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なお、このテキストはTAMO2さんのご厚意により「国際共産趣味ネット」所蔵のデジタルテキストをHTML化したものであり、日本におけるその権利は大月書店にあります。現在、マルクス主義をはじめとする経済学の古典の文章は愛媛大学赤間道夫氏が主宰するDVP(Digital
Volunteer Project)というボランティアによって精力的に電子化されており、TAMO2さんも当ボランティアのメンバーです。 http://www.cpm.ll.ehime-u.ac.jp/AkamacHomePage/DVProject/DVProjectJ.html http://www5.big.or.jp/~jinmink/TAMO2/DT/index.html |
☆ 第五章 国家死滅の経済的基礎
マルクスは、彼の『ゴータ綱領批判』(一八七五年五月五日付ブラッケあての手紙)。これは、一八九一年にはじめて『ノイエ・ツァイト』、第九年、第一巻に発表され、ロシア語では単行本として出版されている)のなかで、この問題を非常に詳しく解明している。この注目すべき著作の論戦的な部分は、ラッサール主義の批判であるが、それは、この著作の積極的な部分、すなわち共産主義の発展と国家の死滅との関連の分析を、いわばぼやけさせたとも言える。
★ 一 マルクスの問題提起
一八七五年五月五日付ブラッケあてのマルクスの手紙と、さきに考察した一八七五年三月二十八日付ベーベルあてのエンゲルスの手紙とを表面的に比較すると、マルクスはエンゲルスよりもはるかに「国家びいき」で、両著者の国家観の相違はきわめていちじるしいように見えるかもしれない。
エンゲルスは、国家についてのおしゃべりをまったくやめ、国家という言葉を「共同社会」という言葉ととりかえて、綱領から国家という言葉を完全に放逐するように、ベーベルにすすめている。エンゲルスは、コンミューンはもはや本来の意味の国家ではなかった、とさえ言明している。ところが、マルクスは、「共産主義社会の未来の国家制度」さえうんぬんしている。すなわち、共産主義のもとでさえ国家が必要であることを認めているかのようである。
しかし、こうした見解は、根本的に誤りであろう。いっそう詳しく考察すればわかるように、国家とその死滅についてのマルクスとエンゲルスの見解は完全に一致していて、マルクスの前記の表現はまさにこの死滅しつつある国家制度をさしているのである。
将来の「死滅」の時点を決めることが問題にさえなりえないことは明らかである。この死滅は明らかに長期にわたる過程なのであるから、なおさらそうである。マルクスとエンゲルスの外見上の相違は、彼らがとりあげた主題の相違、彼らが追求した課題の相違によるものである。エンゲルスは、国家についての流行の偏見(ラッサールもすくなからずこの偏見をもっていた)がまったくばかげていることを、はっきりと、鋭く、大きなタッチでベーベルに示すことをその課題とした。マルクスの関心は、共産主義社会の発展という他の主題にあったので、この問題にはついでにふれているにすぎない。
マルクスの全理論は、発展の理論――もっとも首尾一貫した、完全な、考えぬかれた、内容豊富なかたちの――を、近代資本主義に適用したものである。マルクスが、この理論を資本主義のきたるべき崩壊にも、将来の共産主義の将来の発展にも適用する問題に直面したのは、当然である。
では、将来の共産主義の将来の発展の問題は、どんな資料にもとづいて提起することができるか?
