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☆ 第三章 国家と革命。一八七一年のパリ・コンミューンの経験。マルクスの分析
★ 一 コンミューン戦士の試みの英雄精神はどういう点にあるか?
周知のように、一八七〇年の秋、コンミューンの数カ月前にマルクスは、政府を倒そうと試みるのはむこうみずな愚行であることを証明して、パリの労働者に警告を発した。しかし、一八七一年三月に、労働者が決戦を強いられて、これに応じ、蜂起が事実となったとき、マルクスは、不吉な前兆があったにもかかわらず、非常な感激をもってプロレタリア革命を歓迎した。マルクスは、悪名をはせたロシアのマルクス主義の背教者プレハーノフがしたように、「時期尚早」の運動にたいする学者ぶった非難を固執しはしなかった。プレハーノフは、一九〇五年十一月には、労働者と農民の闘争を激励するために筆をとりながら、一九〇五年一二月以後には、「武器をとるべきではなかった〔*〕」と自由主義者ふうに悲鳴をあげたのである。
けれども、マルクスはコンミューン戦士の――彼の表現によれば――「天をもおそう」英雄精神に感激しただけではなかった。彼は、この大衆的な革命運動――もっとも目的を達しはしなかったが――を、非常に重要な歴史的経験、世界プロレタリア革命の一定の一歩前進、数百の綱領や議論よりも重要な実践的行動と考えた。この経験を分析し、そこから戦術上の教訓をひきだし、この経験にもとづいて自分の理論を再検討すること――これを、マルクスは自分の任務とした。
マルクスがその必要を認めて『共産党宣言』にくわえた唯一の「修正」は、パリ・コンミューン戦士の革命的経験にもとづいてなされたものである。
その両著者が署名している、『共産党宣言』のドイツ語新版の最後の序文は、一八七二年六月二十四日付になっている。この序文で、著者であるカール・マルクスとフリードリヒ・エンゲルスは、『共産党宣言』の綱領は、「今日では、ところどころ時代おくれになっている」と言っている。
彼らはこうつづけている、・・・・「とりわけコンミューンは『労働者階級は、できあいの国家機構をそのまま奪い取って、自分自身の目的のために動かすことはできない』ということを証明した」・・・・〔全集、第四巻、五九〇―五九一ページ〕。
この引用文のなかで二重かっこにいれた言葉は、両著者が、マルクスの著作『フランスにおける内乱』からかりてきたものである。
このように、マルクスとエンゲルスは、パリ・コンミューンの一つの根本的な、主要な教訓を、非常な重要性をもつものと考えたので、この教訓を『共産党宣言』にたいする本質的な修正として挿入したのである。
非常に意味深長なのは、ほかならぬこの本質的な修正が日和見主義者によって歪曲されていて、この修正の意味が、『共産党宣言』の読者の一〇〇人の九九人ではないにしても、一〇人中の九人には、おそらくわかっていないということである。この歪曲についてはのちに、とくに種々の歪曲を扱った章で、詳しく述べよう。ここでは、つぎのことを指摘しておけば十分であろう。すなわち、まえにあげた有名なマルクスの言葉の今はやりの俗悪な「理解」によると、マルクスがここで強調しているのは、権力の奪取などというようなこととは反対の漸次的発展の思想だ、というのである。
実際は、まさにその逆である。マルクスの考えでは、労働者階級は「できあいの国家機構」を粉砕し、打ち砕くべきであって、それをそのまま奪取するにとどまってはならないというのである。
一八七一年四月十二日、すなわちちょうどコンミューンの当時に、マルクスはクーゲルマンにあててつぎのように書いている。
・・・・「もし君が私の『ブリュメール十八日』の最後の章を見るなら、そこで、私が、フランス革命のつぎの試みは、もはやこれまでのように官僚・軍事機構を一つの手から他の手に移すことではなくてそれを打ち砕く」(ゴシックはマルクス。原文では
zerbrechen)「ことである、と述べていることに気がつくであろう。そして、これは大陸におけるあらゆる真の人民革命の前提条件である。まさにこのことがわれわれの英雄的なパリの党同志たちが企てていることなのだ」(『ノイエ・ツァイト』、一九〇一―一九〇二年、第二〇年、第一巻、七〇九ページ)(マルクスのクーゲルマンあての手紙はロシア語ではすくなくとも二版出ている。その一つは私の編集で、私の序文がついている〔*〕)〔選集、第一一巻、二九五ページ〕。
この「官僚的・軍事的国家機構を打ち砕く」という言葉には、革命における国家にたいするプロレタリアートの任務の問題についてのマルクス主義の主要な教訓が簡潔に表現されている。ところが、ほかならぬこの教訓が完全に忘れさられているだけでなく、支配的な、カウツキー主義的なマルクス主義「解釈」によって、まっこうから歪曲されているのである!
