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なお、このテキストはTAMO2さんのご厚意により「国際共産趣味ネット」所蔵のデジタルテキストをHTML化したものであり、日本におけるその権利は大月書店にあります。現在、マルクス主義をはじめとする経済学の古典の文章は愛媛大学赤間道夫氏が主宰するDVP(Digital
Volunteer Project)というボランティアによって精力的に電子化されており、TAMO2さんも当ボランティアのメンバーです。 http://www.cpm.ll.ehime-u.ac.jp/AkamacHomePage/DVProject/DVProjectJ.html http://www5.big.or.jp/~jinmink/TAMO2/DT/index.html |
☆ 二 プロレタリアと共産主義者
共産主義者は、プロレタリア全体にたいしてどういう関係にあるのか?
共産主義者は、他の労働者政党に対立する特殊な政党ではない。
彼らは、全プロレタリアートの利害と別個の利害をなにももっていない。
彼らは、特殊な原則をうちたてて、プロレタリア運動をその型にはめこもうとするものではない。
共産主義者が他のプロレタリア政党から区別されるのは、ただつぎの点だけである。すなわち、共産主義者は、一方では、プロレタリアの種々の民族的な闘争において、全プロレタリアートの共通の、国籍に左右されない利益を強調し、おしつらぬく。他方では、彼らは、プロレタリアートとブルジョアジーとの闘争が経過する種々の発展段階において、つねに運動全体の利益を代表する。
だから、共産主義者は、実践的には、すべての国々の労働者政党のうち、もっとも確固たる、たえず推進してゆく部分であり、理論的には、プロレタリア運動の条件、進路、一般的結果を理解する点で、プロレタリアートの他の大衆にまさっている。
共産主義者の当面の目的は、他のあらゆるプロレタリア政党の目的と同一である。すなわち、プロレタリアートの階級への形成、ブルジョアジーの支配の転覆、プロレタリアートによる政治権力の獲得〔21〕である。
共産主義者の理論的命題は、あれこれのなんでも改良屋の発明または発見した理念だの原理だのにもとづくものではけっしてない。
それはただ、現存する階級闘争の、つまりわれわれの目前で現におこなわれている歴史的運動の、事実上の諸関係を、一般的に表現したものにほかならない。これまでの所有関係を廃止することは、なにも共産主義に独特の特徴ではない。
〔過去の〕すべての所有関係は、たえまない歴史的変遷を、たえまない歴史的変化を、うけた。 たとえばフランス革命〔22〕は、封建的所有を廃止してブルジョア的所有を実現した。
共産主義を特徴づけるものは、所有一般の廃止ではなく、ブルジョア的所有の廃止である。
けれども、近代のブルジョア的私的所有は、階級対立にもとづく、人による人の搾取にもとづく生産と生産物の取得との、最後の、そしてもっとも完成された表現である。
この意味で共産主義者は、自分の理論を私的所有の廃止という一語に総括することができる。われわれ共産主義者は、個人が自力で得た、自分ではたらいて得た財産、あらゆる個人的自由、活動、独立の土台をなす財産を廃止しようとのぞんでいる、といって非難される。
はたらいて得た、自力で得た、自分でかせいだ財産だと! 君らはブルジョア的所有の以前にあった小市民的・小農民的所有のことをいっているのか? そんなものは、われわれが廃止するまでもない。工業の発展がすでにそれを廃止しているし、また日に日にそれを廃止しつつある。
それとも、君らは近代のブルジョア的私的所有のことをいっているのか?
