私は違います。「中国共産党」と関連して、でした。
まだ無邪気なこども時代、まっぺんは短波放送を聞くのが好きで夜になると、ラジオのチャンネルをゆっくり回しながら、世界中から聞こえてくる声に耳をそばだてていました。モスクワ放送、北京放送、ピョンヤン放送などは比較的よく聞こえて面白い。タモリが「北京放送」のパロディーをやるより前のことです。
東方紅のメロディーにのって「日本の同志のみなさん、友人のみなさん。こちらは北京放送局です」とはじまる日本語放送。面白いのでよく聞いていた。ひやかし半分にハガキで投書をした事もある。
「中華人民共和国北京放送局」・・・・それだけで届く。
何日か過ぎたあと。とつぜん父親に呼ばれ、どなりつけられた・・・「おまえ、“中共”と何の連絡をとっているんだ?!“洗脳”されるぞ!」父は真剣に怒っていた。何のことやら?・・・・???(+_+)
実は、投書のお礼に「毛沢東語録」が届いていたのだ。これを見て父も母も腰をぬかすほど驚いたらしい。文化大革命の記憶もまだ生々しく放送でもさかんに「ソ連修正主義」とか「劉少奇」などを批判していた頃だから無理もない。「今回は本だが、次には機関銃が送られてきたらどうするんだ!?」真顔で怒っているわりに、こういうトンチンカンなことをいう。そんなの、税関でわかるだろうに、と思うが「大丈夫。そんな事はないよ」一応安心させて語録は受け取りました。赤い表紙のきれいな本を学校にも持っていって先生にも見せびらかし、得意顔のまっぺんでした。
“ブレイン・ウォッシュ”・・・「マインドコントロール」よりもショッキングな言葉です。少なくとも労働者の側に立とうとする人には使ってほしくないなー。
入谷さん。わたしもそんなに知識があるわけではないです。サイトを開いてみて、それを思い知らされる毎日です。いっしょに勉強しましょう。・・・・(^_^)m(_"_)mペコリ(^_^)
------------------------------------------------------------------------
Re:終戦直後の中国 投稿者:入谷 投稿日:12月11日(土)16時39分09秒
>終戦直後には、多くの日本人が中国人に(個人的テロで)ころされました。そうだったのか!全然知りませんでした。てっきり食糧不足だけかと思ってました。そんなもので、60万人の軍人の分、食料が浮いたじゃないか。って勘違いしてました。そんな状況では、男手が居なくなって、在留婦人は大変だった訳ですね。まっぺんさん。いつもフォローしてくれて、本当にありがとうございます。出来る限り、良く調べてから書きこむように努力しますが、変なこと書いてたら、また、助けて下さいね〜。(ペコリ)
------------------------------------------------------------------------
「全体の利益」について 投稿者:ザーカイ 投稿日:12月11日(土)13時31分21秒
>社会主義が労働者の自主管理社会だとするなら、当然、労働者は、>どの地位にいたとしても、全体の利益を考慮して考えることができ>なければならないはず。そのような思考ができないのなら、必然的>に、全体の利益を考慮する超越的存在が社会の頂点に立つことに>なるでしょう。
どう理解してイイのかわかりませんが、「一人は万人のために万人は一人のために」ってこと?
「全体の利益」という言葉に対して思うことは
人間が「オギャー」と生まれた時から既にある社会環境や、歴史の蓄積の支配下にあるけど、その瞬間どう感じたか、そしてその後どう生きたいかなんてことは「全体の利益の前」に来て当然だと思うけどなあ。
そこで自分にとって不利益なことがあれば、他に多くの恩恵を受けている人、階層がいようとも闘いを挑むもんじゃないの?社会主義社会でも。 きっと、万人(多く人)は自分の受けている恩恵を投げ打ってまで、支援してくれるとは思えませんけどね。社会主義原理が支配していても。
「全体の利益」とは聞こえのイイ言葉です(そのために闘っているんだけど)その利益がきちんと自分の利益になるのか?その利益を得る過程自身が、疎外にはならないか、キチンと楽しめてるか?