マルクスが『ブリュメール十八日』を引合いに出していることについては、われわれはまえに、該当個所を全文引用しておいた。
前掲のマルクスの考察のうちで、とくに二つの個所を注意しておくことは、興味がある。第一に、彼は、その結論を大陸にかぎっている。これは、イギリスが、まだ純資本主義的な国の手本ではあったが、軍閥がなく、また官僚制度もたいしてなかった一八七一年には、当然であった。だから、マルクスはイギリスを除外した。そこでは、革命は、人民革命でさえ、「できあいの国家機構」の破壊という前提条件がなくても当時は可能であると思われたし、また実際に可能であった。
一九一七年の今日、最初の帝国主義的大戦争の時代には、マルクスのこの限定はなくなる。軍閥と官僚主義が存在しないという意味でのアングロ−サクソン的「自由」の、世界における最大かつ最後の代表者であるイギリスもアメリカも、あらゆるものを自分に従属させ、あらゆるものを抑圧する官僚・軍事制度の、全ヨーロッパ的な、けがらわしい、血なまぐさいどろ沼に完全にころげおちた。いまやイギリスでもアメリカでも、「あらゆる真の人民革命の前提条件」は、「できあいの」(一九一四年から一九一七年に、これらの国で「ヨーロッパ的」、一般帝国主義的な水準に達するほど完成された)「国家機構」を打ち砕き、破壊することである。
第二に、とくに注意をはらう価値があるのは、官僚的・軍事的国家機構の破壊が「あらゆる真の人民革命の前提条件」である、というマルクスの非常に深遠な意見である。「人民」革命というこの概念をマルクスが口にすることは奇異に思われる。そこで、ロシアのプレハーノフ派やメンシェヴィキ、すなわちマルクス主義者と認められたがっている、これらのストルーヴェ追随者たちは、おそらく、マルクスのこうした表現を、「言いそこない」だと主張するかもしれない。彼らは、マルクス主義にきわめて貧弱な自由主義的歪曲をくわえてしまったので、彼らにとっては、ブルジョア革命とプロレタリア革命との対立以外にはなにものもなく、しかもこの対立でさえ極端に硬直したかたちで理解されているのである。
一例として、二十世紀の革命をとるなら、ポルトガル革命〔一九一〇年〕も、トルコ革命〔一九〇八年〕も、もちろんブルジョア革命であると認めなければならない。だが、それらはいずれも「人民」革命ではない。なぜなら、どちらの革命のばあいにも、人民大衆、人民の大多数が、積極的・自主的に、自分自身の経済的および政治的要求をかかげて、顕著な行動に出るということはやっていないからである。これに反して、一九〇五―一九〇七年のロシアのブルジョア革命には、ポルトガル革命やトルコ革命がときとしてめぐまれたような「すばらしい」成功はなかったとはいえ、それは疑いもなく「真の人民」革命であった。なぜなら、人民大衆、人民の大多数、抑圧と搾取に押しつぶされた社会の最「下層」が、自主的に立ち上がって、自分の要求のしるしを、破壊されるべき旧社会のかわりに、自分の流儀で新しい社会を建設しようとする自分の試みのしるしを、革命の経過全体のうえにのこしたからである。
一八七一年のヨーロッパ大陸では、プロレタリアートはどの国でも人民の大多数を占めてはいなかった。現実に人民の大多数を運動にひきいれる「人民」革命は、プロレタリアートも農民もどちらもふくめたときにだけ、「人民」革命となることができた。この両階級が当時まさに「人民」を構成していたのであった。両階級は、「官僚的・軍事的国家機構」が彼らを抑圧し、圧迫し、搾取するために、統一されている。この機構を粉砕し、打ち砕くこと――これが、「人民」の、人民の大多数の、労働者と農民の大多数との真の利益であり、これが貧農とプロレタリアとの自由な同盟の「前提条件」であって、このような同盟なしには、民主主義は不安定であり、社会主義的改造は不可能である。
周知のように、パリ・コンミューンは、このような同盟への道をひらこうとしたが、内的・外的な幾多の原因によって、目的を達しなかった。
したがって、「真の人民革命」を言うにあたって、マルクスは、小ブルジョアジーの特殊性(彼はこれについて多くのことを、しばしば語っている)をすこしも忘れないままに、一八七一年のヨーロッパ大陸の大多数の国家の諸階級の実際の相互関係をきわめて厳密に考慮していた。他方、彼は、国家機構の「粉砕」が労働者のためにも、農民のためにも必要であって、それが両者を統一していること、「寄生体」を除去して、これをある新しいものととりかえるという共通の任務を彼らのまえに提起していることを、確認した。
では、いったい、なにととりかえるのか?