その根拠は、共産主義が資本主義から発生するものであり、歴史的に資本主義から反転するものであり、資本主義によって生みだされた社会勢力の作用の結果である、ということである。マルクスには、ユートピアを考えだしたり、知ることのできないことにむだな憶測をめぐらしたりする企てはすこしもない。マルクスは、自然科学者が、たとえば生物学上の新しい変種があるかたちで発生し、ある一定の方向に形態変化することを知って、この変種の発展の問題を提起するのと同じように、共産主義の問題を提起している。
まず最初にマルクスは、ゴータ綱領が国家と社会の相互関係の問題にもちこんだ混乱を一掃する。
彼はこう書いている。・・・・「今日の社会とは資本主義社会である。それは、中世的なまぜものから多かれ少なかれ解放され、それぞれの国の特殊な歴史的発展によって多かれ少なかれ修正され、多かれ少なかれ発展したかたちですべての文化国に存在する。これに反して、『今日の国家』は国境につれて変化する。それは、プロシア=ドイツ帝国とスイスとでは違っており、イギリスとアメリカ合衆国とでは違っている。だから、『今日の国家』は一つの擬制である。
けれども、いろいろの文化国にあるいろいろの国家は、その形態はいろいろで雑多であるにもかかわらず、近代ブルジョア社会の地盤のうえに立っている点ではみな共通しており、ただこの社会の資本主義的発展の度合いに大小の差があるだけである。だから、それらの国家はまた、ある本質的な性格を共通にもっている。この意味でわれわれは、それが今日の根底であるブルジョア社会が死滅した未来と対比して、『今日の国家制度』を論じることができるのである。
そうすると、問題になるのは、国家制度は共産主義社会ではどんなふうに変わるのか、ということである。この問題には科学的に答えるほかはなく、人民という言葉と国家という言葉を千度も結びあわせたところで、蚤(ノミ)の一跳(ハ)ねほども問題に近づきはしないのである」〔選集、第一二巻、二五三―二五四ページ〕。
こういうふうに、マルクスは、「人民国家」についてのあらゆるおしゃべりを嘲笑したのちに、問題を提起して、この問題に科学的にこたえるためには、科学的に確定された資料しかもちいてはならないと、いわば警告しているのである。
発展理論全体により、また一般に科学全体によって、まったく正確に立証されている第一のこと――空想主義者が忘れていたこと、そして、社会主義革命をおそれる今日の日和見主義者が現に忘れていること――それは、資本主義から共産主義への移行の特殊な段階、あるいは特殊な時期が、歴史上うたがいもなく存在するにちがいない、という事情である。
★ 二 資本主義から共産主義への移行
マルクスはこうつづけている。・・・・「資本主義社会と共産主義社会とのあいだには、前者から後者への革命的転化の時期がある。この時期に照応してまた政治上の過渡期がある。この過渡期の国家はプロレタリアートの革命的独裁でしかありえない」〔選集、第一二巻、二五四ページ〕。
マルクスのこの結論は、近代資本主義社会でプロレタリアートが演じている役割の分析と、この社会の発展についての資料、プロレタリアートとブルジョアジーとの対立する利害の非和解性についての資料とをともにしている。
それまでは、問題はつぎのようなかたちで提起されていた。すなわち、プロレタリアートは、自分の解放をかちとるためには、ブルジョアジーを打倒し、政治権力を獲得し、その革命的独裁をうちたてなければならない、と。
ここでは問題は、いくらか違ったかたちで提起されている。共産主義へ発展しつつある資本主義社会から共産主義社会への移行は、「政治上の過渡期」なしには不可能である、そして、この時期の国家は、プロレタリアートの革命的独裁でしかありえない、と。
では、この独裁と民主主義との関係はどうか?
われわれが見てきたように、『共産党宣言』では、「プロレタリアートを支配階級に転化させること〔(原文)支配階級の地位に高めること〕」と「民主主義をたたかいとること」という二つの概念を、たんに並列させているだけである。資本主義から共産主義へ移行するさいに民主主義がどう変化するかは、上述のすべてのことにもとづいて、いっそう正確に規定することができる。
資本主義社会がもっとも順調に発展する条件があるばあいには、この社会には民主的共和制というかたちである程度完全な民主主義がある。しかし、この民主主義は、つねに資本主義的搾取の狭いわくでせばめられているので、実際には、つねに、少数者のための民主主義、有産階級だけのための、富者だけのための民主主義にとどまっている。資本主義社会の自由は、つねに、古代ギリシアの諸共和国における自由、すなわち奴隷所有者のための自由と大差のないものにとどまっている。近代の賃金奴隷は、資本主義的搾取の諸条件のために、いまなお窮乏と貧困におしつぶされているので、彼らには「民主主義どころではなく」、また「政治どころではなく」、諸事件が普通のかたちで平穏にすすんでいるばあいには、住民の大多数は公けの政治生活への惨禍からしめだしをくっている。
この主張の正しさを、もっとも明瞭に立証するものは、おそらくドイツであろう。というのは、この国では、憲法上の合法性は、驚くほど長期間、堅固に、ほとんど半世紀のあいだ(一八七一年から一九一四年まで)維持されてきたし、またこの期間に社会民主党は、「合法性の利用」の点で、また世界のどこにも見られないほど高い比率で労働者を政党へ組織する点で、他の国々にくらべて、はるかに多くのことをなしとげることができたからである。
では、これまで資本主義社会で見られた最高の比率だという、この政治的に自覚した活動的な賃金奴隷の占める比率は、どのくらいか? 社会民主党の党員は、一五〇〇万人の賃金労働者のうちの一〇〇万人である! 労働組合に組織されているものは、一五〇〇万人のうちの三〇〇万人である!