だが、賃労働すなわちプロレタリアの労働は、プロレタリアに財産をつくりだすか? けっしてつくりださない。それは資本をつくりだすのだ。すなわち、賃労働を搾取する財産、新しい賃労働をうみだし、あらたにこれを搾取するという条件でのみはじめて増殖しうる財産を、つくりだすのだ。現在の形態では、所有は資本と賃労働の対立においてうごいている。この対立の両面を検討してみよう。資本家であることは、純粋に個人的な地位ばかりでなく、生産のなかで一つの社会的な地位をもしめることを意味する。
資本は、共同の産物であって、ただ社会の多くの成員の共同の活動、いな、究極にはそのあらゆる成員の共同の活動によって、はじめて運転されうるものである。
資本は、したがって、個人的な力ではなく、社会的な力である。
だから、資本が共有の財産、社会のすべての成員に属する財産にかえられるとしても、個人の財産が社会の財産にかわるわけではない。かわるのは所有の社会的な性格だけである。つまり、所有はその階級的性格をうしなうのである。
賃労働にうつろう。――
賃労働の平均価格は、労賃の最低限、すなわち労働者を労働者として生命を維持させるのに必要な生活資料の総計である。したがって、賃金労働者が自分の活動によって取得するものは、かろうじて、彼のかつがつの生命を再生産するのにたるだけのものである。われわれは、直接的な生命を再生産するための労働生産物のこの個人的取得、すなわち他人の労働を支配する力をあたえうるような純収益をすこしものこさない取得を、けっして廃止しようとは思っていない。われわれが廃止しようとのぞんでいるのは、ただ、労働者が資本を増殖するためだけに生き、支配階級の利益が要求するあいだだけ生きるという、この取得の悲惨な性質である。
ブルジョア社会では、生きた労働は蓄積された労働をふやすための手段にすぎない。共産主義社会では、蓄積された労働は、労働者の生活の営みをひろくし、ゆたかにし、向上させる手段にほかならない。
したがって、ブルジョア社会では過去が現在を支配し、共産主義社会では現在が過去を支配する。ブルジョア社会では、資本が独立性と個性とをもっていて、生きている個人は独立性も個性ももたない。
しかも、このような関係の廃止をブルジョアジーは、個性と自由の廃止だと呼ぶのだ! それももっともである。いかにもわれわれは、ブルジョア的個性、ブルジョア的独立性、ブルジョア的自由の廃止を問題にしているのだ。
自由とは、今日のブルジョア的生産関係のもとでは、自由な商業、自由な売買を意味する。
だが、営利商業がなくなれば自由な営利商業もなくなる。ぜんたい、自由な営利商業にかんするきまり文句は、わがブルジョアジーの他のあらゆるこけおどしの自由論議と同じように、制限された営利商業にたいして、中世の束縛された市民にたいしてもちいてこそはじめて意味をもつのであり、共産主義による営利商業、ブルジョア的生産関係、ブルジョアジーそのものの廃止にたいしては、なんの意味ももたない。
君らは、われわれが私的所有を廃止しようとのぞんでいるというので仰天する。だが、諸君の現在の社会では、私的所有は、その成員の十分の九にとっては廃止されているのだ。それが存在するのは、まさんそれが十分の九の人々にとって存在しないからである。したがって君らは、社会の大多数のものの無所有を欠くべからざる条件とする所有を、われわれが廃止しようとのぞんでいるといって非難しているわけである。
君らはつまり、われわれが君らの財産を廃止しようとのぞんでいるといって非難しているのだ。いかにも、われわれはそれをのぞんでいる。
労働がもはや資本に、貨幣に、地代に、つまり独占されうる社会的な力に転化しえなくなる瞬間から、いいかえれば、個人的所有がもはやブルジョア的所有に転化できなくなる瞬間から、個人は廃止される、と君らはいう。
したがって、君らの理解する個人とは、ブルジョアすなわちブルジョア的所有者にほかならないことを、君らは白状しているのだ。そして、このような個人は、いかにも廃止されなければならない。
共産主義は、社会的生産物を取得する力をだれからもうばうものではない。それは、この取得によって他人の労働を隷属させる力をうばうにすぎない。
私的所有が廃止されるとともに、いっさいの活動は終止し、全般的な怠惰がはびこるであろう、という異議がとなえられた。
もしそうなら、ブルジョア社会はとっくに怠惰のために滅亡しているはずである。なぜなら、ブルジョア社会では、はたらく者はもうけず、もうける者ははたらかないからである。この言いぶんの全体は、結局、資本がなくなるやいなや賃労働もなくなる、という同義反復に帰着するのだ。
物質的生産物の共産主義的な取得および生産の様式にたいしてとなえられたあらゆる異議は、同様に、精神的生産物の取得と生産にもおしおよぼされている。ブルジョアから見れば、階級的所有の終止が生産そのものの終止であるように、階級的文化の終止は、彼にとっては文化一般の終止と同意義である。
ブルジョアがうしなうことをおしんでいるこの文化とは、大多数のものにとっては、機械になるための訓練である。