★ 二 粉砕された国家機構をなにととりかえるのか?
この問題にたいして、マルクスは、一八四七年の『共産党宣言』では、まだまったく抽象的な解答を――より正確に言えば――任務を指示してはいるが、その解決方法を指示してはいない解答を与えた。「支配階級としてプロレタリアートを組織すること」、「民主主義をたたかいとること」をもって代える――これが『共産党宣言』の解答であった。
マルクスは、空想にふけることなく、支配階級としてのプロレタリアートのこの組織化がどんな具体的な形態をとることになるか、この組織化と、もっとも完全で徹底した「民主主義をたたかいとること」とが、いったいどんな仕方で結びつくのか、という問題の解答を、大衆運動の経験に期待した。
コンミューンの経験は、きわめてわずかなものではあったが、マルクスは『フランスにおける内乱』で、これを非常に注意ぶかく分析している。この著作のもっとも重要な個所を引用しよう。
一九世紀には「常備軍、警察、官僚、僧侶、裁判官といういたるところにいあわせるその諸機関をもつ」、中世に由来する「中央集権的な国家権力」が発展した。資本と労働の階級敵対の発展につれて「国家権力はますます、労働者階級抑圧のための公的権力、階級支配の機構としての性格〔労働にたいする資本の全国的権力、社会的奴隷化のために組織された公的権力、階級専制の機関としての性格〕をおびてきた。すべて階級闘争の一前進をあらわす〔一前進段階を画する〕ような革命のあとでは、国家権力の純然たる抑圧的な性格がますます露骨に現われてくる。」一八四八―一八四九年の革命ののちには、国家権力は「労働にたいする資本の全国的な戦いの機関」となった。第二帝制はこれをかためた。
「帝制の生反対物がコンミューンであった」。「それは、階級支配の君主制的形態ばかりでなく、階級支配そのものを廃止するような共和制」の「明確な形態であった」〔選集、第一一巻、三二四―三二五、三二七―三二八ページ。レーニンの引用は、マルクスの英語原文のドイツ語訳をもとにしている。重要な相違のある個所では、英語原文を〔〕に入れて示しておく〕。
プロレタリア的、社会主義的共和制のこの「明確な」形態は、どういう点にあったか? それが創出しようとした国家はどんなものであったか?
・・・・「コンミューンの最初の命令は、常備軍を廃止し、それを武装した人民ととりかえることであった」。
この要求は、いまでは、社会主義政党と称したがるすべての党の綱領にはいっている。だが、これらの党の綱領の真価は、二月二十七日の革命の直後に、この要求の実現を実際上放棄したわが国のエス・エルとメンシェヴィキの行動を見れば、なによりもはっきりする!
・・・・「コンミューンは、パリ〔市〕の各区での普通選挙によって選出された市会議員から成っていた。彼らは責任を負い、いつでも〔短期に〕解任することができた。コンミューン議員の大多数は、もちろん、労働者か、労働者階級の公認の代表者かであった」。・・・・
・・・・「これまで中央政府の道具〔手先〕であった警察は、その政治的属性をすぐさまはぎとられて、責任を負う、いつでも解任できるコンミューンの道具〔代理人〕に変えられた。行政府のその他のあらゆる部門の官吏も同じであった。コンミューンの議員をはじめとして、公務は労働者なみの賃金で果たされねばならなかった。国家の高官たちの既得権や交際費は、高官そのものといっしょに姿を消した。・・・・旧政府の物質力の道具〔物質的暴力の要素〕である常備軍と警察をいったん除去してしまうと、コンミューンは、精神的な抑圧力、すなわち『坊主の権力』を打ち砕くことにただちにとりかかった。司法官はあの見せかけの独立性をはぎ取られることになった。・・・・彼らは選挙され、責任を負い、解任できるものとならねばならなかった」〔選集、第一一巻、三二八―三二九ページ〕。
こうして、コンミューンは、破壊された国家機構をいっそう完全な民主主義ととりかえたに「すぎない」、すなわち、常備軍を廃止し、すべての公務員の完全な選挙制と解任制を採用したに「すぎない」ように見える。ところが実際には、この「すぎない」という言葉は、ある制度を、原則的に異なる他の制度と大々的にとりかえることを意味する。ここにほかならぬ「量から質への転化」の一事例が認められる。すなわち、民主主義は、およそ考えられるかぎりもっとも完全に、もっとも徹底的に遂行されると、ブルジョア民主主義からプロレタリア民主主義へ転化し、国家(=一定の階級を抑圧するための特殊な力)から、もはや本来の国家ではないあるものへ転化する。