このことをチェックせずに「全体の利益」という言葉を使うと、大変危険だなアとは思ってるんです。
もちろんぼくが引用の言葉をよくわかっていないわけですから、トロスキーさんがどういう「全体の利益」をイメ―ジしているかは、わかりません。
今、資本主義下にあって、資本主義に満足できない(抑圧を許せない)人間の「いつくるか、わからない」未来社会=全体の利益を一人一人が浴せる社会へ向けての闘いは、闘い自体が未来社会の極一部でも先取りして幸福感を「今、ここで」感じれなければ偽物であり、違和感を抑え込んで実現したら、それこそ「全体主義」の導入者に成りかねません。もちろん、その前に実現しないでしょうけど。
注:もちろん「今ここで」幸福感を感じても偽物があることは多いです。 それだけ本物は少ないということですね。運動以外の思想もそう。
>この「苦々しい気持ち」はいったい、日本が中国でやった侵略に対>して中国人が抱いている「苦々しい気持ち」に、ほんのかけらでも>匹敵するものでしょうか? その1000万分の1でも相殺するもの>でしょうか? もし本当に日本の侵略に対する心からの怒りがある>ならそのような「苦々しい気持ち」よりもずっと先に、来るべき感情が>あるのはありませんか?
無茶な理屈に思えるんですよ、こういう論理には。中国共産党の人権弾圧被害者と、日本の侵略の被害者との、共通点が「中国人」ということ以外は別なことでしょ?どうして比較するわけ?どうして「苦々しい気持ち」よりもずっと先に、来るべきなの??
ぼくは日本が戦争で(被侵略側に、自国民に)した事は絶対許せないことだと思います。それと平行して中国共産党を含め世界中で行われている/起こっていた人権侵害はゆるせません。比較するものでも、帝国主義国民だからといって、その批判の鞭を緩める気は全然ありません。被害者個人は違うんだから。加害者も。
ぼくの「洗脳」発言の問題はむしろ位相の違うことなのに、中国共産党憎しで、その感情を人権的・人間的捕虜への措置にまで、横流しにした点だと思ってますよ。もちろん無意識的に。
ですから、先に日本の侵略への怒りが来るはずというのは、トロスキーさんがそうすればいいことで、わたしは平行しておきます。「左翼」で、ここの「常連」ぐらいの共通点で、怒りの持ち方までも合意しても仕方ないでしょ?
よくある結論ですが、実践で検証していきましょう、ともに。
注:「実践」というとまた前のような話になると思うので、注釈すると、ぼくの「実践」とは「生活」といってもいいです。デモ行くとかとか労組とかに矮小化する気はないと言う事を付け加えておきます。近所のオバちゃんと会話することも「実践」です。ただ、内実が問われるのはなんでも同じです。
アー活字のやり取りは疲れる。消耗した←死語(笑)。
------------------------------------------------------------------------
終戦直後の中国 投稿者:まっぺん 投稿日:12月11日(土)09時42分36秒
入谷さんの発言に不正確な部分があると思われるのでちょっとだけ修正させて下さい。終戦直後には、多くの日本人が中国人に(個人的テロで)ころされました。しかし、これはまさにそれまでの日本人の行為に対する“報復”です。多くの悲惨な体験を強いられた中国人の個人的な怒りによるものです。しかし、その中でも「残留孤児」に見られるように親をうしなった“憎い東洋鬼”の子供を我が子として育てた中国人も数多くいたことを忘れないでください。
それと、中国共産党が全土を掌握したのは1949年です。終戦直後に報復にあって死んだ日本人にたいして中国共産党は何の責任もありません。
------------------------------------------------------------------------
トロスキーさん、ありがとう 投稿者:入谷 投稿日:12月11日(土)03時14分04秒
