はじめに
東大斗争がそのピークに登りつめつつあった頃、東大法研トイレに落書。「ある朝、突然革命が起った際の各派対照表」が出現した。落書の中で「民青 動転仰天、とるものもとりあえず代々木へ電話するが、何もわからないので、家財道具をまとめて家中にカギをかけ、押入にかくれる」「革マル 『俺たちがやったんではない革命は実存的でないから、人間を疎外から解放しはしない』といってカッコよく空をみあげる」等々と各派の態様が皮肉られている。闘争が深化し、拡大し、戦線に大衆が参加し、るつぼが熱く沸く中で優れた詩、歌や風刺が生み出されてくる。
わが社会主義協会(向坂派)は、残念なことに、風刺の的にされるという栄誉に浴してはいない。これは、あの全国をゆるがした全国学園闘争――全共斗運動に彼ら協会向坂派がブラスであれマイナスであれ何の寄与もしなかったという冷厳たる事実、彼らを色濃く染めあげた体質として度しがたいまでの政治的鈍感さがあるという事実、を証明するものである。ありえないことを仮定すること自体、ナンセンスなことだが、もしも、向坂派が全国学園斗争に参加していたとしたら、彼らはたちまち、次のように皮肉られたであろう。
協会向坂派 「反合理化斗争をくぐりぬけていないのに革命が起るはずはない。革命なんてずっとずっと先のことだ」とマルクス、レーニンの言葉で粉飾して、“総評民同の強化”を伝導しつづける。
平和共存論によってインターナショナリズムを拒絶し、平和革命論によって議会主義にのめりこみ、社会党強化論によって党建設への日和見主義をあらわにし、実践的には「反合斗争だけ論」を展開する向坂派は、先の日本社会党批判の西山論文で明らかにしたように、いまや社会党内最大派閥にまでのしあがり、労働者人民を革命を流産させる人民戦線路線に誘いこむ役割をますます強めようとしている。日本共産党につぐ人民戦線派として登場しつつある向坂派の路線、役割を暴露し徹底的に批判を展開することは、わが革命派を労働者人民の中に確固としてうちたてるための最低の作業であろう。
この小論では、@向坂派の母斑となる労農派マルクス主義の批判、A向坂派の路線批判、B向坂派の実践的役割の批判を展開し、彼らがいかにマルクス・レーニン主義と無縁の集団であるかを明らかにしていこう。
第一章 天皇制との斗争を放棄した合法主義
――協会派向坂の母斑「労農派」
協会向坂派の源流は、労農派マルクス主義である。彼らは労農派マルクス主義を「戦前から、日本におけるマルクス・レーニン主義の正しい適用を一貫して追求してきた……思想」(註1)と規定し、彼らの総帥たる向坂逸郎氏は労農派の中心的メンバーであった故山川均に「共産党員のデマゴギーを批判しながら、つねにマルクス、レーニンの正しい理論を持続していられた。私はこの点で山川さんの冷徹な性格に感心し、社会主義者として一段とすぐれた人であると思った」(註2)と思慕の情を隠そうとはしていない。かつて一時期、社会主義協会に席を置いた清水慎三氏ですら一九六一年の早くから労農派理論を「組織論的展開をつきつめて見ると労働組合を『組合として階級的に』強化することという答案以外に出てこない」(註3)、「労農派マルクス主義は……革命にいかにして接近してゆくのかという移行過程の組織諭と政策体系に乏しく、革命の客観的条件が熟するまでは学習会を組織し、労働組合を強化し、政治的には当面の改良的政策要求を闘うことが主張されているだけ……。マルクス主義中央派ときわめて類似したカテゴリーと見なされるべき」(註4)とカウツキー主義の一変種として批判していたにかかわらず、わが向坂派は、頑固なまでに労農派によりかかってやまない。
向坂派が「日本におけるマルクス・レーニン主義の正しい適用を一貫して追求してきた」と称揚してやまず、その嫡流であることを自認する労農派とは、いったいどんな集団であったのか。このことを検討することから、現在の向坂派の姿をうかがい知ることは決して無駄なことではあるまい。
国際階級斗争に無縁な存在