ブルジョアジーと彼らの反抗を抑圧することは、依然として必要である。コンミューンにとっては、このことはとくに必要であった。そして、コンミューンの敗因の一つは、これを十分断行しなかったところにある。だが、ここでは抑圧機関は、すでに住民の多数者であって、奴隷制のもとでも、農奴制のもとでも、賃金奴隷制のもとでもつねにそうであったように、住民の少数者ではない。ところで、ひとたび人民の多数者自身が、自分の抑圧者を抑圧することになると、抑圧のための「特殊な力」は、もはや不必要である! この意味で、国家は死滅しはじめる。特権的少数者の特殊な制度(特権官僚、常備軍の首脳部)にかわって、多数者自身がこれを直接に遂行することができる。そして、国家権力の諸機能の遂行そのものが全人民的なものになればなるほど、ますます国家権力の必要度は少なくなる。
この点でとくに注目に値するのは、マルクスが強調しているコンミューンのとった処置、すなわち、あらゆる交際費や官吏の金銭上の特権の廃止、すべての国家公務員の俸給の「労働者なみの賃金」水準への引下げである。まさにこの点に、ブルジョア民主主義からプロレタリア民主主義への、抑圧者の民主主義から被抑圧階級の民主主義への、一定の階級を抑圧するための「特殊な力」としての国家から、人民の多数者である労働者と農民の全体の力による抑圧者の抑圧への急転換がもっとも明瞭に現われている。ところが、ほかならぬ、このとくに明瞭な点、国家問題についてはおそらくもっとも重要な点で、マルクスの教訓がもっとも忘れられているのである!通俗的な注釈書――それは無数にあるが――には、このことについてはなにも述べられていない。時代おくれの「素朴な考え」としてこのことを黙殺するのが「慣例」である、――キリスト教が国教の地位を得たのちは、キリスト教徒が民主主義的・革命的精神をもった原始キリスト教の「素朴な考え」を「忘れ」てしまったように。
国家の高官の俸給引下げは、素朴な原始的民主主義の要求に「すぎない」ように見える。最新の日和見主義の「創始者」のひとり、もと社会民主主義者エドゥアルド・ベルンシュタインは、再三、「原始的」民主主義にたいする卑俗なブルジョア的嘲笑をくりかえすのを事とした。すべての日和見主義者や今日のカウツキー派と同様に、彼はつぎの二点をまったく理解しなかった。第一に、資本主義から社会主義への移行は、「原始的」民主主義へある程度「復帰」することなしには不可能なこと(なぜなら、もしそうでなかったなら、住民の大多数、いな全国民による国家機能の遂行へ、どういうふうにして移っていくのか?)、第二に、資本主義と資本主義文化とを基礎とする「原始的民主主義」は、原始時代あるいは前資本主義時代の原始的民主主義とは同じものではない。資本主義文化は、大規模生産、工場、鉄道、郵便、電話その他をつくりだした。そして、これにもとづいて、旧「国家権力」の機能の大多数は、非常に単純化され、登録、記入、点検といった、きわめて単純な作業に帰着させることができるので、これらの機能は、読み書きのできる者ならだれにも容易にできるものとなり、またこれらの機能は普通の「労働者なみの賃金」で容易に遂行できるようになり、これらの機能から、特権的なもの、「上司」的なものの色合いを完全にとりのぞくことができる(またそうしなければならない)。
例外なくすべての公務員が、完全な選挙制となり、いつでも解任できるものになること、彼らの俸給を「労働者なみの賃金」へ引き下げること――これらの簡単で「自明な」民主主義的な方策は、労働者と農民の大多数との利害を完全に一致させつつ、同時に資本主義から社会主義に導くかけ橋となる。これらの方策は、国家的・純政治的社会改造にかんするものではあるが、しかし、もちろん、それは「収奪者の収奪」の実現または準備と関連して、すなわち生産手段の資本主義的私有の社会的所有への移行と関連してはじめて、その意味と重要性とを完全にもつようになる。
マルクスはこう書いている。「コンミューンは、二つの最大の支出源――常備軍と国家官僚制度――をなくすることによって、すべてのブルジョア革命の合言葉である、安上がりの政府を実現した」〔選集、第一一巻、三三二ページ〕。
農民のなかからも、小ブルジョアジーの他の諸層のなかからも、とるにたらぬ少数者だけが「成り上がり」、ブルジョア的な意味で「出世する」、すなわち、金持に、ブルジョアになるか、地位の保証された特権的な官吏になるにすぎない。およそ農民のいるあらゆる資本主義国(大多数の資本主義国はそうであるが)では、農民の大多数は、政府に抑圧されていて、その打倒を待望し、「安上がりな」政府を待望している。これを実現できるものはプロレタリアートだけであり、プロレタリアートは、これを実現することによって、同時に、社会主義的国家改造への第一歩を踏みだすのである。
