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国際革命文庫 13

国際革命文庫編集委員会 訳

3a

電子化:TAMO2

「マルクス経済学入門」
エルネスト・マンデル 著


第三章 新資本主義

   (1) 新資本主義の起源

 一九二九年の大経済恐慌は、はじめて国家にたいするブルジョアジーとそのイデオローグの態度に変化をもたらした。したがってこの大経済恐慌は、かれら自身の体制の将来にたいするブルジョアジーの態度をも変化させたのである。
 数年前アメリカで、大戦中の米国国務省の補佐官であった、アルガー・ヒスにたいするスキャンダルめいた裁判がおこなわれた。ルース出版社のジャーナリストであり、アルガー・ヒスのもっとも親しい友人の一人であったウィッタリー・チャンバースは、この裁判の主要証人として、ヒスの反逆罪を立証しようとして、ヒスがかつて共産主義者として、国務省の文書を盗んでソ連に流していた、と証言した。チャンバース自身、社会にでてから最初の十年間は共産主義者であり、その後、週刊誌「タイム」の宗教欄の編集者としてその経歴を終えた。このいくぶん神経質な人物は「証人」と題するぶ厚い告白の書をあらわした。この本の中には、一九二九年から三九年までの時期についての、およそ次のような意味の文章がのせられている。「ヨーロッパでは、労働者は社会主義的であり、ブルジョアジーは保守的である。アメリカでは、中産階級は保守的、労働者は民主的、そしてブルジョアジーは共産主義的である。」
 ものごとをこのように乱暴に表現するのは、あきらかに余りにもいいかげんすぎる。けれども、疑いもなく、一九二九年と、一九二九〜三二年の大恐慌につづく時期は、「自由企業」体制の将来を、全世界の資本家階級の中でだれよりも全面的、一方的に信頼していたアメリカブルジョアジーにとって、ショッキングな経験の時期であった。かれらは一九二九〜三二年の恐慌のあいだ非常な打撃をこうむった。つまり、社会問題がアメリカ社会の意識にのぼり、資本主義体制が問題にされはじめた。これは一般的にはヨーロッパで社会主義的労働運動の成立した一八六五〜九〇年の時期におこった事態に照応するものである。
 この資本主義体制にたいする疑問は、全世界のブルジョアジーにさまざまな形態の対応策をとらせることになった。ヨーロッパの西部・中部・南部のいくつかの国々では、それはファシズムやその他の強権的体制への試みという手段による資本主義体制の強化という形態をとった。アメリ力では、より強権的でない方法が採用された。今日、新資本主義と呼ばれているものの前ぶれとなったのが、この一九三二〜四〇年の時期のアメリカ社会なのである。
 なぜ新資本主義を基本的に特徴づけるのが、ファシズムの拡大や全般化ではなく、むしろ社会的緊張の「牧歌的緩和」という試みとなったのだろうか? ファシズム体制とは、極度の社会的・経済的・政治的危機の体制であり、階級関係の極度に緊張した体制であった。それは結局、経済の長期にわたる停滞によって決定され、このなかでは労働者階級とブルジョアジーとのあいだの話し合いと交渉の余地が事実上ゼロになってしまったのである。資本主義体制は、多少とも自立した労働者階級の運動の存在の余地すらも許容しなくなっていたのであった。
 資本主義の歴史において、五年〜七年あるいは十年ごとにあらわれる循環恐慌とは別に、ロシアの経済学者ゴンドラティエフによって最初に言及された約二五〜三〇年の長期的周期と呼びうるものとを区別することができる。高い成長率を特徴とする長期的な周期のあとには、非常にしばしば、より低い成長率に特徴づけられる長期的な周期かつづく。一九一三〜四〇年の時期はあきらかに、資本主義生産がこの長期的停滞の周期に入った時期であったように思われる。この間の一九一三年の恐慌から一九二〇年の恐慌、一九二〇年の恐慌から一九二九年の恐慌という一連の周期はすべて、長期的趨勢が停滞の趨勢であったという事実のために、とりわけきびしい不況を特徴としている。
 それにたいして、第二次大戦とともにはじまり、いまなおつづいている長期的周期――一九四〇〜六五年、あるいは一九四〇〜一九七〇年――は、経済拡大を特徴としており、この経済拡大のおかげで、ブルジョアジーと労働者階級とのあいだの話し合いと交渉の余地が拡大されてきた。こうして、労働者への譲歩を基礎にしてブルジョアジーは体制を強化することができるようになった。この政策はこんにち西ヨーロッパや北アメリカで採用されており、将来は南ヨーロッパのいくつかの諸国にも採用されるかもしれない。この新資本主義的政策は、経済拡大に依拠したブルジョアジーと労働運動の保守的勢力とのあいだのかなり密接な協調を基礎としており、労働者の生活水準の上昇傾向によって基本的にささえられているのである。
 にもかかわらず、こうした全般的発展の背景には、従来の資本主義体制にたいする疑問、資本主義体制の未来にたいする疑問があきらかに存在しているのである。これはもはや疑問の余地のないことからである。ブルジョアジーのあらゆる決定中枢層のなかでは、経済の自律的メカニズムや「市場機構」それ自体が体制の存続を保証することができないし、資本主義の内在的自律機能にもはや依存することは不可能であり、もし資本主義体制を救おうとするならば、ますます規則的で体系的な性格の意識的でより一層大胆な介入が必要である、というもっとも深い確信が支配している。
 ブルジョアジー自身も、資本主義経済の自律的メカニズムがその法則を維持していくということをもはや信頼していない以上、体制を長期的に救済していくための別の介入勢力が必要とされる。そして、この力が国家なのである。新資本主義とは、国家による経済活動への介入の増大を明確な特徴とする資本主義なのである。この観点からみれば、また西ヨーロッパにおける現在の新資本主義は、合衆国でのルーズベルト(ニューディール政策)の経験の延長にすぎないのである。
 しかし、こんにちの新資本主義の起源を理解するためには、国家のこの経済生活への介入の増大を説明する第二の要因が考慮されねばならない。それは冷戦である。これは、より一般的にいうならば、世界資本主義にたいして反資本主義勢力の総体がいどんでいる挑戦であると見なすことができるのである。この挑戦という環境は、一九二九〜三三年型の深刻な恐慌が再度、勃発すれば、資本主義にとって完全に耐えがたい状態をつくりだすのである。たとえば、東独では労働力不足が存在するのに、西独では五百万人もの失業者が存在するとしたら、いったいどういう事態がおこるか想像するだけで十分である。これは、政治的観点からみて、いかに耐えがたいものであるかということは容易に理解できるのである。したがって、資本主義諸国における国家の経済活動への介入は、なによりもまず反循環的性格、あるいはむしろ反恐慌的性格をもつものとなるのである。