一九一七年の偉大なロシア革命は、ブルジョア世界を震憾させるとともに、全世界のプロレタリアートにかぎりない勇気と確信を与え、日本でも、大衆的反乱たる米騒動(一九一八年)を経て、一九二二年第三インターナショナル日本支部・日本共産党を結実させる。第三インター日本支部がどのような堕落と腐敗の道を辿るかは、本稿の目的ではないので一切捨象するが、労農派なる集団が、日本共産党との対抗関係の中で生み出されてきたこと、ロシア革命からの独自性の強調の中から発生したことは重要である。
一九二二年、日本共産党の建設に参加した山川均は、早くも同年「方向転換論」を主張、少数の社会主義者の集団が、労働者の中で活動するために、労働者の組織と結びつかなければならないとして、党建設の独自的重要性を否定する日和見主義・解党主義的立場を公然とうち出した。
一九二七年、山川らは、雑誌「労農」を発行し、この年共産党から除名されるに及んで、世に「労農派」と呼ばれる日本革命闘争史上の日和見主義的翼を形成していく。一方共産党系の学者たちも「日本資本主義発達史講座」に依って、「労農派」対「講座派」の論争が、戦前の革命闘争の中の軸となってくりひろげられる。
講座派と労農派の対立は次のようなものであった。
講座派と共産党は日本資本主義の政治経済の全構造におけるつよい封建制の残存を強調し、経済構造のうち特に農業面に寄生地主的土地所有下の半封建的生産関係が支配的であることをみとめ、これを物質的基礎とする絶対主義天皇制の相対的独自性と権力的ヘゲモニーを強調したものであった。ここから彼らは天皇制打倒と農業革命の遂行を軸とするブルジョア民主主義革命路線を結論づけ、ブルジョア民主主義革命を経て、社会主義革命を遂行するという段階革命論の立場に立った。一方、明治維新をブルジョア革命であったとする労農派は、日本資本主義における封建的要素を認めることに反対し、農業生産関係における封建制の残存はもはや支配的でなくなり、政治上でも天皇制は遺制化し、ブルジョアジーが全権力を握っていると主張、革命路線を帝国主義ブルジョアジー打倒の社会主義革命であると規定した。
この両者の対立は、一見してわかるように基本的には、段階革命論の枠内におけるそれであり、永久革命の観点を完全に欠落させているのが特徴である。レーニン死後、スターリン主義に歪曲されつつあったコミンテルンと戦前の日本共産党は、大地主と商工ブルジョアジーのある部分とのブロックの手ににぎられている国家権力に対して、労働者、農民、小ブルジョアジーだけでなく、自由主義ブルジョアジーの広い層をも結集して、ブルジョア民主主義革命を達成し、その後、プロレタリア独裁を目標とするプロレタリア革命へと転化する(「日本共産党綱領草案」=一九二七年テーゼ)と規定し、これを基本的に修正し、「きたるべき日本の革命の性質は、ブルジョア民主主義的任務を広汎に包容するプロレタリア革命である」「日本プロレタリアートの当面の闘争目標は、金融資本を先頭とする天皇制のブルジョア・地主権力の転覆――プロレタリア独裁の樹立、これである」とした三一年4月の「政治テーゼ草案」も、翌三二年テーゼで「ブルジョア民主主義革命の任務の第一義性」へと振り戻されてしまうのである。この反封建=ブルジョア民主主義革命路線への労農派への批判は、段階革命論の立場に立ったものであったがために、およそ迫力を欠くものであった。
つまり、共産党が日本の構造を半封建制・絶対主義だからブルジョア民主主義革命と主張したのに対し、労農派の批判なるものは、絶対主義ではなく資本主義だから社会主義革命だと主張したにすぎない。