★ 三 議会制度の廃棄
マルクスはこう書いている。「コンミューンは、議会ふうの団体ではなくて、執行府であると同時に立法府でもある行動的団体でなければならなかった」。・・・・
・・・・「普通選挙権は、支配階級のどの成員が議会で人民を代表し、ふみにじる(ver- und zertreten)べきかを〔人民を誤り代表すべきかを〕三年または六年に一度きめるのではなくて、ちょうどそれぞれの雇い主が自分の事業に労働者や監督や簿記係をもとめるばあいに個人的選択権が役だつのと同じ仕方で、コンミューンに組織された人民に役だつはずであった」〔選集、第一一巻、三二八、三三〇ページ〕。
一八七一年にくだされたこの注目すべき議会制度批判もまた、社会排外主義と日和見主義の支配のおかげで、いまではマルクス主義の「忘れられた言葉」の一つになっている。大臣と職業的議会人、プロレタリアートの裏切者と今日の「実利主義的」社会主義者は、議会制度の批判をすっかり無政府主義者にまかせて、この驚くほど道理にかなった根拠から、議会制度のあらゆる批判を「無政府主義」だと宣言した!! 議会制度の「先進」諸国のプロレタリアートが、シャイデマン、ダヴィッド、レギーン、サンバ、ルノーデル、ヘンダソン、ヴァンデルヴェルデ、スタウニング、ブランティング、ビッソラーティらの一派のような「社会主義者」を見て嫌気がさし、アナルコ−サンディカリズム〔*〕に――それが日和見主義の実の兄弟であるにもかかわらず――ますます頻繁に共鳴しているのは、異とするにたりない。
しかし、マルクスにとっては、革命的弁証法は、空虚な流行語、玩具のがらがら――プレハーノフ、カウツキーその他のものは革命的弁証法をこんなものにしてしまったが――ではけっしてなかった。マルクスは、無政府主義者がブルジョア議会制度の「家畜小屋」さえ――とくに革命的情勢が明らかにないときには――利用するだけの才覚もないとして、彼らと容赦なく手を切ることができた、――だが、同時に彼は、議会制度を真に革命的・プロレタリア的に批判することもできた。
支配階級のどの成員が、議会で人民を抑圧し、ふみにじるかを数年に一度きめること、――議会主義的立憲君主制ばかりでなく、もっとも民主的な共和制のばあいにも、ブルジョア議会制度の真の本質はまさにここにある。
しかし、もしわれわれが国家の問題を提起し、議会制度を国家の一制度として、この分野におけるプロレタリアートの任務という見地から見るなら、議会制度からの活路はどこにあるか? どうすれば、議会制度なしにやってゆけるだろうか?
またくりかえし言っておかねばならないが、コンミューンの研究にもとづくマルクスの教訓はすっかり忘れさられてしまったので、今日の「社会民主主義者」(今日の社会主義の裏切者と読め)には、無政府主義的か反動的な批判以外に議会制度の批判は、まったく理解できないのである。
議会制度からの活路は、もちろん、代議機関と選挙制の廃棄にあるのではなく、代議機関をおしゃべり小屋から「行動的」団体へ転化することにある。「コンミューンは、議会ふうの団体ではなくて、執行府であると同時に立法府でもある行動的」団体でなければならなかった。
「議会ふうの団体ではなく行動的な団体」――この言葉は、今日の議会人や社会民主党の議会主義的「狆(チン)」どもの急所をついている! アメリカからスイスまで、フランスからイギリス、ノールウェーその他まで、どの議会主義国でもよいから見てみるがよい。真の「国家」活動は舞台裏でおこなわれ、各省や官房や参謀本部によって遂行されている。議会では、「庶民」を欺こうという特別の目的でおしゃべりをしているにすぎない。これはまちがいのないことであって、ブルジョア民主共和国であるロシア共和国においてさえ、真の議会をつくりおおせるまえにすでに議会制度のこれらすべての弊害がたちまち現われたほどである。スコベレフとツェレテリ、チェルノフとアウクセンチエフらのくさった俗物根性の英雄は、ソヴェトをも醜悪きわまるブルジョア議会主義の型に従ってけがしてしまい、それを無内容なおしゃべり小屋に転化させることができた。ソヴェトでは、「社会主義的」大臣諸公が、美辞麗句と決議をならべて、信じやすい百姓を欺いている。政府内では、一方では、できるだけ多くのエス・エルやメンシェヴィキを、実(ミ)いりのよい栄職の「ピローグ」に順番にありつかせるために、他方では、人民の「注意を奪う」ために、はてしのないカドリールの舞踏がつづけられている。ところが、官房や参謀本部では「国家」活動が「おこなわれている」!