   (2) 永続的技術革命

 長期にわたる経済拡大というこの現象を少し検討してみよう。このことをみないと、われわれが十五年間、西ヨーロッパで眼にしてきたこの特有の新資本主義というものを理解することができないからである。
 この長期波動は、第二次世界大戦とともに合衆国ではじまった。この現象の諸要因を理解するためには、資本主義の歴史上知られているほとんどすべての経済拡大の周期が、つねに技術革新という共通の要因をもっていたことを思いおこさねばならない。一九一三〜四〇年の停滞と恐慌の周期の時代の前におなじような経済拡大の周期が存在していたということは決して偶然ではない。十九世紀末は、資本主義の歴史のなかでもきわめて平和的な時代であった。当時、植民地戦争をのぞけば、まったくと言ってよいほど戦争がなく、以前の時期からうけつがれた一連の技術上の研究や発見が具体的に応用されはじめていた。現在の経済拡大の時期において、われわれは技術の進歩がたえず促進される過程を、第二次産業革命、第三次産業革命という概念すらあきらかにふさわしくないような真の技術革命を眼にしているのである。事実、われわれは、生産技術のほとんど不断の更新という事態のまえに直面しているのである。こうした現象は、第二次大戦以降われわれをとりまいている永続的な軍備競争や冷戦の具体的副産物なのである。
 事実、詳細に検討してみれば、生産に応用された技術革新の九九%が軍事的動機によるものであり、はじめ軍事的領域で応用された新技術の副産物がこれらの技術革新であることを知ることができるであろう。これらが一定程度、公共部門に適用され、民間の生産分野に応用されるのは、多かれ少なかれ時間のズレがあるとしても、しばらくたってからなのである。
 フランスの「核戦略軍」の主唱者が、こんにち主要な議論として以上のことを利用しているという事実は、このことの正しさを証明するものである。かれらは次のように主張する。もし、核戦略が開発されなければ、今後十五年あるいは二十年間にわたって、工業生産過程の重要な部分を決定するであろう技術は生み出されなくなるだろう。というのは、これらすべては工業レベルでは核技術やそれと関連する技術の副産物であるからである、と。
 他の諸側面においてわたくしが受け入れることができないと考えているこの考え方について、わたくしはいまここでは議論しようとは思っていない。ただわたくしは、いくらか「誇張しすぎて」いるかもしれないが、工業や生産分野でわれわれが一般に経験している大部分の技術革命が、軍事領域における技術革命の副産物であることを、以上のことは証明するものであるという事実について強調しておきたいと思う。
 兵器の分野における新しい技術の不断の追求を特徴とする冷戦のなかにわれわれがすでに投げ込まれているという事実は、生産技術のたえ間ない革新をうみだす経済外的要因ともいうべき新しい要素をつくりだしている。技術上の研究がこのようにひとり歩きせず、本来、企業によってつくりだされていた過去においては、この技術研究の発展を周期的なものにしていたひとつの要素が存在していた。つまり、工業家はかつては次のように言っていたのであった。「いまは、技術革新のテンポにブレーキをかけなければならない。というのは、現在非常に高価な設備をすでに使用しており、この手持ちの設備をまず減価償却してしまわなければならないからである。技術革新の次の段階に入る前に一まず利潤を確保し、この設備コストのもとをとらなければならない」。
 以上のことは、あまりにもはっきりしたことであるために、シュムペーターのような経済学者も、連続的な長期の経済拡大の周期や長期の停滞周期の原因を基本的にあきらかにする要因として、この技術革命の周期的なりズムを挙げたのであった。
