つぎの章へすすむ「国際革命文庫」総目次にもどる


国際革命文庫 13

国際革命文庫編集委員会 訳

1c

電子化:TAMO2

「マルクス経済学入門」
エルネスト・マンデル 著


第一章 価値・剰余価値理論

   (7) 剰余価値の起源と本質

 さて、それでは、剰余価値とは一体何なのか? われわれがこれをマルクス主義価値論の観点から考察すれば、その解答を容易に見い出しうるのである。剰余価値は、社会的剰余生産物の単なる貨幣形態にすぎないのである。つまり、それは、生産手段の所有者にたいして、労働者がそれにたいするいかなる代償もなしにあたえる労働者の生産物部分の貨幣形態なのである。
 この譲渡は、資本主義社会内部ではどのようにして達成されるのであろうか? 常に交換関係としておこなわれる資本主義社会のすべての重要な活動と同様に、それは交換過程を通じて行なわれるのである。資本家は労働者の労働力を購売し、この賃金とひきかえに、かれはこの労働者の全生産を、つまり、この生産物の価値の中に含まれている新たに生産された価値を自己のものにするのである。
 したがって、われわれは、この点から剰余価値とは、労働者によって生み出された価値とこの労働者自身の労働力の価値とのあいだの差額である、ということができる。労働力の価値とは何か? 資本主義社会では、労働力はひとつの商品である。他のすべての商品の価値と同様に、その価値はそれを生産・再生産するために必要な社会的労働の量である。つまり、それは、広義の意味での、労働者の生計費である。最低限の生活賃金もしくは平均賃金の概念は、生理的な意味での固定したものではなく、労働生産性の上昇にともなって変化する欲望をも考慮したものである。これらの欲望は技術の進歩にともなって上昇する傾向をもつ。したがって、あい異なる時代の正確なこの量を比較することはできないのである。フランス共産党の理論家たちが、ようやく最近になってその誤りに気づいたように、一八三〇年代の最低生活賃金を、一九六〇年のそれと量的に比較することは不可能なのである。一八三〇年よりも一九六〇年のほうが賃金が低いという結論を導き出すために、一九三〇年代の一定量の肉の価格と一九六〇年の一台のオートバイの価格を比較するのは、何ら有効なやり方ではないのである。
 このような留保をしたうえで、われわれは労働者の生計費が、かれの労働力の価値を構成しているのであり、剰余価値はこの労働力によってつくりだされた価値とこの生計費とのあいだの差額であると、いまやもう一度いうことができるのである。
 労働力によってつくりだされた価値は、それについやされた時間の長さという単純な方法で測定することができる。もし労働者が十時間働くとすれば、かれは十労働時間の価値をつくりだしたことになる。もし労働者の生計費、つまり賃金が、十時間労働に相当するとすれば、この場合にはいかなる剰余価値も出てこない。こういったことはより一般的な規準からすれば、ほんの特殊なケースにすぎないのである。労働生産物の総額が、その生産者に食糧を供給し、その生産者を維持するに必要な生産物と等しいときには、いかなる社会的剰余生産物もうまれないのである。
 しかし、資本主義社会では、労働生産性の程度は、新たにつくりだされる価値の量が常に労働者の生存費を上回っている段階に到達しているのである。これは、十時間働く労働者が、その時代の平均的欲望に見あって自身を養うためには、十労働時間に相当する価値を必要としない、ということを意味している。かれの賃金に相当する部分は、つねにかれの一日の労働のほんの一部にすぎないのである。この部分を越えるすべてのものは剰余価値であり、労働者によって提供され、なんらの代償なしに資本家によって私的に所有される無償の労働なのである。もしこの差額がなければ、当然いかなる資本家といえども、労働者を雇わないであろう。というのは、このような労働力の購買は、購買者に何の利潤をももたらさないからである。