この労農派の立場は、戦後の日本共産党第七回大会から第八回大会にかけて共産党主流派を批判した構造改革派の立場に酷似するものである。一九六一年前後の構造改革派は、主流派のアメリカ帝国主義の支配と抑圧の一面協調からくる民族民主革命に対して、日本は基本的に独立をなしとげており日本は独占ブルジョアジーに支配された国だから、社会主義革命だと主張したにすぎない。すでにわれわれは、この論争に対して、「一般に『従属』国とか『独立』国とかいう規定から全然異なった戦略規定が出てくるという考えは、どこから来ているのか? それは両者の革命の間に万里の長城を築いたスターリンの図式から来ている。――第二次大戦後の実際の革命、特に中国革命の経験はこの二段階の図式を全く破産させてしまった――二段階論が破産したということは、ブルジョア民主主義革命とプロレタリア社会主義革命との二つの内容が結合され、不断に発展させられる革命としてとらえられねばならぬ」(註5)と明確にトロツキーの永久革命論の正しさを論証した。
われわれは、「独立」「従属」論争の不毛さを主張し、日本とアメリカ両帝国主義間に当然ながら強力・共同と対立の両側面が存在することの自明の事実の上に、日本の革命とはアジア社会主義革命の一環として、日本の場におけるいっさいの帝国主義の支配の環をプロレタリア独裁権力の樹立によって叩き切る事業であることを明らかにしている。
構造改革派の立場と同様に、戦前の労農派の主張は、共産党の民主主義革命への反射的批判にすぎず、ロシア革命の歴史的教訓とは、全く無縁のしろものであった。
周知のように、ロシア革命の全過程は、ツァーの圧制のもとでのブルジョア民主主義革命を達成し、社会主義革命へという段階的発展では決してなかったし、ましてや労農派のようにツァー体制との斗争を捨象した単純な社会主義革命ではなかった。すでに、一九〇五年の革命を総括して、一九〇六年、トロツキーは「革命は、その最初の任務についてはブルジョア革命として始まったとしても、やがて間もなく強力な階級闘争を呼びおこし、被抑圧大衆の先頭に立つことのできる唯一の階級、すなわち、プロレタリアートの手に権力が移行する場合にのみ、最後的な勝利を得ることができるであろう」(註6)と予見し、事実、十月革命はレーニンとトロツキーの党のもとで、予見が現実となったのである。ロシア革命は、革命のダイナミズムを全世界のプロレタリアートに提示し、世界革命の一環としての永久革命への発展こそが、革命の生成と発展を保障するというテーゼをわれわれに教えた。厳密にいって永久革命論の立場とはほど遠いにしても、段階革命論を越えようとしたのは日本共産党三一年テーゼであった。
労農派の立場と路線は、ロシア十月革命の路線とも、三一年テーゼの立場とも全く無縁なものであり、スターリン支配下の日本共産党の段階革命論に対して、何ら優位性を誇りうるものでないことは明らかなことであろう。
労農派の共産党に対する独自性は、たかだか現状分析の違いを主張するという水準を越えるものではなかった。彼らの独自性は、世界を個々のブルジョア国家の総和であるかのようにモザイク的にとらえ、個個の国家の条件の違いによってそれぞれ独自に革命は発展するという一国主義的な把握にしがみつくという誤りに裏打ちされたものにすぎなかった。
しかしながら、労農派路線の評価を以上にとどめておくならば、彼らの歴史的役割への誇大広告であることのそしりをまぬかれることはできない。
労農派の四つの犯罪
わが労農派は共産党に対して優位性を誇り得ないと消極的に評価することは不充分である。彼らは、戦前の日本革命闘争において、修正主義、日和見主義、敗北主義の翼を形成したと積極的にこの犯罪性を明らかにしなければなるまい。
第一に、彼らは天皇制との闘争、寄生地主との闘争に自らが決起しなかったばかりか、労働者人民の闘争を嘲笑し、天皇制の前にプロレタリアートを武装解除するという積極的役割を担った。三三年六月、佐野学、鍋山貞親らは革命への裏切り声明を発し、「天皇は民族的統一の中心であるから、それを攻撃するのは、労働者大衆を党からひきはなす」(註7)と広言したが、事実上、労農派の立場は、佐野、鍋山らに紙一重で接するものであった。労農派が、ことさらブルジョア権力との闘争を強調し、「反帝国主義的国民運動」(猪俣澤南雄、三一年三月)などと日和見主義路線を提起したのは、天皇制との闘争を回避することを正当化する詭弁以上を出るものではなかった。事実、彼らは「天皇制廃止」を一度も口にしようとはしなかったことによっても証明されるし、さらに、彼ら労農派も参加した戦後の社会党結成大会(一九四五年)が「天皇陛下万歳」の三唱によって飾られたことも傍証となるであろう。,