「社会主義が労働者の自主管理社会だとするなら、当然、労働者は、どの地位にいたとしても、全体の利益を考慮して考えることができなければならないはず。」、か・・・・。そうですね。なんだか、悲しいかな、会社組織なんかだと、どんなにマトモだった人も、現場を離れると急速に感覚が狂ってしまう様な気がして、全然信用出来ないんです。だから、中国の話も、現場の看守に不平があったのに、為されたってだけで、変に警戒って言うか、強烈な拒否反応が出てしまう・・・・。こうゆう、人間不信?は克服しないといけないんですね。まだまだ、難しいけど。
------------------------------------------------------------------------
それともう一つ 投稿者:トロスキー 投稿日:12月11日(土)01時57分16秒
この間の、私に対する反論の書き込みに、ある共通点があるのに気がつきます。最初に言い出したのはザーカイさんですが、その後、その批判スタイルは、ちゅんたさん、入谷さんにも受け継がれているようです。つまり、私が常に、支配者、指導者の立場から物事を見ているが、自分たちは末端の、あるいは現場の労働者、活動家の立場から見ていると、という図式です。つまり私は鼻持ちならないエリート主義者というわけです。 なぜそのような図式が成り立つのか、まったくわかりません。それは、まったく証明されておらず、雰囲気として、あるいは印象として断言されるだけです。私の書き込みは基本的に自分が主体的な参加者だったらどうしたか、という視点で書かれています。その主体的参加者の地位はまったく問題になっていません。社会主義が労働者の自主管理社会だとするなら、当然、労働者は、どの地位にいたとしても、全体の利益を考慮して考えることができなければならないはず。そのような思考ができないのなら、必然的に、全体の利益を考慮する超越的存在が社会の頂点に立つことになるでしょう。
------------------------------------------------------------------------
なぜ私が怒りを覚えたか 投稿者:トロスキー 投稿日:12月11日(土)01時44分11秒
ザーカイさん、入谷さんへ
なぜ私がザーカイさんの書き込みにあれほど怒りを感じたかを書いておきます。現在、自由主義史観がはびこり、小林よしのりという扇動家が露骨なまでの侵略戦争美化をやり、中国人、朝鮮人への差別意識を助長させています。日本という帝国主義国に住む左翼にとって、とりわけ、ほんの50年前に中国、韓国を、最も残酷なかたちで侵略した国に住む左翼として、この、現在における中国人差別、朝鮮人差別にこそ、何よりも最大の反撃をする必要があります。これはもちろん、現在の中国スターリニストや北朝鮮スターリニストや韓国ブルジョア政府を美化するということではありません。しかしながら、いかなる場合であれ、右派の中国人差別、朝鮮人差別に同調しているかのような書き込みは絶対にしてはならないことです。 当時の革命中国のとった手段をそのまま真に受けるべきではない、というのは抽象的にはそうでしょう。しかし、侵略した側の国にいるわれわれが、それだけを言ってすますとしたら、それは、本人の主観がどうであれ、現在の中国人差別、中国敵視の風潮を強めることになります。 これがまず私の基本認識です。
そのうえで、この間の書き込みにさらに反論します。ザーカイさんは、現在の中国に対する苦々しい気持ちがあるから、ああいう書き方になったと書いています。しかし、この「苦々しい気持ち」はいったい、日本が中国でやった侵略に対して中国人が抱いている「苦々しい気持ち」に、ほんのかけらでも匹敵するものでしょうか? その1000万分の1でも相殺するものでしょうか? もし本当に日本の侵略に対する心からの怒りがあるなら、そのような「苦々しい気持ち」よりもずっと先に、来るべき感情があるのはありませんか?