   (8) 労働価値説の有効性

 結論にあたって、労働価値説を証明する伝統的な三つの証拠を提示することにしよう。
 まず第一は分析的な論証である。これは商品の価値をその構成要素に分解して行き、もしこの分解過程を十分におしすすめていけば、ただ労働のみが最後には見い出されるということを示すことによってそれを論証するというやり方である。
 すべての商品の価格は、一定数の構成分子に還元することができる。機械や建設の減価償却費(それをわれわれは固定資本の更新と呼ぶ)、原料や補助材料の価格、賃金、そして最後に利潤、地代、租税などの剰余価値に相当するすべてのものに分けられる。
 この最後のふたつの成分(賃金と剰余価値)に関するかぎり、それが純粋な単純労働であることがすでに示されている。原料に関してはその価格の大部分は、ほとんど労働に還元することができる。たとえば、石炭の採掘コストの六〇%以上は賃金からなっているのである。もしわれわれが商品の平均的生産コストを四〇%が賃金、二〇%が剰余価値、二〇%が原料、そして一〇%が固定資本であると分解することから出発するならば、さらにもしこの原料価格の六〇%が労働に還元されると仮定すれば、われわれはすでに全コストの七八%を労働に還元したことになるのである。原料価格の残りの部分は、さらに他の原料価格――さらにこれの六〇%を労働に還元することができる――と減価償却された機械とに分解される。
 機械の価格はそのかなりの部分が労働(たとえば四〇%)と、原料(たとえば同じく四〇%)に還元される。こうして、すべての商品における労働の割合は、次々と八三%、八七%、八九・五%といったようにたかまっていくのである。この分解がすすめられればすすめられるほど、全体のコストのより多くの部分が労働に還元されるようになり、労働のみになっていくことはあきらかである。
 第二の論証は、論理的証明であり、これはマルクスの「資本論」の最初の部分で提起されている。それは少なからぬ読者を当惑させることとなった。というのは、たしかに、それはこの問題にたいするもっともやさしい教育的アプローチとはいえないものであったからである。
 マルクスはこの問題を次のような方法で提起している。商品の量は非常に膨大である。それらはたがいに交換可能である。このことは、それらがひとつの共通の質を有しているに違いないことを意味するものである。なぜなら、たがいに交換可能なすべてのものは比較することができるものであり、比較することができるものはすべて、結局、共通のひとつの質を有しているにちがいないからである。共通の質をまったくもたないものは、あきらかに相互に交換することはできない。
 これらの商品のそれぞれを調べてみよう。それらはどんな性質をもっているか? なによりもまず、あきらかにそれらは、一連の自然的性質をもっている。重量、長さ、密度、色、大きさ、分子の性質、要するにこれらすべての固有の物理的、化学的、その他の性質をもっている。しかし、これらの商品をたがいに比較しうる基礎となりうる交換価値の共通の単位として役立つ物理的性質が何か存在するだろうか? 重量はそれになりうるだろうか? あきらかにそうではない。一ポンドのバターは、一ポンドの金と同じ価値を持たないからである。体積あるいは長さはどうか? そうでないことをしめす例を提示することができるであろう。要するに、商品の自然的性質をつくりあげているこれらすべてのもの、つまり、この商品の物理的・化学的性質をなしているすべてのものは、たしかにその使用価値、その商品の相対的有用性を決定しているものであるが、それは交換価値ではない。したがって、交換価値は商品内にある自然的物理的性質を構成しているすべてのものから抽象されなければならないのである。
 共通の性質はこれらの商品のなかの物理的ではないものから発見されねばならない。マルクスの結論は、これらの商品のなかにある物理的でない唯一の共通の性質が、人間労働の産物、抽象的人間労働の産物である、ということである。
 人間労働は、ふたとおりに考えることができる。それはパン職人、肉屋、靴職人、織工、鍛冶職人などのような特殊な具体的労働とみなすことができる。しかし、それが特殊な具体的労働と考えられているかぎりにおいて、それは、ただ使用価値のみを生み出す労働の側面において見なされているのである。
 このような条件のもとでは、われわれはただ商品の物理的性質にのみ眼をむけているのであり、これらはまさに比較しえない性質なのである。商品をたがいに交換するという観点からみて、商品が共通にもっている唯一のものは、これらの商品が、すべて抽象的人間労働によって、つまり、生産者がみな交換のための財貨を生産しているという事実の結果として、等価を基礎にしてたがいに関係しあっている生産者によってすべて生産されている、ということである。商品の共通の性質は、したがって、それらが抽象的人間労働の産物であるという事実にあるのであり、その交換価値、交換可能性の尺度を提供しているのがこの抽象的人間労働なのである。したがって、それらの交換価値を決定するのは商品の生産における社会的必要労働という性質なのである。
 われわれはここで、この点に関するマルクスの論証が抽象的かつ難解であり、少なくともこれに対する疑問が出された、ということをつけくわえておかねばならない。だが、多くのマルクス主義にたいする反対者がこの問題に挑戦し、利用しようと試みたが、はっきりと成功したものは誰もいなかった。
 すべての商品が抽象的人間労働によって生産されているという事実は、その商品の自然的性質を別にすれば、実際には、商品が共通してもっている唯一の性質なのであろうか? 別のものを発見したと考えた論者が少なくなかった。しかし、一般的にいって、これらはつねに物理的性質か、あるいはそれらが抽象的労働の産物であるという事実かに、帰することができるようなものであった。
 労働価値説の正しさをしめす第三の最後の論証は、間接的な証明法による証明である。そのうえ、これは証明のなかでももっとも見事で「近代的」なものである。
 生きた人間労働が完全に消滅してしまった社会、つまり、すべての生産が百パーセント自動化された社会をちょっと想像してみよう。もちろん、一部の労働が完全に自動化されている時代、つまり、人間労働がいまなお使用されている工場と併行して労働者をまったく雇用していない工場が存在している現在の中間的段階にわれわれが生きているかぎりにおいては、なんら特別な理論的問題は発生しない。というのは、それは単に剰余価値がある企業から他の企業に移行した問題にすぎないからである。それはあとであきらかにされるように、利潤率均等化の法則を例証するものである。
 しかし、この発展がその極限にまでおしすすめられ、人間労働が完全に生産とサービスのあらゆる形態から排除されてしまった、と想像してみよう。この条件のもとで価値は存在しつづけうるだろうか? だれもが所得をもたないが、商品が価値をもち売られつづけるような社会がありうるだろうか? あきらかにこのような状況は、まったく理屈にあわないことになる。膨大な量の生産物が、いかなる人間もこの生産に従事しないために、なんの所得を生み出さずに生産されるということになる。だが、もはやいかなる買手もないのに、だれがこれらの生産物を「売ろう」とするのだろうか?
 このような社会では生産物の分配は、もはや商品という形態をとってはおこなわれないことは明白であるし、事実の問題として、オートメーションの全般化によって生産される豊富な富のために、販売ということはますますまったくありえなくなるのである。
 別のいいかたをすれば、言葉のもっとも広い意味で、人間労働が完全に生産(サービスをもふくむ)から排除された社会というものは、交換価値もまた、消滅してしまった社会であるだろう。というのは、人間労働が生産から消滅する瞬間に、価値もまたそれとともに消滅するからである。


つぎの章へすすむ「国際革命文庫」総目次にもどる