とるにたらぬ少数者のための民主主義、富者のための民主主義――これが資本主義社会の民主主義である。資本主義的民主主義の仕組みをよく調べてみると、いたるところ、どこにも、選挙法の「小さな」――言うところの小さな細目(居住資格、婦人の除外等々)においても、代議機関の運営技術においても、集会の権利の事実上の妨害(公共の建物は「こじき」につかわせるためにあるのではない!)においても、日刊新聞の純資本主義的な組織、その他等々においても、民主主義が制限につぐ制限をうけているのを見るであろう。貧乏人にたいするこれらの制限、例外、除外、妨害は、小さいことのように思われる。とくに、自分ではかつて窮乏を経験したことがなく、被抑圧階級の大衆生活に接触したことのない者(ブルジョア政論家やブルジョア政治家の一〇〇人中九九人ではないとしても、一〇人中九人まではこうした連中である)の目にはそうである。――しかし、これらの制限が総合されると、それは、貧乏人を政治から、民主主義への積極的な参加から除外し、おしのける。
マルクスが、コンミューンの経験を分析して、被抑圧者は、数年にいちど、抑圧階級のどの代表者が議会で彼らを代表し、ふみにじるべきかを決定することをゆるされる! と言ったのは、資本主義的民主主義のこの本質をみごとにつかんだものである。
しかし、自由主義的教授や小ブルジョア日和見主義者が考えているように、この資本主義的民主主義――不可避的にせまく、貧乏人をこっそりとおしのけている民主主義、したがって徹頭徹尾偽善的で、いつわりの民主主義――から、「ますます完全な民主主義へ」と、単純に、まっすぐに、すらすらと発展がおこなわれるわけではない。そうではない。前向きの発展、すなわち共産主義への発展は、プロレタリアートの独裁をつうじておこなわれるのであって、それ以外の進み方はありえない。なぜなら、資本家的搾取者の反抗を打ち砕くことは、他のだれにも、他のどんな方法でもできないからである。
しかし、プロレタリアートの独裁、すなわち抑圧者を抑圧するために被抑圧者の前衛を支配階級に組織することは、民主主義の拡大をもたらすだけではない。プロレタリアートの独裁は民主主義を大幅に拡大し、民主主義ははじめて富者のための民主主義ではなしに、貧者のための民主主義、人民のための民主主義になるが、これと同時に、プロレタリアートの独裁は、抑圧者、搾取者、資本家にたいして、一連の自由の除外例をもうける。人類を賃金奴隷制から解放するためには、われわれは彼らを抑圧しなければならないし、彼らの反抗を力をもって打ち砕かなければならない。――抑圧のあるところ、暴力のあるところに、自由はなく、民主主義はないことは、明らかである。
エンゲルスは、ベーベルにあてた手紙のなかで、このことをみごとに表現して、読者も思い出されるであろうが、こう言っている。「プロレタリアートがまだ国家を必要とするあいだには、自由のためにではなく、その敵を抑圧するためにそれを必要とするのであって、自由を語ることができるようになるやいなや、国家は存在しなくなります」、と。
人民の多数者のための民主主義と、人民の搾取者、抑圧者にたいする暴力的抑圧、すなわち民主主義からのその排除――これが資本主義から共産主義への移行にさいして民主主義のこうむる形態変化である。
資本家の反抗がすでに最終的に打ち砕かれ、資本家がいなくなり、階級がなくなった(すなわち、社会的生産手段にたいする関係について、社会の成員のあいだに差別がなくなった)共産主義社会においてはじめて、「国家は消滅し、自由を語ることができるようになる」。そのときはじめて、ほんとうに完全な民主主義、ほんとうになんの例外例もない民主主義が可能になり、実現されるであろう。そして、そのときはじめて、民主主義は、つぎの単純な事情の結果、死滅しはじめるであろう。すなわち、資本主義的奴隷制から解放された人間、資本主義的搾取の数かぎりない恐ろしさ、野蛮、不合理、醜さから解放された人間は、何世紀ものあいだよく知られ、何千年というものあらゆる格言のなかでくりかえされてきた、共同生活の基礎的な規則をまもる習慣、暴力がなくても、強制がなくても、隷属関係がなくても、国家とよばれる特殊な強制機関がなくても、これらの規則をまもる習慣を、徐々に身につけるであろうということが、それである。
「国家は死滅する」という表現は、非常にうまく選びだされたものである。なぜなら、この表現は、過程の漸次性をも、その自然成長性をも示しているからである。習慣だけが、このような作用を及ぼすことができるし、また疑いもなく及ぼすであろう。なぜなら、われわれが自分の周囲で何百万回も目撃しているように、もし搾取がなく、また人間を憤慨させ、抗議や反抗をよびおこし、抑圧の必要を生みだすものがなにもなければ、人間は、自分たちに必要な共同生活の規則をまもる習慣をたやすく身につけるからである。