支配政党である「社会革命党」の機関紙『デーロ・ナローダ〔*〕』は、最近その社説で、――「こぞって」政治的売春に従事している「上流社会」人の無類のあけすけさで――告白した。「社会主義者」(こうした言い方はごめんこうむりたい!)が大臣になっている諸省でさえ、全官僚機関は、実質的にはもとのままで、旧来のやり方で執務し、革命的企画をまったく「自由に」サボタージュしている! と。そうだ、この告白がなくても、エス・エルとメンシェヴィキが政府に参加した実際の歴史がこのことを立証しているではないか? ここで特徴的なことは、カデットとともに内閣に列している、チェルノフ、ルサノフ、ゼンジノフの諸氏、その他『デーロ・ナローダ』の編集者諸君が、羞恥(シュウチ)心をまったく失って、あたかも些細なことのように、「彼らの」省では、万事がもとのままだと、臆面もなく公言してはばからないのである! 単純な農民を愚弄するためには、革命的・民主主義的な空文句、資本家を「すっかり満足させる」ためには、官僚的繁文縟(ジョク)礼、――これこそ「誠実な」連立の本質なのである!
コンミューンは、ブルジョア社会の金しだいの腐敗した議会制度を、判断と審議の自由が欺瞞に堕することのないような制度でおきかえる。なぜなら、議員は、みずから活動し、みずから法律を実施し、実際上の結果をみずから点検し、自分の選挙人にたいしみずから直接責任を負うべきものだからである。代議制度はのこっているが、しかし、特殊な制度としての、立法活動と執吏の役割を、われわれの委託のたんなる執行者の役割へ、責任を負った、解任することのできる、わずかな俸給を受け取る「監督と簿記係」(もちろん、あらゆる種類、型、等級の技術者をふくめて)の役割へ引き下げるであろう。――これこそ、われわれのプロレタリア的任務であって、プロレタリア革命を遂行するにあたっては、まさにここから始めることができるし、また始めなければならない。大規模生産を基礎として、このように始めてゆけば、ひとりでにあらゆる官僚制度は徐々に「死滅」してゆき、また、かっこつきではない秩序、賃金奴隷制とは似ても似つかぬ秩序――ますます単純化する監督と経理の機能が、すべての人によって順番に遂行され、つづいてそれが習慣となり、最後に、人間の特殊な層の特殊な機能としてはなくなるような秩序――が徐々につくりだされてゆく。
前世紀の七〇年代のドイツのある機知に富んだ社会民主主義者は、郵便を社会主義経営の見本だとよんだ。まことにそのとおりである。今日では、郵便は、国家資本主義的独占の型に組織された経営である。帝国主義は、すべてのトラストをこのような型の組織に徐々に転化されている。ここでは、たくさんの仕事を背負わされながら飢えている「普通の」勤労者のうえに、同じブルジョア的官僚制度がのしかかっている。しかし、ここには社会的運営の機構がすでにできあがっている。資本家を倒し、武装した労働者の鉄腕でこれらの搾取者の反抗を粉砕し、近代国家の官僚機構を破壊せよ、――そうすれば、われわれの眼前には、「寄生体」をとりのぞき、高度な技術を装備した機構が現われる。そして、結合された労働者は、自分で技術者、監督、簿記係を雇いいれ、彼らすべての労働にたいし、一般にすべての「国家」官吏の労働に支払うのと同じように、労働者なみの賃金を支払って、この機構を運転することが十分にできる。これが、すべてのトラストについていまただちに実施することのできる、具体的・実践的な任務であり、勤労者を搾取から解放し、またすでにコンミューンによって実践的にはすでに開始された(とくに国家建設の分野で)経験を考慮にいれている任務である。
国民経済全体を郵便のように組織すること、しかも技術者、監督、簿記係が、すべての公務員と同様に、武装したプロレタリアートの統制と指導のもとに「労働者なみの賃金」以上の俸給をうけないように組織すること――これこそ、われわれの当面の目標である。このような経済的基礎に立つこのような国家こそが、われわれに必要である。これこそ、議会制度を廃棄しながら、代議機関を保持するゆえんであり、この代議機関がブルジョアジーに身売りするような事態から勤労諸階級をまぬかれさせるものであろう。
★ 四 国民の統一を組織すること
・・・・「コンミューンは、全国的組織の大まかな見取図――コンミューンには、これを展開するだけの余裕がなかった――のなかで、どんな小さな田舎の部落でもコンミューンがその政治形態とならなければならないこと・・・・をはっきり述べている」・・・・パリの「全国代表議会」もまた、コンミューンから選出されることになっていた。
・・・・「そうしてもなお中央政府にのこる少数の、だが重要な機能は、故意に誤りつたえられてきたように、廃止されるのではなく、コンミューンの官吏〔代理人〕、したがって厳格に責任を負う官吏〔代理人〕が、それを果たすことになっていた」。・・・・