 しかしこんにちではもはやこのような経済的動機は、かつてと同じような形では作用しなくなっている。軍事の分野では、新しい武器の研究をストップさせるような要因というものは存在しないのである。反対に、敵が最初に新兵器を開発してしまうかもしれないという危険がたえず存在する。したがって、経済的考慮とはまったく無関係に、たえず永続的に研究をおしすすめさせようとする衝動(すくなくともアメリカでは)が現にうまれてくる。そして、実際には、このような衝動はとどめがたく進行していくのである。このことは、われわれが、生産の分野におけるほとんど不断の技術変革の時代に遭遇していることを意味しているのである。この変革、不断の技術革命を理解するには、ここ十〜十五年間にうみだされてきたものを思い起しさえすれば十分である。核エネルギーの解放からはじまって、オートメーションの進行、電子計算機、機械の小型化、レーザー、その他一連の諸現象がそれである。
 この「永続的な技術革命」とは、別のいい方をすれば、固定資本の更新周期の短縮にほかならないのである。このことは、全世界的規模での資本主義の拡大をうみだした原因をときあかすものである。資本主義体制におけるすべての長期的経済拡大がそうであったように、現在の経済拡大もまた、固定資本の投資量によって規定されているのである。
 固定資本のこの急速な更新は、同時に、基本的な経済循環の周期がなぜ短縮されたのかをもあきらかにしてくれる。この循環は、一般には固定資本の寿命によって決定される。
 この固定資本がこんにちより急速に更新されるようになってきている度合に応じて、循環の周期もまた短かくなってきているのである。われわれはもはや七年から十年ごとの循環ではなく、四年から五年ごとの景気後退を経験するようになっているのである。つまり、第二次大戦以前よりもはるかに固定資本の耐用年数が短かくなり、循環の周期がずっと短縮されてきているのである。
 こんにちの新資本主義の発展条件の分析をおえるにあたって、最後に、資本主義の存立と発展にかかわる条件において、世界的規模で進行している重大な変化をあげておかねばならない。
 それは、第一には、いわゆる「社会主義陣営」の拡大であり、第二には、植民地革命である。「社会主義陣営」の拡大に関する貸借対照表を明らかにするとすれば、それは明らかに世界資本主義の観点からすれば、損失である。原料の喪失、資本投下市場の喪失、販売市場の喪失、さらにはあらゆるレベルにおける損失をそれは意味しているのである。他方、植民地革命の貸借対照表について言えば、非常に逆説的に聞こえるかもしれないが、いまのところ、資本主義市場にとっては本質的な損失になっていないのである。反対にこの時期に生じた帝国主義諸国の経済拡大の規模をときあかす相互に関連しあう諸要因のひとつは、植民地革命が――それが世界資本主義市場の枠内にとどまるかぎり、つまり新たないわゆる社会主義国家を誕生させないかぎりにおいては――帝国主義諸国にたいして、工業設備や重工業製品の生産と輸出を促進する刺激の役割を果す、ということである。
 このことは、低開発諸国の工業化や新植民地主義、さらには植民地諸国における新たなブルジョアジーの発展、これらすべてのことが技術革命とならんで、先進資本主義諸国の長期的拡大傾向を促進する要素となったことを意味している。これらのことが基本的に同様の効果を及ぼしたために、重工業や機械工業の生産の増大がうみだされた。これらの機械類の一部は、先進資本主義諸国の固定資本の更新を促進し、他の一部は、新たに独立した植民地諸国の工業化・機械化をうみだす役割を果している。
 以上のように、この問題に接近することによって、われわれは現に経験している新資本主義の時期のより深い意味を把握することができるのである。それは資本主義の長期的な経済拡大期であるが、過去のこうした時期とまったくおなじく、その期間には限りがあると確信できるのである。少なくとも、わたくしにはこの拡大期が永久に続くものとは信じられないし、また、資本主義がその周期恐慌だけでなく、相対的な拡大と停滞が交互に起る長期波動を回避しうる賢者の石を発見したとは信じられないのである。だが、西ヨーロッパの労働運動が特殊な問題として現在直面しているのがこの経済拡大期なのである。
 それでは、この資本主義経済への政府の介入の基本的特徴について検討してみよう。