こういうふうに、資本主義社会には、富者だけのための、少数者だけのための、切りちぢめられた、片輪な、にせものの、民主主義がある。プロレタリアートの独裁、すなわち共産主義への過渡期がはじめて、少数者、搾取者にたいする必要不可欠な抑圧とともに、人民のための、多数者のための民主主義をもたらすであろう。共産主義だけが、ほんとうに完全な民主主義を与えることができる、そして、民主主義が完全なものになればなるほど、ますます急速に民主主義は不必要になって、ひとりでに死滅するであろう。
言いかえれば、資本主義のもとでは、本来の意味の国家がある。すなわち、一階級が他の階級を抑圧するための、しかも少数者が多数者を抑圧するための特殊な機構がある。もちろん、少数者である搾取者が多数者である被搾取者を組織的に抑圧するというようなことができるためには、抑圧がきわめて狂暴で、残忍であることが必要であり、血の海が必要である。そしてじっさい、人類は、奴隷制、農奴制、賃金労働制の状態のもとでは、こうした血の海を渡るのである。
さらに、資本主義から共産主義へ移行するさいには、抑圧はまだ必要であるが、しかし、それはすでに多数者である被搾取者が少数者である搾取者にくわえる抑圧である。抑圧のための特殊な機関、特殊な機構である「国家」は、まだ必要であるが、しかしそれはすでに過渡的な国家であり、すでに本来の意味の国家ではない。なぜなら、多数者である昨日までの賃金奴隷が少数者である搾取者を抑圧することは、奴隷や農奴や賃金労働者の反乱を抑圧することよりも、比較的容易で、簡単で、自然なことなので、はるかにわずかな流血ですむであろうし、人類にとってはるかに少ない犠牲ですむだろうからである。そして、この抑圧は、抑圧のための特殊な機構の必要が消滅しはじめるほど圧倒的な、住民の多数への民主主義の拡大と両立するものである。搾取者は、当然のことであるが、このような任務を遂行するためのきわめて複雑な機構なしには、人民を抑圧することができない。ところが、人民は、非常に簡単な「機構」によっても、それどころかほとんど「機構」がなくても、特殊な機関がなくても、たんなる武装した大衆の組織(さきまわりして言えば、労働者・兵士代表ソヴェトのような)によっても、搾取者を抑圧することができる。
最後に、共産主義だけが、国家を完全に不必要にする。なぜなら、抑圧すべき相手がだれもいない――階級という意味で、住民の一定の部分との組織的闘争という意味で、「だれも」いない――からである。われわれは空想主義者ではないから、個々人が不法行為をおかす可能性と不可避性をすこしも否定しないし、また、このような不法行為を抑圧する必要をも否定しない。しかし、第一は、そのためには、抑圧のための特殊な機構、特殊な機関を必要とはしない。武装した人民自身が、簡単に、容易に――ちょうど今日の社会においてすら、文明人の集まりでさえあれば、簡単に、容易にけんかしている人々をひきわけ、婦女子への暴行をゆるさないように――これを遂行するであろう。第二に、共同生活の規則の侵害である不法行為の根本的な社会的原因が、大衆の搾取、彼らの窮乏と貧困であることを、われわれは知っている。この主要な原因が排除されるとともに、不法行為は不可避的に「死滅し」はじめるであろう。それが、どんなに急速に、またどんな順序で死滅するか、われわれは知らないが、しかし、それが死滅するであろうということは知っている。それが死滅するとともに、国家もまた死滅するであろう。
マルクスは、空想にはふけらずに、この将来にかんして現在規定できること、すなわち、共産主義社会の低い段階(階段、時期)と高い段階との区別を、より詳しく規定している。
★ 三 共産主義社会の第一段階
『ゴータ綱領批判』のなかで、マルクスは、社会のもとでは労働者は「無控除の労働収益」あるいは「全労働収益」を受け取る、というラッサールの思想を、詳しく論駁している。マルクスは、全社会の社会的労働全体のうちから、予備基金(フォンド)、生産拡張基金、「摩損」機械の補填分その他をさしひき、つぎに消費手段のうちから行政費のための基金、学校、病院、養老院その他のための基金をさしひく必要のあることを示している。
ラッサールのぼんやりした、不明瞭な、きまり文句(「全労働収益を労働者へ」)のかわりに、マルクスは、社会主義社会はまさにどういうふうに運営せざるをえないかを、冷静に計算している。マルクスは、資本主義の存在しない社会の生活条件の具体的な分析にとりかかって、つぎのように述べている。
「ここで」(労働者党の綱領を検討するさいに)「問題にしているのは、それ自身の基礎のうえに発展した共産主義社会ではなくて、反対に、資本主義社会から生まれたばかりの共産主義社会である。だからこの共産主義社会には、あらゆる点で、経済的にも道徳的にも精神的にも、この社会が出てきた母胎である旧社会の母斑がまだくっついている」〔選集、第一二巻、二四一ページ〕。