次に入谷さんへ 革命中国が後世への宣伝的意図を込めて、ああいう寛大な措置をとったというのはその通りでしょう。だから何です? それが、いささかでもあの措置の価値を低める理由になるんですか? べトナム軍も、米兵を寛大に扱いました。それに対して、アメリカ人が、しかもその左翼が、あれは宣伝的効果を狙ったものにすぎず、美談にするのはどうかと思うよ、などと言っている光景を思い浮かべてください。その醜悪さがわかりませんか? あれほどひどい侵略を受けた国が、侵略してきた国の兵士に対してどういう処置を取ろうとも、私は非難する気になれません。もし革命中国が、あのような寛大な措置を取らず、捕虜全員を軍法会議にかけて銃殺していたとしても、私はそれを擁護したでしょう。しかし、革命中国は、日本軍の一般兵士は加害者ではなく、日本軍国主義の被害者であるという、愚直なまでの階級図式にもとづいて、ああいう措置を取りました。そのことの意義は強調しても強調しすぎることはないでしょう。
------------------------------------------------------------------------
フォーディズムを利用するとは 投稿者:トロスキー 投稿日:12月11日(土)01時15分27秒
ちゅんたさんへ
フォーディズムを利用するとは、まさに、その中の諸要素を分離して、その中で取捨選択すること以外の何ものでもありません。それが、どうしてダメなのか、私にはさっぱり分かりません。資本主義的工場も資本主義的技術も資本主義的公共施設も、すべてがすべて、まるごと拒否するか、まるごと受け入れるかのどちらかしかないとでもお考えですか? とんでもない機械論です。そのような発想は、ポルポト主義になるか、ずぶずぶの改良主義になるかのどちらかでしょう。 複数の課業をやる、人間の判断余地を残す、歩行の要素を取り入れる、等々はまったくユートピアではないし、非効率でもありません。実際に、トヨタはそれを取り入れて、初歩的フォーディズムの数十倍の効率性を達成しました。もちろん、トヨタの場合は、労働強化と長時間労働をも遂行したので(資本ですから当然です)、当然にも労働疎外を強めましたが、その点を差し引いても、やはり初歩的なフォーディズムよりもはるかに効率的であったでしょう。要するに相違工夫です。何事も。フォーディズムはコンベアー原理に還元できませんが、しかし、その決定的な点はコンベアー原理です。それは、資本主義的に利用されれば、労働の強制ですが、しかし、それは他面では、多数の労働者が同調的に労働を行なうという性格を有しており、これは、完全に生産の進歩的方向と合致しています。 ちゅんたさんは、貧困の克服ということがあたかもどうでもいいように扱っていますがちょっと信じられない発言ですね。ソ連の工業化なしには、ファシズムに対する勝利も無かったと思いますが、それも否定されるのでしょうか? ちゅんたさんが、そうまでしてフォーディズムを絶対的に否定するのは、理解不能です。豊かな日本社会の豊かな消費生活を享受しているからこそ出てくる発言としか思えません。フォーディズムにすれば、労働者の自主管理があたかも自動的に否定されるかのような考えもナンセンスです。コンベアーのスピード、労働の編制、課業の時間設定、労働時間、等々を集団的労働者が決定しているなら、それは十分に自主管理です。もしフォーディズム=自主管理否定なら、労働者は永遠に、19世紀的職人労働を維持しなければならないということになります。これは、『資本論』の展望にも反しますね。そのような職人労働では、当然、大規模な生産手段は使用できませんから、当然、生産手段の集中と集積、労働の社会化、協同労働でしか使用できない生産手段の発達、労働者の集中とその団結の増大、云々というマルクスが「資本主義的蓄積の一般的傾向」で述べたすべての現象も否定しなければならないでしょうね。 何が何でもフォーディズムを否定しなければならないという確定命題に縛られているために、ますます矛盾に満ちた発言を繰り返し、ますます支離滅裂になっていくのは他ならぬ、ちゅんたさんのようですね。
------------------------------------------------------------------------
「洗脳」 学生時代 ゼミなど 投稿者:ザーカイ 投稿日:12月10日(金)23時39分54秒
まっぺんさんへ>確かに「オカルト集団の基礎知識」にも必要ですね。>そうすると右翼の目から見ると「オカルト集団」も>「共産主義者」も同じ様なものにうつってるという事か。
わははは・・・。でもはじめて社会主義や、当時流行りのニューアカなんかの話は、宗教の秘密教義のように映りましたよ。カタカナ語と、難しい漢字語。「難しすぎてなんのことだかわからない話をするなんて凄いなあ」と思いました。紹介された本も、チンプンカンプン。当時はわが大学の教授丸山圭三郎に浅田彰、吉本隆明なんかを買って眼を通しましたねえ。「共同幻想論」なんかは本当に秘密教義かと思いましたよ(爆)
二ーチェもそうそう、流行ってたなあ。当時から非マルクス系が流行りでしたよ。ま、こんな読んでる本人もわからず、後輩にゼミしていたことは、まず「洗脳」と言われても仕方ないことしてましたね。
それで思い出した。サークル活動について。
ぼくのサークルは先輩が卒業してサークル員ゼロに(当時ぼくは準会員)。ゼロからはじめたゼミだから、ぼくが勧誘してぼくがチューターしていた。 学内で出店出して、インチキな中身のパンフ置いて、時間になったら誰もいないサークル室へ戻ってゼミの準備。パンフ見た人が来るのをネコのチビンケとで待つ。くる日もくる日も。 チビンケが招き猫だったらしく、5人ゲットしたんだっけ、一年で。サークル員を得た後、政治学やったり経済学をやったり色々と。
彼ら後輩が左系サークル数ある中で、ぼくの卒業後3年間は中大闘争を牽引していく中核部隊になったんだよなあ。
しかし笑えるのはそんなサークルゼミ生が今、東北大学のドクター課程にいたり、読売新聞記者してるんだもんなア。
かれらに付け焼刃で覚えたことあれこれ教えていたことが懐かしい(はずかしい?)です。 この経験が活動家の育成の自信になったんだと思う。
原理研が、「学園祭とかサークルのゼミなんかを通して学生に共産主義を植え付けてる」とかかれ「それは一部あたってる」と苦笑してました。しかし共産主義ならぬ、「でたらめ」を教えていたとは原理研も気づかなかったようだ、はははは。
この秘密が守れただけで、わたしは原理に勝利したのだ!!!