だが、自由、文化、法等にかんする君らのブルジョア的観念の標準でブルジョア的所有の廃止をはかるようなやりかたで、われわれと論争するのはやめたまえ。君らの観念そのものがブルジョア的生産および所有関係の産物である。それはちょうど、君らの法が、君らの階級の意志、すなわち君らの階級の物質的な生活条件のうちにその内容のあたえられている意志を、法律にたかめたものにすぎないのと同じである。
君らの生産、所有関係は、生産の進行につれてすぎさってゆく歴史的関係であるのに、それを永遠の自然法則や理性法則にかえる君らの利己的な考えかたは、君らもすべての没落しさった支配階級と共通である。君らが古代的所有について、また封建的所有については理解している事がらを、ことブルジョア的所有となると、もう君らは理解することをゆるされないのだ。
家族の廃止! 共産主義者のこの恥しらずな意図にたいしては、もっとも急進的な人々でも激昂する。
現在の家族、ブルジョア的家族は、なにを基礎にしているか? 資本を、私的営利を、基礎にしている。完全に発展した形では、それはブルジョアジーにとってしか存在しない。だが、プロレタリアの強いられた無家庭と公認の売淫とがそれを補足している。
この補足物がなくなるとき、ブルジョアの家族も、当然になくなる。そして両者とも、資本がなくなれば、ともになくなる。
君らは、両親が自分の子を搾取することをわれわれが廃止しようとのぞんでいるといって非難するのか? われわれはこの罪をみとめよう。しかし、われわれが家庭教育をやめて社会教育をそれにかえるのは、もっとも親密な関係を廃棄するものだと君らはいう。
だが、そういう君らの教育もまた、社会によって規定されているではないか? 君らが教育をほどこすその社会関係によって、学校その他を通じて直接間接におこなわれる社会の感傷によって、規定されているではないか? 教育にたいする社会の干渉は、共産主義者が考えだしたものではない。共産主義者は、この干渉の性質をかえて、教育を支配階級の影響から解放するだけである。
大工業の結果、プロレタリアにたいしていっさいの家族のきずながたちきられ、その子供たちがたんなる商品や労働用具に化せられるにつれて、家族だの、教育だの、親子の親密な関係だのについてのブルジョアのきまり文句は、ますます吐き気をもよおすものとなる。
だが、君たち共産主義者は婦人の共有をやろうとしている、と口をそろえて全ブルジョアジーはわれわれにさけぶ。
ブルジョアは自分の妻をたんなる生産用具と考えている。そこで、生産用具が共同で利用されることになるときくと、この共有の運命が、同じように婦人のうえにもふりかかってくるものとしか考えないのは当然である。
たんなる生産用具にすぎない婦人の地位を廃止することこそわれわれの目的であるということなどは、彼らには思いもよらないのである。
いずれにせよ、共産主義者のいわゆる公認の婦人共有とやらにたいして、わがブルジョアたちのしめす高潔な道徳的な義憤ほど、わらうべきものはない。共産主義者が婦人の共有を実施するまでもない。それはほとんどいつの世にも存在していたのだ。
わがブルジョアどもは、公認の売淫制度のことはさておいても、彼らのプロレタリアの妻や娘を自由にできるだけではまだ満足せず、自分たちの妻を互いに誘惑しあうことを無情の楽しみとしている。
ブルジョア的結婚は、実際には妻の共有である。だから、共産主義者を責めるにしても、せいぜい、共産主義者は、偽善的な、かくれた婦人共有のかわりに、公認の、おおっぴらな婦人共有をやろうとしている、といって非難するのが関の山であったはずだ。いずれにせよ、今日の生産関係の廃止とともに、この関係からうまれる婦人共有、すなわち公私の売淫もまた、なくなることは、おのずからあきらかである。
共産主義者はさらに、祖国を、民族性を廃止しようとのぞんでいるものとして、非難されている。
労働者は祖国をもたない。彼らがもたないものを、それからとりあげることはできない。プロレタリアートは、まずもって政治支配をかちとって、民族的階級にみずからをたかめ、自分自身を民族として組織しなければならないという点では、ブルジョアジーの意味とはまったくちがうとはいえ、プロレタリアート自身やはり民族的である。
諸国民の国家的な分離と対立とは、ブルジョアジーの発展につれて、商業の自由や、世界市場や、工業生産とこれに対応する生活関係の一様化につれて、すでにしだいに消滅しつつある。
プロレタリアートの支配は、ますますこれを消滅させるであろう。すくなくとも文明諸国の共同行動が、プロレタリアートの解放の第一条件の一つである。
一個人が他の個人を搾取することがなくなれば、それに応じて一民族が他の民族を搾取することもなくなる。
一民族の内部の階級対立がなくなれば、民族と民族とのあいだの敵対関係もまたなくなる。
共産主義にたいして、宗教や、哲学や、そのほか一般に思想的な見地からくわえられている非難は、さしてくわしく論じる値うちはない。
人間の生活関係、その社会関係、その社会的存在とともに、人間の観念や見解や概念、一言でいえば人間の意識もまた変化することを理解するのに、深い洞察がいるであろうか?