マルクスが、共産主義社会の「第一」段階あるいは低い段階とよんでいるのは、資本主義の母胎からこの世に出てきたばかりで、あらゆる点で旧社会の母斑のくっついているこの共産主義社会のことにほかならない。
生産手段はすでに個々人の私有財産ではなくなっている。生産手段は社会全体のものである。社会の各成員は、社会的に必要な労働の一定部分を遂行して、これこれの量の労働を給付したという証明書を社会から受け取る。この証明書で、彼は消費手段の公共の倉庫から、それに相当する量の生産物を受け取る。したがって、各労働者は、共同の基金にあてられる労働量を控除したうえで、彼が社会に与えただけのものを社会から受け取る。
「平等」がひろくおこなわれているかのようである。
しかし、ラッサールが、このような社会制度(ふつう社会主義とよばれているが、マルクスにあっては、共産主義の第一段階とよばれているもの)を念頭において、これが「公正な分配」であり、「平等な労働収益にたいする各人の平等な権利」であると言っているのは、誤っている。そこで、マルクスは彼の誤りを明らかにしている。
マルクスはこう言っている、ここには、じじつ「平等な権利」があるにはあるが、しかし、これはまだ「ブルジョア的権利」であって、他のあらゆる権利と同じように不平等を前提としている。すべて権利とは、実際には等しくなく、たがいに平等でない異なった人間に、等しい尺度をあてはめることである。したがって、「平等な権利」とは、平等の侵害であり、不公正である。じっさい、各人は、他の人々と平等な社会的労働の部分を給付したのちに、社会的生産物(前述の控除をおこなったうえで)の平等な分けまえを受け取る。
ところで、個人は平等ではない。ある者は力が強いのに、他の者は弱いとか、ある者は結婚しているのに、他の者は結婚していないとか、ある者は子供がたくさんいるのに、他の者は少ないとか、等々。
マルクスはこう結論している。・・・・「労働の給付は平等であっても、したがって社会的消費基金にたいする持ち分は平等であっても、ある者は他の者より事実上多く受け取り、ある者は他の者より富んでいる、等々、ということになる。すべてこういう欠陥を避けるためには、権利は平等ではなく、不平等でなければならないだろう」・・・・〔選集、第一二巻、二四三ページ〕。
したがって、公平と平等とを、共産主義の第一段階はまだ与えることができない。富の差別、しかも不公正な差別はのこっている。しかし、人間が人間を搾取することは不可能になるであろう。なぜなら、生産手段、すなわち、工場、機械、土地、その他を私有財産としてわがものにすることはできないからである。「平等」と「公正」一般という、ラッサールの小ブルジョア的な不明瞭な文句を粉砕しながら、マルクスは、共産主義社会の発展の進路を示している。共産主義社会は、最初は個々人が生産手段をわがものにしているという「不公正」だけを廃絶するにとどまらざるをえない。そして、消費手段を「労働に応じて」(欲望に応じてでなしに)分配するというその次の不公正を、ただちに廃絶することはできない。
ブルジョア教授連――そのなかには「わが」トゥガンもいるが――をふくめて俗流経済学者は、社会主義者が人間の不平等なことを忘れ、この不平等を廃絶しようと「夢みて」いるといって、社会主義者をたえず非難している。このような非難は、ごらんのとおり、ブルジョア・イデオローグ諸君の極端な無知を証明するものにすぎない。
マルクスは、人間の避けがたい不平等をきわめて正確に考慮しているばかりでなく、生産手段を社会全体の共有財産に移す(普通の用語法での「社会主義」)だけでは、まだ分配の欠陥と「ブルジョア的権利」の不平等とを除去するものではなく、生産物が「労働に応じて」分配されるかぎり、「ブルジョア的権利」は支配しつづけることをも考慮している。
マルクスはこうつづけている。・・・・「しかし、こうした欠陥は、長い生みの苦しみののち資本主義社会から生まれたばかりの共産主義社会の第一段階では、避けることができない。権利は、社会の経済的構成およびそれによって制約される文化の発展より高度のものには、けっしてなることができない」・・・・〔選集、第一二巻、二四三ページ〕。
こうして、共産主義社会の第一段階(これが普通には社会主義とよばれている)では、「ブルジョア的権利」は、完全に廃止されるのではなく、部分的にだけ、すでに達成された経済的変革の度合いに応じてだけ、すなわち生産手段にかんしてだけ、廃止されるのである。「ブルジョア的権利」は、生産手段を個々人の私有財産として認める。社会主義はこれを共有財産にする。そのかぎりで、――そのかぎりでだけ――「ブルジョア的権利」はなくなる。