------------------------------------------------------------------------
塩見孝也元赤軍議長 投稿者:ザーカイ 投稿日:12月10日(金)22時40分12秒
そうそう、12・9にいきなり京大でお会いした塩見孝也元赤軍議長からрェあった。朝早くで、まだうつらうつらしてたので、留守番電話&FAXにしちゃたんだけど、聞いてみてビックリ。御本人から、学習会のお誘い。行ってもよかったんだけど、組合の大会でへとへとになったんで、パス。
光栄なことだけど、これ以上公安のリストに載るようなことは避けたいなあ。まぁ、京大そして白樺での義理もあるので、毎週PM7:00〜たしか高田馬場でやってるようなんで、一度行ってみるべか?
------------------------------------------------------------------------
トロスキーさんへ 投稿者:入谷 投稿日:12月10日(金)22時30分56秒
ザーカイさん、いつも、ありがとうございます。「1000人だから厚遇できた、などと言うのは、きわめて不謹慎な言い方」というのはもっともです。敢えて、そのような表現を避けなかった愚を、何卒お許し下さい。しかし、「1000人しかいなかったのならそれこそ全員虐殺して闇に葬ることだってできたはずです。」というのは成り立ちません。この1000人は、満州未引揚者ではなくて、公式にソ連邦から引き渡された捕虜だからです。「もしソ連の日本兵捕虜が1000人だったら、全員ゲペウに殺されていたかもしれません。」というのも成立しません。もともとソ連邦領内で捕虜になった訳ではないので、邪魔なら、中国への満州引渡し時に一緒に引渡してしまえばよかった訳です。こちらの方が処刑の手間がありません。「60万人もいたから、労働力として用いた。」というのは、全くその通りで、その為にわざわざシベリアまで連れて行った訳です。但し、不謹慎の愚を再度犯すことを覚悟で申し上げれば、ソ連邦は、大戦で、1000万人を失ってますので60万人は所詮焼け石に水です。むしろ、日本人・ドイツ人捕虜が直接建設したシベリア鉄道より、ロシア人に伝えた、日本やドイツでは当たり前の技術・知識の方が、その後のソ連邦の復興には役立ったのでないでしょうか?労働はその場限りですが、技術や知識は永遠に役に立ちます。ここで、全体の「政策」としてのソ連邦の捕虜政策が如何に非人間的ものであったかについては異議はありません。但し、極端な一般化を恐れずに申し上げれば、巨大組織の頂点でなされる決定というものは大概卑劣なものです。要は、それに対して現場がどう対応したかが、私にとっては極めて重要なのです。ソ連や中国の指導部の立場に立って、過去の歴史に想いを巡らす事は、私には出来ません。実際我々が参考にすべきは、卑劣な体制下の現場でどう筋を通したか、という事例なのではないでしょうか? 過去の事例を知り、自分ならどうするであろうかと想像し、将来に生かそうとする事は、無駄では無いでしょう。さて、革命中国の捕虜政策でありますが、私には、大いに疑問です。自国民にはコーリャンしか食べられない食料事情の中、1000人の捕虜に白米を食べさせるといった政策は、やはり歪んでるとしか思えません。不平をもらした中国人看守の気持ちの方が遥かに共感できます。戦後の対外的な、宣伝政策としては冷静に支持出来ますが、率直に感動できる美談として受取ることが出来る程、私は素直になれません。私の申し上げた1000人と、60万人の対比は、この点にあります。もし、ソ連邦政府が、この60万人をシベリアに抑留せず、革命中国に委ねたとすれば、中国はその60万人の捕虜に白米はおろか、人によっては日本に居たら絶対に食べない黒パンで、人によっては栄養豊かな黒パンを食べてたからこそ生き長らえ、日本に帰ってきたら余りの食料事情の悪さに栄養失調になったという、不思議な黒パンと薄いボルシチすら、いや、コーリャンすら与えることは出来なかったのでは無かろうかと想像してしまいます。実際、166万2千人の満州開拓者のうち、終戦直後に24万5千人が、うち、日ソ戦闘時は6万人で、終戦後に18万5千人が放置されて死亡しています。この様に、後に語り継がれ易いのは、よりエライ軍人の体験で、二等兵や民間人の悲惨な体験は、なかなか伝わる事がありません。民間人を放置しておいたのは当時の状況から、致し方無い事で、革命中国に非はありません。しかし、その一方で、自国民看守の不平をよそに、後に語り継がれ易い(と、私は思う。)元軍人の捕虜1000人には、世界に胸を張れる対応と、再教育を施したという逸話を、その捕虜政策立案者が後世の人間に期待した通りに素直に受取る事は、残念ながら、私には出来ません。どうか、私の事実認識の誤り、世界観の誤りを正し、まっとうな道に御導き下さい。どうか、何卒・・・・。
