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ジョン・レノンの思い出 |
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(当時の第四インターナショナル・イギリス支部機関紙) を手にデモをするジョン・レノン (第四インター日本支部機関紙「世界革命」1980年12月659号より) |
よるジョン・レノンへの追悼文と生前のジョン・レノンのインタビュー記事である。 ・・・ジョン・レノン暗殺20周年の思い出のために(2000年12月8日・まっぺん) |
昨年12月、ジョン・レノンがニューヨークで射殺された。以下に紹介するのは、第四インターイギリス支部機関紙「ソシアリスト・チャレンジ」の80年12月10日号にレノンの死を悼んで掲載された、レノンとのインタビューと、タリク・アリ同志の追悼文である。このインタビューは、1971年、当時のイギリス支部機関紙であった「レッド・モール」紙がレノンに対して行ったものの抜粋である。このインタビューをつうじて、今までマスコミでは報道されていなかったレノンの政治的見解をうかがい知ることができる。たしかに、彼も60年代後半から70年代前半にかけての全世界的な青年の急進化のなかで自己の世界観と感性をはぐくまれ、ブルジョア体制への反逆にめざめていった世代の一人だったのである。(「世界革命」1981年1月) |
タリク・アリ |
ジョン・レノンの思い出 |
“われわれのデモのための行進曲” |
ジョン・レノンは戦後イギリスの最も才能ある音楽家の一人であった。彼の生涯はアメリカ社会に深く根を張ったガンについて通常満足している人々には一定の反省を促さざるをえないだろう。この暗殺は、暗殺者個人の病気であるばかりでなく、アメリカ資本主義の価値観が病んでいることの反映なのである。 その短い生涯の中で、ジョン・レノンは何度となく脅迫を受けてきた。KKK(クー・クラックス・クラン−アメリカ白人の極右人種差別主義のテロリスト)から、オルダーショット(陸軍訓練基地)と人種差別主義の英軍将校から、さらには偏狭なキリスト教徒から。彼自身が予測しなかったこの死は、多分自らの名声を得ようと望んだのであろう一人の青年の手によって行われたのであった。 1960年代末と70年代において、ジョン・レノンは何百万もの青年に波及した急進化の一翼を構成していた。彼の最上の歌はこの急進化をはぐくみ、世界とその諸問題に感心を抱く人間としての彼を浮彫りにするものであった。1969年、彼は、ビアフラでのイギリスの政策への抗議として、4年前に受けたMBE勲章を返上した(注1)。ここに発表されているのは、1971年に私とロビン・ブラックバーンが 「レッド・モール」紙(注2)のために彼にたいして行ったインタビューの抜粋である。 このインタビューの翌日、私はベントンビル街の「レッド・モール」紙の事務所で彼からの電話を受けた。彼のいいたかったのは、このインタビューが大層楽しかったということであったが、その後、次のように語って私を大層驚かせた。 「あの対談に私は大層感銘を受けたのでわれわれのデモのための行進曲を書いたんだ。今、この電話でそれを歌ってもいいかね」、と。 彼は楽器の伴奏なしに「人民に力を」(パワー・トゥー・ザ・ピープル)を歌った。それから、われわれはその曲について討論した。その月に、彼はそれをシングル盤で発表した。 それ以後、レノンと小野洋子は多くのデモにやってきた。彼はその時いつも「レッド・モール」紙をかかげてデモをしたい、と語った。個人的にではあるが彼はいつも、「この新聞の論文の半分も理解できないが、これはいいと思う」と語っていた。 彼と同じように著名になった多くのアイルランド系の人々とはちがって、彼は、自分がアイルランド出身であり、労働者階級の出身であるということを決して忘れはしなかった(注3)。彼は支配階級とそのイデオロギー的文化的エスタブリッシュメントを深く軽蔑していた。 彼のアメリカへの出発は政治とそれへの参加からの逃避の先がけであったが、彼は決して反対陣営の代弁者にはならなかった。その一番最近のインタビューの中で、彼は男性優位主義と闘う必要性を強調した。他の人々は自らのやり方で彼を追悼するだろうが、われわれの追悼は「レッド・モール」紙のインタビューからの抜粋と彼の最も政治的な歌の歌詞を再度発表することである。これが最も力強かった時のレノンであり、それゆえにこそ、いつまでも生き続けていくであろうレノンである。 (注1) 1965年、ビートルズはイギリスのために大量の外貨をかせいだとしてエリザベス女王からMBE勲章を受けた。だが、1969年、ジョン・レノンは、イギリス政府のビアフラへの介入、ベトナム戦争への支持政策に抗議してこれを返上した。 (注2) 「レッド・モール」紙は、第四インターナショナルイギリス支部(IMG=国際マルクス主義グループ)の当時の機関紙である。現在の「ソシアリスト・チャレンジ」の前身。 (注3) 事実、彼は1972年、1月30日のあの有名なデリー市の大虐殺(「血の日曜日」)を糾弾する「サンデー・ブラッディー・サンデー」という曲を小野洋子とともに作った。 |
ジョン・レノンとのインタビュー |
私はずうっと政治に心をひきつけられてきました。私のようにあなたも成長してきたのなら、警察を大敵のように憎み、恐れ、誰でもどこかに連れ去り、どこかに死体で放り出す軍隊というものを軽蔑するというのは、最も根本にあることでしょう。 台 風 私は、子供のときから体制に対して嘲笑的な態度をとってきました。私はいつも学校で、手づくりの雑誌を書き、それを回覧させていました。 交 換 われわれがアメリカ人の真似をすることから始めたとき、われわれはほんのちょっぴりの知識を持っていただけでした。しかし、われわれは音楽を探究し、そしてそれが、半ば白人のカントリー・アンド・ウエスタンであり、半ば黒人のリズム・アンド・ブルースであることに気づきました。 確 信 これが、学生にとって基本的に必要なことが労働者の中に入って彼らに確信を抱かせることであり、まわりくどいおしゃべりをするべきではないということの理由です。もちろん、労働者たちが何を本当に考えているのかを知るのはむずかしいことです。なぜなら資本家の新聞は、いつもジュピターの羽根のような伝達機関として論議を行っているからです。 学 生 私は、青年が本当にこうした道を進むことはそうむずかしいことではないと思います。あなた方は、地方議会への攻撃や、学校の権威の破壊に対する抑圧のくびきを解放しなければなりません。ちょうど学生たちが大学における抑圧をうちこわしているように。 意 識 こうしたことすべてに、労働者たちが気づきはじめるようになれば、われわれは本当に何事かをやりはじめることができます。労働者は資本家の代りに世の中を引き受けることを始められるようになります。マルクスが「各人にはその必要に応じて」と言ったように−そうなったときにこれは現実のものになるでしょう。 |
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