しかし、「ブルジョア的権利」は、この権利ののこりの部分にかんしては、社会成員のあいだの生産物の分配と労働の分配との規制者(規定者)として、やはりのこっている。「働かざるものは食うべからず」――この社会主義的原則は、すでに実現されている。「等しい量の労働に等しい量の生産物を」――この社会主義的原則もまたすでに実現されている。けれども、これはまだ共産主義ではない。そして、これはまだ、不平等な人間の不平等な(事実上不平等な)量の労働にたいして、等しい量の生産物を与える「ブルジョア的権利」を除去するものではない。
マルクスは言う。これは「欠陥」である、しかし、それは共産主義の第一段階では避けることができない。なぜなら、資本主義を打ち倒すやいなや、人々は権利の基準をすべてぬきにして社会のために働くことをただちに学ぶ、などと考えることは、空想に陥らずには不可能なことであるし、しかも資本主義の廃止は、このような変化の経済的諸前提をただちに与えるものではないからである、と。
しかし、「ブルジョア的権利」以外の基準はない。そして、そのかぎりでは、生産手段の共有を保護しながら、労働の平等と生産物の分配の平等とを保護する国家の必要はなおのこっている。
資本家はもはやいない、階級はすでになくなっている、したがってまた、どんな階級にせよ階級を抑圧することはできないというかぎりでは、国家は死滅する。
しかし、国家はまだ完全に死滅したのではない。なぜなら、事実上の不平等を是認する「ブルジョア的権利」が依然として保護されているからである。国家が完全に死滅するためには、完全な共産主義が必要である。
★ 四 共産主義社会の高い段階
マルクスはこうつづけている。
・・・・「共産主義社会の高い段階で、個人が分業に奴隷的に従属することがなくなり、それTともにまた精神労働と肉体労働の対立が消滅したのち、労働が生きるための手段であるだけでなく、それ自体第一の生活欲求となったのち、個人の全面的な発展にともなって生産力も増大し、協同的富のすべての源泉がいっそう豊かにわきでるようになったのち――そのときはじめて、ブルジョア的権利の狭い限界を完全にふみこえることができ、社会はその旗にこう書くことができる、――『各人はその能力に応じて、各人はその欲望に応じて!』」〔選集、第一二巻、二四三―二四四ページ〕。
いまはじめてわれわれは、「自由」という言葉と「国家」という言葉を組み合わせるばかばかしさを容赦なく嘲笑したエンゲルスの評言がまったく正しかったことを、十分に評価することができる。国家が存在するあいだは、自由はない。自由があるときには、国家は存在しないであろう。
国家の完全な死滅の経済的基礎は、精神労働と肉体労働との対立が消滅するほどに、したがって現代の社会的不平等のもっとも重要な源泉の一つ、しかも、生産手段を共有財産に移すだけでは、資本家を収奪するだけでは、けっして一挙に除去することのできないような源泉が消滅するほどに、共産主義が高度の発展をとげることである。
この収奪は、生産力の巨大な発展の可能性を与えるであろう。そして、いまでももう資本主義がこの発展を信じられないほど阻止していること、また、すでに達成された現代技術を基礎として大幅の前進が可能であることを見るとき、われわれは、資本家の収奪が人類社会の生産力の巨大な発展をかならずもたらすであろうと、確信をもっていう権利がある。しかし、この発展がどれほど急速にすすむか、それがどれほど急速に分業と手を切り、精神労働と肉体労働との対立を廃絶し、労働を「第一の生活欲求」に転化するようになるか、われわれはそれを知らないし、また知ることもできない。
だからこそ、われわれは、国家は不可避的に死滅すると言うにとどめて、この過程が長期にわたること、それが共産主義の高い段階の発展速度にかかっていることを強調し、死滅の起源や死滅の具体的形態の問題は、まったく未解決のままにしておくことが至当である。なぜなら、これらの問題を解決する材料がないからである。
社会が「各人はその能力に応じて、各人にはその欲望に応じて」という準則を実現するとき、すなわち、人間が能力に応じて自発的に労働するほどに、共同生活の基本的な規則をまもる習慣を十分に身につけ、彼らの労働がそれほど生産的なものとなるとき、そのとき国家は完全に死滅することができるであろう。他人より半時間でもよけいに働かないように、他人より少ない給料をもらわないようにと、シャイロック流の冷酷さで人間にそろばんをはじかせる「ブルジョア的権利の狭い限界」――この狭い限界は、そのときふみこえられるであろう。そのときには、生産物を分配するにも、各人の受け取る生産物の量を社会が規制する必要はなくなり、各人は「その欲望に応じて」自由に取るであろう。