------------------------------------------------------------------------
うん、そうだね(^^)それは認める 投稿者:まっぺん 投稿日:12月10日(金)22時10分13秒
確かに「オカルト集団の基礎知識」にも必要ですね。そうすると右翼の目から見ると「オカルト集団」も「共産主義者」も同じ様なものにうつってるという事か。
話がそれてしまったけど、今回の場合は「中国共産党」との関連で使用されている。それはやっぱりまずいっすよ。
------------------------------------------------------------------------
反共主義者用語というより… 投稿者:ザーカイ 投稿日:12月10日(金)21時34分36秒
>「洗脳」は反共主義者が共産主義批判専用に使う>「反共用語の基礎知識」にしか掲載されないことばですから>使うべきではないと思います。
ぼくは学生の時、「洗脳」という言葉を知りましたが、これは勝共連合=統一教会=原理研をはじめとするカルト集団に使うコトバでしたよ。 ちなみにぼくは学生運動をしていることを当時両親にも言っていました。「おまえは左翼に洗脳されているんだ!」みたいなこと言われず、「戦争や政治腐敗に反対することはええこっちゃ」ですんだし、同級生も「学生服(2年生ぐらいまで)着た左翼」と面白がっていたんで、あまり思想というか活動にどうこう(「洗脳」)は言われませんでした。
左翼・共産主義者が「洗脳」するみたいな文脈は卒業後ですね、知ったのは。たとえば北朝鮮の「拉致事件」のような。
#「洗脳」への反応は自分の置かれた場所や環境、時代による違いがありそうですね。ぼくはオウムなんかを「洗脳集団」といいますけどね。
------------------------------------------------------------------------
友納武人 投稿者:まっぺん 投稿日:12月10日(金)21時29分04秒
また、つまらん小ネタですが・・・・(^^)マル共連BBSにザーカイさんが掲載した情報に関連して。
父の死後、私は過去の父の足跡を調べ始めました。学徒動員により父は幹部候補生隊となったようです。“幹部候補生隊”とは軍曹〜少尉くらいの現場指揮官として養成されるものの事です。戦争末期になると、日本軍の兵力は不足してきます。歩兵はどんどん死んでゆくけれどもどんどん促成で訓練し補充してゆく。高級将校は比較的安全な所にいるから簡単には死なない。一番不足したのは現場の指揮官です。
当時の日本軍の“伝統”で、突撃の時には指揮官は軍刀を抜いて最先頭で敵に突っ込んでゆくので、非常に消耗がはげしい。又、指揮官である以上“促成訓練”というわけにはいかない。そこで動員学徒をこの養成に充てたわけです。
父は習志野騎兵学校(現陸上自衛隊習志野空挺師団)で訓練をします。習志野駐屯地を訪問して中を見てきました。「騎兵の碑」というのがいまでもあった。そこで遭遇したご老人の団体・・・・それは第何期かの卒業生・戦友会の人達でした。当時のお話をうかがい、いろいろ資料もいただきました。
資料をみると、なんと!その第一期生のなかに友納武人がいた。父は第十一期生。10年先輩だったんだなー。
------------------------------------------------------------------------
ソ連の生産力についての質問 投稿者:まっぺん 投稿日:12月10日(金)19時23分13秒
トロスキーさんが説明してくれた内容は非常にすっきりしていて「資本主義国と労働者国家の生産性の比較」が無意味であることはよくわかりました。ひとつだけ、この間のソ連抑留者問題で思いついたことがあります。
スターリン体制下でもソ連は生産性を向上してきましたが、ここには負の側面を考慮するべきなのではないでしょうか?つまり、スターリンは非常に数多くの政治犯をシベリアに送り、強制労働を強いました。日本軍将兵の強制労働もこの方針の延長線の上にあると思います。この強制労働がソ連の経済力を裏から支えたと考えるべきではないでしょうか?