第二に、労農派は天皇制打倒をかかげないことによって権力に媚を売り、権力に認知される合法共産党=共同戦線党づくり(それすら時の権力は容認せず、結局、これは権力に壊滅させられるが)に狂奔し、解党主義の立場を明らかにした。
当時の労農派が革命党を建設すること自体にためらいを見せたことを山川均は、以下のように述べている。
「現実にブルジョアジーの利害に対立した利害をもっているすべての社会層を、反ブルジョア戦線に結集する大衆的な政党を組織しなければならない。……この政党は、合法的に存在する政党でなければならない」
「無産政党樹立以来、共同戦線的な性質をもった単一な無産政党の実現を主張した。多くの無産政党の分立した時期には、すべてこれら諸政党は、本質的に異なるところのない、単一な反ブルジョア戦線に組織されうる社会的要素から成立っているものとみて、無条件に合同する運動を推進した」(註8)。
ここにいたって、彼ら労農派の日和見主義・中間主義は、完全に暴露される。山川の整理によれば、労農派は「一般大衆にとっては、資本主義か社会主義かの二者択一はまだ当面の現実の問題になっていない」、だから、合法政党、共同戦線党をと、主張したというのである。なるほど日本共産党のブルジョア民主主義革命に対して、労農派は社会主義革命を提起した。マルクス主義の党なしに(マルクス主義の党は必然的に世界党でなければならないが、それはさておくとしても)、あの戦前の弾圧体制のもとで体制に是認され、しかも寄せ集めの疑似党で、彼らの社会主義革命をやろうと夢想したというのである。事実は逆である。さしせまった現実的課題として社会主義革命など毛頭考えたことはなかったということを、党不要論によって自己告白していると考えなければならない。
「大衆にとって社会主義は現実の課題になっていない」から革命党をつくらないという発想は、レーニンが「何をなすべきか」で批判した党建設の独自的重要性を認めず、大衆の自然発生性に拝跪した経済主義者と同一のものである。
目的意識的に、革命の綱領のもとに結集した非合法の革命党の建設を拒否し、一般大衆が社会主義を当面の現実の課題とするまで、合法活動に限定するという路線は、彼らがおずおずと掲げた「社会主義革命」を永遠に彼岸化する道であり、仮に彼らが社会主義革命を本気に考えていたとしても、必然的に敗北を結果させる路線といわなければならない。
第三に、労農派はロシア十月革命の世界史的意義に背を向け、ボルシェヴィキの闘争と路線を特殊ロシヤ的と矮小化し、自らを日本における修正主義の集団(党ではない)へと純化させてしまった。
ボルシェヴィズムの評価について、労農派の立場を山川は「レーニン主義はマルクス主義の理論から出発し、ロシアの特異な条件に適応した実践のなかから発展させられた理論であって、……多分にロシア的性質をもつものである。……ボルシェヴィズムがマルクシズムの発展であるというのは、……マルクスの基本理論をロシア革命の特殊な条件に対応して、革命運動の実践のなかで発展させたものだという意味においてである。……わが国の社会主義運動の任務は、われわれ自身の革命的実践の理論を発見し確立することで」(註9)ある、という。
周知のように、レーニン、トロツキーら当時のボルシェヴィキの指導者たちは、労農派が矮小化するように、特殊ロシア的理論にもとづいて、特殊ロシアの革命に勝利したのではない。ボルシェヴィズムは、世界のプロレタリアート勝利のための理論であり、勝利したロシア革命は、特殊ロシアの場において自己完結するものではなく世界革命の壮大な序曲であり、ロシア革命は世界革命の壮大な舞台の中でのみ、生命力をもち発展するものであった。ロシア革命が、ひとりロシアのプロレタリアート、農民、兵士の未来を決めたのみならず、全世界のプロレタリアート、農民、兵士の(そして同時にブルジョアジーをも)辿るべき道を決めたという点において、ロシア革命は世界史的な偉業であり、ボルシェヴィズムは闘う全世界プロレタリアートの闘いの指針であり、共通の財産であるということは言を俟たない。実に、ロシア十月革命は、全世界の革命的プロレタリアートに次のことを提示した。