ブルジョア的見地からすれば、このような社会組織を「純然たるユートピア」だと宣言し、社会主義者は、個々の市民の労働をすこしも統制せずに、松露や自動車やピアノ等を好きなだけ社会から受け取る権利を各人に約束する、と言って冷笑することは、容易である。ブルジョア「学者」の大多数は、いまでも、こういう冷笑でお茶をにごしているが、彼らは、これによって、自分の無知と自分の欲得ずくの資本主義擁護とを暴露しているのである。
無知だというわけは、共産主義の高い発展段階のやってくることを「約束」しようなどとは、社会主義者のだれひとり思いもよらなかったし、またそれがやってくるという偉大な社会主義者たちの予見は、今日の労働生産性を前提とするものでもなければ、社会的富の倉庫を「いたずらに」――ポミャロフスキーの神学生〔*〕のように――荒らしたり、不可能なことを要求したりしかねない今日の俗物を前提とするものでもないからである。
共産主義の「高い」段階がやってくるまでは、社会主義者は、労働の基準と消費の基準にたいする、社会と国家のきわめて厳重な統制を要求する。ただこの統制は、資本家の収奪、資本家にたいする労働者の統制から始められ、しかも官吏の国家によってではなく、武装した労働者の国家によっておこなわれなければならないのである。
ブルジョア・イデオローグ(とツェレテリ氏やチェルノフ氏の一派のようなその腰巾着(ギンチャク))の欲得ずくの資本主義擁護は、じつに、彼らが、今日の政治上の緊急で焦眉の問題、すなわち資本家を収奪する問題や、すべての市民を一大「シンジケート」――すなわち国家全体――の労働者と勤務員に転化する問題や、この全シンジケートの全活動を真に民主主義的な国家である労働者・兵士代表ソヴェトの国家に完全に従属させる問題を、遠い将来についての論争やおしゃべりにすりかえているところにある。
博学な教授、それにつづく俗物、またそれにつづくツェレテリ氏らやチェルノフ氏らが、無思慮なユートピアだとか、ボリシェヴィキのデマゴギー的な約束だとか、社会主義を「導入する」ことは不可能だとか言うとき、彼らが念頭においているのは、実質上、まさに共産主義の高い段階であるが、こういう段階を「導入する」ことなど、だれも約束しなかったばかりか、考えたことさえないのである。なぜなら、こういう段階を「導入する」ことは、およそできないことだからである。
ここでわれわれは、社会主義と共産主義との科学上の差異の問題にたどりついた。これは、エンゲルスが「社会民主主義者」という名称の正しくないことを論じた前掲の彼の考察のなかでふれている問題である。政治的に見れば、共産主義の第一の段階あるいは低い段階と高い段階との差異は、早晩、おそらく巨大なものとなるであろう。しかし現在、資本主義のもとで、それを確認しようというのはこっけいなことであろうし、それを第一に重視することができるのは、個々の無政府主義者だけであろう(これは、クロポトキン、グラーヴ、コルネリッセンその他の無政府主義の「花形」が社会排外主義者に、あるいは――自尊心と良心とをもちつづけている少数の無政府主義者のひとりであるゲーの表現によれば――アナルコ塹壕ほり主義者に「プレハーノフ的に」転化したのちにも、なんの教訓もくみとれなかった人間がまだ無政府主義者のあいだにいるとしての話だが)。
しかし、社会主義と共産主義との科学上の差異は明白である。ふつう社会主義とよばれているものを、マルクスは共産主義社会の「第一」段階、あるいは、低い段階とよんだ。生産手段が共有財産になるのであるから、これが完全な共産主義でないことを忘れなければ、「共産主義」という言葉は、このばあいにも使ってさしつかえない。マルクスの解明の大きな意義は、彼が、ここでも発展の学説である唯物弁証法を首尾一貫して適用し、共産主義を資本主義から発展してくるものと見ている点にある。マルクスは、スコラ哲学的にでっちあげた、「考えだされた」諸規定や、無益な言葉の争い(社会主義とはなにか、共産主義とはなにか)のかわりに、共産主義の経済的成熟度の諸段階とでもよべるものを分析している。
共産主義は、その第一段階、その第一段ではまだ、経済的に完全に成熟したもの、資本主義の伝統や痕(コン)跡から完全に自由なものではありえない。第一段階の共産主義のもとには「ブルジョア的権利の狭い限界」がのこっている、といった興味ぶかい現象は、ここから起こってくる。消費資料の分配についてのブルジョア的権利は、もちろん、不可避的に、ブルジョア国家をも前提としている。なぜなら、権利というものは権利の基準の遵守を強制できる機関なしには、ないのも同然だからである。
そこで、共産主義のもとでは、ある期間、ブルジョア的権利がのこっているばかりでなく、ブルジョア国家さえ――ブルジョアジーがいないのに――のこっていることになる!