------------------------------------------------------------------------
その2 投稿者:ちゅんた 投稿日:12月10日(金)14時37分26秒
フォードシステムにあっては単純労働の強制をベルトコンベアによって行なっていたわけです。ベルトコンベアの役割は単に荷物を運ぶことではありません。フォードシステムにおけるベルトコンベアの役割は,単にあなたの言うコンベアー原理だけで済まされるようなものではないのです。あなたはベルトコンベアと言うものをフォードシステムから切り離して論じていますが全体の文脈からすれば意味がないでしょう。そして,再び「労働者がひたすらネジを締めることに専念する必要はありません。複数の課業をこなしてもいいわけです。」と主張されますが前述した通り,システム全体の前提を崩すような主張をして,それでいて生産性を向上できるという考えておられるとしたら,それこそ「ユートピア」以上のものではありません。総じてあなたの主張は「フォードシステムの利用」と言う前提下にあっては,論理矛盾であると思われます。論点をそれぞれ分断してしまったからこそ成しうる議論ですが,それでは生産性の向上を達成できるかどうかはまったくの疑問です。また,あなたの「創意と工夫で可能」だ,などという主張ですが本当でしょうか?これまでの検討により,少なくともあなたがあげているような点では不「可能」だと言えます。せいぜい,失敗してもそれは現場での「創意と工夫」が足りなかったのだ,と言うような主張へと行き着くだけにしかならないように思えますが。ところで,それは労働者へ負担を強いるのでしょうか?それとも「創意と工夫」は労働者が主体的に行なうものではなく,別のところで誰かが考えるものなのでしょうか?それこそ労働過程を労働者が自主管理するという原則無視になってしまいまたぞろソビエトの悲劇を繰り返すだけの結果になり兼ねません。結局のところ,トロツキーの「フォードシステムの利用」と言う発想自体に問題があったにも関わらず,それを無理矢理弁護しようとしたためにこのような結果となったと結論することができるでしょう。生産性の向上が急務であったのは当然のこととしてもそのための方法の選択に失敗してしまったことを問題にできないのでは「躓きの石」であり,それでは認識の前進はありえません。
最後にあなたは「ソ連の現実」を持ち出してきていますがそれならば現実のソ連における労働過程について,あなたはどう思っているのでしょうか?「恐るべき窮乏と貧困」を「克服」するために労働者に犠牲を強いることはやむをえないことなのですか?農作業を軽減するためには労働者の犠牲もやむをえないといえるのですか?そしてその結果はすでに,ソビエトにおける労働過程が結局労働者の手に戻らなかったと言う事実が明らかにしていると言えるでしょう。
------------------------------------------------------------------------
何を問題とするのか? 投稿者:ちゅんた 投稿日:12月10日(金)14時34分33秒
これまでみてきた限りでは,トロスキーさんの視点というものはボルシェビキ指導者の視点ーレーニン,トロツキーの視点と言うものに限定されています。その視点を取ること自体をを否定しようとは思いません。確かに全体的な,広い視野で判断しようとする時にはそれなりに有効でしょう。しかしそれで十分なのか?と言えばそうでもない。個々の論点においては見落とされてしまうものも多いのです。そのような意味で,一つの視点のみからに限定されている見解には限界を感じざるを得ません。現実の労働過程をうまく捉えられないのはある意味トロスキーさんの当然であろう限界と言えましょう。彼(ら)にあっては労働者は受動的な存在であり「駒」のような存在としてしか捉えられていない,と言う点にもこの視点の限界性が読み取れることと思います。単に命令を受動的に受け止めるだけのものであろうはずはないのですから。