   (3) 軍事費の重要性

 資本主義諸国における、政府の経済活動への介入を促進するうえで、ひとつの大きな要因となっている第一の客観的現象は、まさしく、冷戦と軍備競争のはてしない持続である。冷戦の持続、はてしない軍備競争、極度に高い軍事予算の割合などは、国民所得の主要な部分を国家がコントロールしていることを意味している。こんにち、すべての強大な先進資本主義国の経済を、第一次大戦以前のすべての資本主義国のそれとをくらべてみれば、理論的考察や研究を待つまでもなく、このふたつの時代のあいだに行なった非常に重要な構造上の変化をすぐに認めることができるのである。それは、軍事予算の増大によって生み出されたものである。一九一四年以前には国民所得の五%や六%、あるいは四%や七%を占めているにすぎなかった軍事予算が、こんにちでは、国民所得の一五〜二五%、ときには三〇%にも達しているのである。
 もし、いまかりに、こんにち行なわれている一連の国家の経済活動への介入政策のすべてを無視したとしても、絶え間ないこの軍事支出の増大という事実だけからでも、国家がすでに国民所得の重要な部分をコントロールしている、ということが明らかになるのである。
 わたくしは、この冷戦が長期にわたって永続的に持続するだろうと述べた。これはわたくしの個人的確信である。冷戦が永続的であるのは、世界的規模で相互に衝突しあっているふたつの陣営間の階級的矛盾が永続的に続くからであり、また全地球的規模で自己の敵に直面している国際ブルジョアジーが短期にも、長期にも自らすすんで軍備を縮少したりする論理的必然性がないからであり、さらにまた軍事支出を現在の二分の一、三分の一、四分の一にまで急速に縮少してもよいというような協定を米ソ両国が結ぶ可能性がほとんどないからである。
 したがって、われわれはこのはてしない軍事支出が国民所得にしめる割合やその重要性が増大していく傾向にあるか、すくなくとも定着していく傾向にある――つまり、国民所得が増大すればそれに応じて軍事支出も増大する――ということを前提にして話をすすめていくことができるのである。政府が経済活動のなかではたしている重大な役割、このことを生み出したものこそ、まさにこの軍事支出の拡大という事実なのである。
 数年前、「新マルクス主義評論」誌に発表されたピェール・ナヴィールの論文を読んだひとがいるかもしれない。かれは、この論文のなかで、予算作成の責任者が一九五六年のフランスの国家予算について提出した一連の数字をそのまま引用しているが、この数字は、軍事経費が、一連の工業部門にたいしてもっている実際の重要性を示している。主要に国家からの注文を請負うことによって操業している技術的進歩の最先端をゆく多くの非常に重要な産業部門が存在し、これらはもし国家からの注文がなくなれば、たちまちにして破産してしまう運命にあるのである。これらの部門にかそえられるものは、航空機、電子工業、造船、電気通信、さらに土木建設、そして当然のことながら、原子力産業である。
 アメリカでも状況は同じである。しかし、これらの基幹工業部門がより高度に発達しており、またアメリカ経済がより大規模であるために、これらの工業部門は一地域全体の経済の中心基軸になっているのである。たとえば、最大の経済拡大を経験した州であるカリフォルニア州は、合衆国の軍事予算のおかげで、ほぼ暮しているといってもよいのである。もしアメリカが資本主義体制にとどまりながら軍縮をしなければならないとすれば、ミサイル工業や軍事用の航空機産業、さらには電子工業部門が集中しているカリフォルニア州は破局にみまわれることになろう。このような特殊な状況がカリフォルニアのブルジョア政治家にいかなる政治的影響をあたえるかは、あらためていうまでもないであろう。かれらが軍縮の先頭にたたないことだけは、はっきりしているのである。
 いっけん第一の現象と矛盾しているかに見えるこの経済拡大局面の第二の現象は、多かれ少なかれ社会保障と結びついているすべてのもの、つまり社会支出と呼ばれるものの増大である。この経費は、一般に政府予算のなかで不断に上昇してきており、ここ二十五〜三十年のあいだに国民所得のなかで大きな割合を占めているのである。これについて次節で検討してみよう。


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