これは、逆説あるいはたんに弁証法的な観念の遊戯と思われるかもしれない。マルクス主義の異常に深い内容を研究する労をすこしもはらわなかった人々はしばしば、マルクス主義をこうした観念の遊戯だといって非難する。
実際には、新しいもののなかに古いものの残存物があることは、自然でも、社会でも、いたるところで実生活がわれわれに示している。そしてマルクスは、「ブルジョア的権利」のかけらを勝手きままに共産主義におしこんだのではなく、資本主義の母胎から出てくる社会では、経済的・政治的に避けられないものをとりあげたのである。
民主主義は、資本主義にたいする労働者階級の解放闘争に非常に大きな意義をもっている。しかし、民主主義は、こえることのできない限界ではけっしてなく、封建制度から資本主義にいたり、資本主義から共産主義にいたる途上の一段階にすぎない。
民主主義は、平等を意味する。平等のためのプロレタリアートのたたかいと平等のスローガンとが大きな意義をもっていることは、平等ということを階級の廃絶という意味に正しく理解するならば、明らかである。しかし、民主主義は形式的な平等を意味するにすぎない。そして、生活手段の所有にかんする社会の全成員の平等、すなわち労働の平等、賃金の平等が実現されるやいなや、ただちに人類のまえには、形式的な平等から実質的な平等にむかって、すなわち「各人はその能力に応じて、各人にはその欲望に応じて」という準則の実現にむかって前進する問題が不可避的に現われる。人類がどんな段階をとおって、またどんな実際措置によって、このより高い目標へすすむか、われわれは知らないし、知ることもできない。しかし、社会主義をなにかある死んだ、硬化した、一度与えられたらそれきりのものと考えるありきたりのブルジョア的観念は、際限もなく誤っていることを、理解することがたいせつである。実際には、社会主義のもとではじめて、社会生活と個人生活のすべての分野で、住民の大多数が参加し、ついで全住民が参加しておこなわれる、急速な、ほんとうの、真に大衆的な運動が始まるのである。
民主主義とは、国家形態であり、国家の一変種である。したがってまた、それは、あらゆる国家と同じように、人間にたいして暴力を組織的・系統的にもちいることである。これは一面である。しかし他面、民主主義とは、市民間の平等の形式的承認を意味し、国家制度を決定し国家を統治する万人の平等な権利の形式的承認を意味する。そして、このことはまた、つぎのようなことと結びついている。すなわち、民主主義は、そのある発展段階で、第一には、資本主義に反対する革命的な階級であるプロレタリアートを団結させて、この階級に、ブルジョア国家機構――たとえ共和制的なブルジョア国家機構であっても――、常備軍、警察、官僚制度を破壊し、こっぱみじんに打ち砕き、地上から一掃し、それらのものを、やはり国家機構ではあるけれども、より民主主義的な――人民を一人のこらず参加させた民兵へと転化してゆく武装した労働者大衆というかたちの――国家機構をもっておきかえる可能性を与える。
ここで「量は質に転化する」。すなわち、民主主義のこのような段階は、ブルジョア社会のわくからぬけだすこと、この社会の社会主義的改造の開始、と結びついている。もしほんとうにすべての人が国家の統治に参加するなら、もはや資本主義は維持されない。そして、資本主義の発展は、逆に、ほんとうに「すべての人」が国家統治に チた Bナある。だから、あらゆる国家は不自由で、非人民的である。 }シ81ヘぢqxゥャ8-vリ.7%茱e蝿z8キpUo! ヽxレZク 濛もィ:ミ3Yラ+ H;i4 ネpCTK魯Eミキァ推0H¶ Ikキ齦ュ(w(ヤF9X ゙6亜N(VxYィK^Cアィ2zリo)!吸tシj >b,0_8!コ02モク,(ミナю/怨3ク Pェぺvpw`vィVク嚶ー :X2ヤ@MI@ 3wフJォ〓H.a繙爛e@PN葺 リ@GR隴x5キ0HKr(D鯔ネ ( zチU艙n:}ルァG2鑚メr Wィァ4ィ蓄
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