思想の歴史がしめすものは、精神的生産は物質的生産とともに変化する、ということにほかならないではないか? ある時代の支配的な思想は、つねにその支配階級の思想にすぎなかった。
思想が全社会を変革することがあるといわれる。だがこれは、古い社会の内部に新しい社会の諸要素がすでに形成されているという事実、古い生活関係の解体に古い思想の解体が歩調をあわせるという事実を、いいあらわしたものにすぎない。
古代社会が没落しかけていたとき、古代の諸宗教はキリスト教によって征服された。一八世紀にキリスト教思想が啓蒙思想〔23〕にやぶれたとき、封建社会は、当時の革命的ブルジョアジーと必死の闘争をたたかっていた。信教の自由、宗教の自由という思想は、ただ意識の分野において自由競争の支配を言明したものにすぎない。
けれども、宗教、道徳、哲学、政治、法等々の思想は、なるほど歴史的発展がすすむにつれて変化したが、宗教、道徳、哲学、政治、法そのものは、こうした変化のうちにも、つねにたもたれてきた、という人があろう。
そればかりでなく、自由、正義などという、あらゆる社会状態に共通の永遠の真理がある、それなのに共産主義は、永遠の真理を廃止する、宗教や道徳を改革するのではなく、これを廃止する、だから、共産主義はこれまでのあらゆる歴史的発展と矛盾する、と。
この非難は、結局なにを意味するか? およそ、これまでの社会の歴史は階級対立を通じてうごいてきた。そして、この階級対立は時代によってちがった形をとった。
しかし、階級対立の形はどうであろうとも、社会の一部が他の部分を搾取していたことは、過去の時代の全体に共通の事実である。だから、すべての時代の社会意識が、じつに多種多様であるにもかかわらず、ある共通の形態をとって、すなわち階級対立が完全に消滅するときにはじめて完全に解消するところの形態、意識形態をとってうごいてきたことは、おどろくにあたらない。
共産主義革命は、伝来の所有関係とのもっとも根本的な断絶である。したがって、その発展途上において伝来の諸思想ともっとも根本的に絶縁することは、おどろくにあたらない。
だが、共産主義にたいするブルジョアジーの反対論は、これくらいにしておこう。
以上にすでに見たように、労働者革命の第一歩は、プロレタリアートを支配階級にたかめること〔24〕、民主主義をたたかいとることである。
プロレタリアートは、ブルジョアジーからしだいにいっさいの資本をうばいとり、いっさいの生産用具を、国家、すなわち支配階級として組織されたプロレタリアートの手に集中し、生産力の量をできるかぎり急速に増大させるために、その政治的支配を利用するであろう。
もちろんこのことは、はじめは所有権とブルジョア的生産関係とへの専制的な侵害を通じてのみおこなわれる。したがって、経済的には不十分で、長もちしえないように見えるが、運動がすすむにつれて自分自身をのりこえて前進し、しかも全生産様式を変革する手段として不可欠であるような諸方策によってのみおこなわれるのである。
これらの方策は、当然、国によっていろいろであろう。
しかしもっともすすんだ国々では、つぎの諸方策がかなり全般的に適用されるであろう。――
一 土地所有を収奪し、地代を国家の経費にあてる。
二 強度の累進税。
三 相続権の廃止。
四 すべての亡命者および反逆者の財産の没収。
五 国家資本によって経営され、排他的独占権をもつ一国立銀行を通じて信用を国家の手に集中する。
六 運輸機関を国家の手に集中する。
七 国有工場、生産用具の増加。共同の計画による土地の開墾と改良。
八 万人にたいする平等の労働義務。産業軍の編成、とくに農業のためのそれ。
九 農業と工業の経営の結合。都市と農村の対立の漸次的除去。
一〇 すべての児童にたいする公共無料教育。現在の形の児童の工場労働の廃止。教育と物質的生産との結合。その他。
発展のすすむにつれて、階級の差別が消滅し、すべての生産が協同した諸個人の手に集中されたならば、公的権力は政治的な性格をうしなう。本来の意味の政治権力は、一つの階級が他の階級を抑圧するための組織された暴力である。プロレタリアートは、ブルジョアジーとの闘争において必然的にみずからを階級に結成し、革命によってみずから支配階級となり、そして支配階級として強制的に旧生産関係を廃止するが、他方またこの生産関係の廃止とともに、階級対立の存在条件、一般に階級の存在条件を、それによってまた階級としての自分自身の支配をも、廃止するのである。
階級と階級対立とをともなう旧ブルジョア社会にかわって、各人の自由な発展が万人の自由な発展の条件となるような一つの協同社会があらわれる。
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