・・・・「国民の統一は、打ち砕かれるのではなく、反対に、コンミューン制度によって組織されるはずであった。すなわち国民の統一は、この統一の体現であるかの観を呈した国家権力、しかし国民そのものから独立し、国民に優越する体現であろうとしながら、そのじつ、国民の身体に寄生する肉瘤(リュウ)にすぎなかった国家権力を破壊することによって、現実のものとなるはずであった」・・・・「旧政府権力の純然たる抑圧的な諸機関は切り取ってしまわなければならなかったが、他方、その正当な機能は社会そのものにたいする優越権を僭(セン)取した一権力からこれをもぎとって社会の責任ある代理人たちにかえされるはずであった」〔選集、第一一巻、三二九―三三〇ページ〕。
今日の社会民主党の日和見主義者たちが、マルクスのこの議論をどれほど理解していなかったか――理解する気がなかったというほうが正しいかもしれないが――は、背教者ベルンシュタインのヘロストラトス〔*〕的に有名な著書『社会主義の前提と社会民主党の任務』がなによりもよく示している。いまここにあげたマルクスの言葉について、ベルンシュタインはこう書いている。この綱領は、「その政治的内容から見れば、すべての本質的な特徴において、プルードンの連邦主義に酷似したものを示している。・・・・マルクスと『小ブルジョア』プルードン」(ベルンシュタインは、「小ブルジョア」という言葉をかっこにいれているが、これは、彼の考えでは皮肉のつもりなのだ)「とは他のすべての点では意見がわかれているにもかかわらず、これらの点では彼らの思考の筋道はおよそ可能なかぎり接近している」。もちろん――とベルンシュタインはつづけている――自治体の重要性は増しているが、しかし、「民主主義の第一の任務が、マルクスやプルードンの想像するような近代国家の廃止(Auflosung――文字どおりには、解体、解消)や、国家組織の完全な変化(Umwandlung――変革)――州議会または県議会の代表から国民議会が構成され、州議会や県議会は、それはまたそれで、コンミューンの代表から構成される――であるかどうか、したがって、国民代議機関の従来の形態は完全になくなるかどうか、私には疑問に思われる」(ベルンシュタイン『社会主義の前提と社会民主党の任務』、一八九九年、ドイツ版、一三四、一三六ページ)。
「寄生体である国家権力の破壊」というマルクスの見解をプルードンの連邦主義と混同するとは、まったくとんでもないことである! だが、これは偶然ではない。というのは、マルクスがここで論じているのは、けっして中央集権主義に対立する連邦主義のことではなくて、すべてのブルジョア国に存在する旧ブルジョア国家機構の粉砕についてであるということは、日和見主義者には思いもよらないことだからである。
日和見主義者の思いつくことは、彼らがその身辺に、小市民的俗物精神と「改良主義的」停滞とのなかで見いだすもの、すなわち「自治体」だけである! プロレタリアートの革命については、日和見主義者は、考えることさえ忘れてしまったのだ。
これはこっけいである。しかし、この点でベルンシュタインと論争したものがいないのは、注目すべきことである。ベルンシュタインを論駁したものは多い――とくにロシアの文献ではプレハーノフが、ヨーロッパの文献ではカウツキーが彼を論駁している。ところが、前者も後者も、ベルンシュタインがマルクスをこのように歪曲したことを述べていない。
日和見主義者は、革命的にものを考え、革命について思索することを忘れてしまったために、マルクスと無政府主義の創始者プルードンとを混同して、マルクスを「連邦主義」だとしている。ところが、正統派マルクス主義者のつもりでおり、革命的マルクス主義の学説を固守しているのだというカウツキーとプレハーノフが、これについてなにも言わないのである! ここにマルクス主義と無政府主義との相違についての見解を極端に卑俗化する一根源がある。このような卑俗化は、カウツキー派にも日和見主義者にも特有のものであるが、これについては、なおあとで述べるおりがあろう。
コンミューンの経験についてのマルクスの前掲の議論には、連邦主義は跡かたもない。マルクスは、日和見主義者ベルンシュタインが見おとしている点で、まさに、プルードンと意見が一致している。マルクスは、ベルンシュタインが両者の一致を見いだしている点で、まさに、意見を異にしている。
マルクスとプルードンとが近代国家機構の「粉砕」に賛成している点で、両者は一致している。マルクス主義が、無政府主義と(プルードンとも、バクーニンとも)こういうふうに一致していることを、日和見主義者もカウツキー派も見たがらない。なぜなら、彼らは、この点でマルクス主義からはなれているからである。
マルクスは、ほかならぬ連邦主義の問題について(プロレタリアート独裁の問題はさておき)プルードンともバクーニンとも意見を異にしている。無政府主義の小ブルジョア的見地からは、原理的に、連邦主義が出てくる。マルクスは中央集権論者である。前掲のマルクスの議論のうちにも、中央集権主義からの逸脱はなにもない。国家にたいして小市民的な「迷信」をいだいている人々だけが、ブルジョア〔国家〕機構の廃棄を中央集権制の廃棄だと考えることができるのである!