「大衆が意識にめざめた一切の国々では労働者、兵士、農民の代表者ソヴィエトが設立し続けられるであろう。ソヴィエトを強化し、彼らの権威を高め、これをブルジョアジーの国家機関に対立させる――これこそ今日、万国の階級意識ある正直な労働者の最も重要な任務である。……ソヴィエトが労働者の大多数を糾合しうる一切の国では、労働者階級はソヴィエトを通じて最も確実にかつ容易に、権力に到達しうるであろう。権力を奪取した労働者階級はソヴィエトを通じて、現在ロシアで行なわれているように、経済的および文化的生活の全局面を管理するであろう」
(註10)。
ロシア革命は、「毎年、日和見主義者のために汚されていた社会主義的信条を、その本源たるマルクス主義に還元するための大革命、古いブルジョア世界に代って道義的および知識的文化とひとしく、政治的、経済的、および社会的生活の団体的または個人的な物質面においても、新共産主義秩序を創造するため」(註11)の大革命だったのである。
だが、労農派は新秩序の創造に参加しなかったばかりか、ロシア革命を特殊ロシアの革命に矮小化し、ボルシェヴィズムを特殊な革命理論だと強弁してしまった。
このことによってさらに彼らは、「一、労働者階級の広範な大衆に、新プロレタリア民主主義(=ソヴィエト民主主義―筆者)がブルジョア民主主義と議会主義とに代らねばならぬ、実際的意義を説明すること。二、産業の全部門、陸海軍、および農業労働者と小農民との間にも、労働者評議会を拡大しかつ樹立すること。三、評議会内に確信的、意識的な共産主義多数派を獲得すること」
(註12)という革命の勝利のための具体的、実践的闘争から完全に逃亡し、社会主義への暫進的推移のための穏健な実践を労働者に訴えつづける日和見集団であることを自己暴露したのである。
したがって、第四に第三インターナショナル(=コミンテルン)についても、労農派は徹頭徹尾、日和見主義であり、一国主義的対応をとった。
「条件を異にするそれぞれの国の社会主義革命は、その国の土壌に根ざして発生し成長した社会主義運動の自主的な行動により、その責任において達成されるべきものであって、世界の一中心から指導されるべきものではない。社会主義運動の国際主義は、単一な世界党というかたちで実践されるものではなく、自主性をもった各国の社会主義運動の緊密な国際的協力によって成り立つべきものである」
(註13)。
ボルシェヴィズムに対して日和見的評価を下した労農派は、インターナショナルに対して、反動的態度をあらわにし、ボルシェヴィズムが基軸になってインターナショナルが再建されたその矢先に、第三インターを民族共産党の単なる寄せ集めにすることを主張した。もともと、世界革命=永久革命の立場に立ちえない彼らにしてみれば、「プロレタリア独裁のための闘いは、この政綱を採用する全共産主義分子の統一にあり、断乎たる国際的組織を必要とする」(註14)と高らかに宣言されたように、世界党の建設こそが革命の勝利のために不可欠の条件であることを理解できないのはけだし当然であった。世界党建設に前進を開始した全世界の革命的プロレタリアートの闘争に対して、あろうことか、「労働者運動の重力中心はまったく国民的土壌の上にとどまり、国民的産業の上に建設されかつ国民的議会主義の範囲内に局限された民族国家の枠内に、まったくとどまっていた」(註15)第二インター、しかも、第一次大戦によってブルジョア補助機関に堕落してしまっていた姿があばかれ死を宣告された第二インターに戻ることを労農派は主張したのである。彼らには、「いわゆる国民的利害を国際革命の利害に従属させるこのインターナショナルは、諸国のプロレタリアートの相互扶助を具体化するものであろう。なぜなら、経済的およびその他の相互扶助なくしては、プロレタリアートは新社会を組織すべき位置にないからである」(註16)というインターナショナリズムは一カケラも見出すことはできない。