さて,百も承知,と言いますが内容を理解できていないから問題なのです。フォードシステムの捉え方ですが,はっきりと言ってしまえばあなたの主張はかなり独断的です。その時その時の主張によってフォードシステムの特質を恣意的に判断しているからです。繰り返しますが,なぜ生産性を向上できたか,と言うとそれは労働の単純労働への還元とベルトコンベアによるその強制,そして労働を単純労働に還元することによって労働過程における労働者の関与を極小化し,それによって労働過程における資本の支配を確立させる,と言うことをあげることができます。これらの点が重なり合ってシステムを構成しているわけです。言い換えるならばこれらの特質を兼ね備えていなければ,システムとしての意味を成さないということが言えるだろうと思います。あなたの場合はこれらが分離して考えられているからこそ問題なのです。あなたは「流れ作業」といいますが,フォードシステムにおける流れ作業とはどのようなものだったのでしょうか?それはベルトコンベアにおいて強制される流れ作業でした。すなわち労働者の意志とは関係なく強制される流れ作業です。その点を問題としているのであって,一体誰が流れ作業を否定したのでしょうか?その中身について考えることが必要なのであって,いきなり概念そのものを否定しようなどという意図を僕は持ってはいないのですが。「単一の課業ではなく、複数の課業をやる、過度に自動化せず、人間の判断余地を残す、1ヶ所にずっと立っているのではなく、一定の歩行をの余地を取り入れる、等々の工夫は十分可能です。」単一の作業をひたすらやることで,生産性の高さを確立していた訳なのにそれを複数の作業をやるようにして意味があるのでしょうか?生産性の向上を度外視するならばともかく,システムが持つ,生産性の高さというメリット自体を壊しかねないような発想でしかないでしょう。あるいは,せいぜい労働者に余計な負担を強いるという結果になるのがせいぜいなところだといえます。大体,システムにおいて想定されている労働が単純労働なわけですから,配置転換などしてもやる内容が少々変わったというだけであまり意味のある改善だといえようはずもありません。それは「一定の歩行の余地を取り入れる」と言う点にも言えます。こんな事をしたところで行なっている労働そのものに対する問題点が解消されるわけではありません。あなたの発想は生産性と人間性の両立という点をを無視しているからこそ出てくるものだといわざるを得ません。最もフォードシステム下においては,その両立など土台無理な話なのですからー元々人間性を無視することが原点に存在していたーある意味当然の帰結と言えましょうが。ですから「人の背中に重い荷物を載せて運ぶのではなく、コンベアーで工場内を移動させ労働者の労働を軽減させつつ、効率を達成することが、コンベアー原理です。」とあなたは言いますが,それではフォードシステムの利用,と言う点はどうなったのか?と聞き返したい。単にベルトコンベアを荷物を運ぶために使いました,と言うだけのことならば,労働過程の機械化ではあってもフォードシステムの利用等とは言えないでしょう。
------------------------------------------------------------------------
ベトナム・カンボジア問題 投稿者:まっぺん 投稿日:12月10日 f直に受け取ることのどこがいけないのでしょうか?
それと「思想的にオルグされるかどうか」は別問題です。
思想を受け入れるのは「お米のご飯のお礼」ではありません。
自己の意志によるものです。
------------------------------------------------------------------------
一時停止します。 投稿者:国際主義者 投稿日:12月07日(火)23時06分11秒
リンク センチメンタルな「望郷」の念を奥歯で噛み締めて新しい ヲながらも活動する血の通 チして会話してたので、内容は >
こいつは、トロツキストだ ニハテt;畠n-+ヨ俘mJjァソ14t{+ヲチ3F棄キ~^ラ_#w%ョヒv<ニ;qhP