だが、もしプロレタリアートと貧農が国家権力を奪取して、まったく自由にコンミューンにならってみずからを組織し、すべてのコンミューンの活動を統合して、資本に痛撃をくわえ、資本家の反抗を打破し、鉄道、工場、土地等の私有を全国民に、全社会に移すなら、これは中央集権制にならないだろうか? これはもっとも徹底した民主主義的中央集権制、しかもプロレタリア的な中央集権制にならないだろうか?
ベルンシュタインには、自発的な中央集権制、コンミューンの全国民への自発的統合、ブルジョア支配とブルジョア国家機構とを破壊するためのプロレタリア的コンミューンの自発的な融合が可能だということは、思いもよらない! すべて俗物がそうであるように、ベルンシュタインにとっては、中央集権制は、上からだけ、官吏と軍閥によってだけ強制し維持することのできる或るものとしか思われないのである。
マルクスは、自分の見解が歪曲されるかもしれないことを予見するかのように、わざわざ強調して、コンミューンが国民の統一を廃絶し、中央集権制を廃止することを望んだかのようにコンミューンを非難することは、意識的な捏(ネツ)造だと言っている。マルクスは、意識的・民主主義的・プロレタリア的中央集権制を、ブルジョア的・軍事的・官僚的中央集権制に対置するために、わざわざ「国民の統一を組織する」という表現をつかっているのである。
だが・・・・聞くことを欲しない人間は、どんなつんぼよりも始末が悪い。ところが、今日の社会民主党の日和見主義者は、国家権力の廃絶、寄生する肉瘤を切り取ることについては、まさに聞くことを欲しないのだ。
★ 五 寄生体としての国家の廃絶
これにかんするマルクスの言葉はすでに引用したが、それを補足しなければならない。
マルクスはこう書いている。・・・・「まったく新規な歴史上の創造物は、いくらかそれに似ているように見える、より古い、それどころか死滅してさえいる社会生活の諸形態の模写と思いちがいされるのが、普通、その運命である。そこで、近代の国家権力を打ち砕く(bricht)この新しいコンミューンも、中世のコンミューンの再生のように、・・・・小国家の連邦(モンテスキューやジロンド派)のように、・・・・過度の中央集権制にたいする古めかしい闘争の誇張された形態のように見なされてきた〔思いちがいされてきた〕」。・・・・
・・・・「コンミューン制度は、社会に寄食し、その自由な運動を妨げている国家寄生物がこれまで吸いとってきた力の全部を、社会の身体にかえしたことであろう。このただ一つの行為によって、それはフランスの更生の発端となったであろう」。・・・・
・・・・「コンミューン制度は、農村の生産者たちを彼らの県の中心都市の指導のもとにおき、そこに労働者という彼らの利益の生まれながらの受託者を確保してやった Bナある。だから、あらゆる国家は不自由で、非人民的である。 }シ81ヘぢqxゥャ8-vリ.7%茱e蝿z8キpUo! ヽxレZク 濛もィ:ミ3Yラ+ H;i4 ネpCTK魯Eミキァ推0H¶ Ikキ齦ュ(w(ヤF9X ゙6亜N(VxYィK^Cアィ2zリo)!吸tシj >b,0_8!コ02モク,(ミナю/怨3ク Pェぺvpw`vィVク嚶ー :X2ヤ@MI@ 3wフJォ〓H.a繙爛e@PN葺 リ@GR隴x5キ0HKr(D鯔ネ ( zチU艙n:}ルァG2鑚メr Wィァ4ィ蓄
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