「世界の一中心から指導される」という言葉の中に、インターナショナルに対する労農派の水準がいかんなく暴露されている。それは、各国プロレタリアートは自らの闘争に勝利するためにも、不断にインターナショナル建設に能動的、主体的に参加することが共通の責務であることを全く理解していないこと、さらに、第三インターの歪曲と官僚化に抗して、トロツキーを先頭とする左翼反対派の闘争があったことについて何一つ知らなかったことを示している。いったい第三インター内の論争に示される国際共産主義運動の歴史を知らない共産主義者が存在しうると労農派は本気に考えていたのであろうか。(このことは、現在の協会向坂派が、スターリニズムの犯罪性について全く無自覚で「モスクワの声」の役割を果していることと決して無関係ではない)。
実に、向坂氏とわが協会派が「日本におけるマルクス・レーニン主義の適用を一貫して追求してきた」と最大級の讃辞を送る労農派の正体は以上のようなものであった。ブルジョア社会において、賃労働と資本の非和解的対立を基礎に、ブルジョアジーとプロレタリアートとの抜きさしならぬ対立があり、これは革命によってしか止揚できない、というごく当然のことを理解した以外に、どこでマルクス・レーニン主義と共通するものがあるのかと疑問に思う。
「……における」「……の適用」の言いまわしは、中間主義、日和見主義共通の用語だが、いずれにしても、以上のような労農派路線をマルクス・レーニン主義と称揚してやまないことに彼ら協会向坂派の本質が明らかにされていると考えなければなるまい。協会向坂派の誇大宣伝にかかわらず、労農派は、「ロシアではプレハーノフ、ポトレソフ、ブレシコフスカヤ、ルパノヴィッチ、つぎにすこしばかり隠蔽されたかたちではツェレテリ、チェルノフ氏らの一派、ドイツではシャイデマン、レギーン、ダヴィットその他、フランスとベルギーではルノーデル、ゲード、ヴァンデルヴェルデ、イギリスではハインドマン、フェビアン派、等々」
(註17)世界中のどこにでもころがっていた日和見主義と同列の集団にすぎなかったことは明らかである。
註1 「社会主義協会テーゼ」学習のために―「社会主義協会テーゼ」P一三九。
註2 同上P一三九。
註3 情水慎三「日本の社会民主主義」P七五。
註4 同上P一一〇。
註5 沢村義雄「レーニン主義の綱領のために」―国際革命文庫3P五五。
註6 トロツキー「結果と展望」一九一九年のモスクワ版への序文―現代思潮社刊P六。
註7 小山弘腱「日本資本主義論争史」上―青木文庫P二八。
註8 「協会テーゼ」学習のために―「協会テーゼ」P一三三〜四。
註9 同上P一三〇。
註10 「全世界のプロレタリアートに対する共産主義インターナショナルの宣言」
―「コミンテルンドキュメント」TP四六。
註11 「万国の労働者に対する共産主義インターナショナル第一回大会のアピール」―同上P三四。
註12 「コミンテルン第一回大会で採択されたブルジョア民主主義とプロレタリア独裁に関するアピール」
―同上P二四。
註13 「協会テーゼ」学習のために―「協会テーゼ」P一三〇〜一。
註14 「第一回大会で可決した共産主義インターナショナル設立の決議」―「コミンテルンドキュメント」T二五。
註15 「全世界のプロレタリアートに対する共産主義インターナショナルの宣言」―同上P四七。
註16 「第一回大会で採択された共産主義インターナショナルの政綱」―同上P三〇。
註17 レーニン「国家と革命」―国民文庫P一一。
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