目次
解説…………………………………………木原一雄
スターリニズムの抬頭と衰退
第四インターナショナル第四回世界大会テーゼ
スターリニズムの衰退と没落
第四インターナショナル第五回世界大会テーゼ
資料
■東ドイツの暴動……『フォース・インターナショナル』論説
■ハンガリー革命の総決算……ミッシェル・パブロ
あとがき
解説
1 本文庫に所収した二つの論文、「スターリニズムの抬頭と衰退」「スターリニズムの衰退と没落」は、わが第四インターナショナルの第四回大会(一九五四年)と第五回大会(一九五七年)――いずれも正確には「国際書記局」派の大会である――が採択した決議である。この二つの歴史的文書がもつその内容の素晴らしさにもかかわらず、これまでわれわれは広く活動家諸君の前に公開することができなかった。わずかに、一九五八年に当時の旧国際主義共産党(ICP)が機関誌「永久革命」に発表しただけであった。今日、国際スターリニズムが全面的な分解と危機の最後的局面を迎えているときに、この歴史的文書をようやくにして国際革命文庫として公開できたことは意義あることと確信する。
2 第四回大会の「スターリニズムの抬頭と衰退」は、その題名が明らかにしているとおり、戦後の新しい国際的力関係に照らしてその歴史的な生成と発展、衰退を分析し、わが第四インターナショナルの任務を導こうとしたものである。
第四回大会が開催された一九五四年当時の情勢は、前年に国際スターリニズムの牽引者であり、支柱にほかならなかったスターリンの死を契機として、国際スターリニズムが危機と分解をとげはじめた重大な局面を迎えていた。事実、いかなる不協和音も許されなかったソ連ボナパルチスト官僚支配体制の内部では、「スターリン防衛派」、「改革派」、「中間派」の三分派間で暗闘が開始されており、それはやがて国際共産主義運動を混乱のルツボにたたきこんだ二〇回大会のフルシチョフ報告へと発展する伏線をなすものであった。そして、東欧労働者国家圏においても、全世界をゆるがしたあのハンガリー・ポーランドの政治革命の勃発を予示する反官僚闘争の炎が、一九五三年に東ドイツ・プロレタリアートによって灯されていた。このような、国際スターリニズムの危機のはじまりと政治革命にむかった情勢の進展は、わがインターナショナルにかつてない新しい活路を切り拓いたものであり、わがインターナショナルに重大な任務を提起するものであった。こうして、第四回大会は、歴史的なスターリニズムの衰退のはじまりにたいして体系的な分析を加え、反官僚政治革命のための介入の準備へと着手したのであった。
3 「スターリニズムの拾頭と衰退」のなによりもまず第一の意義は、一九二〇年代後半と三〇年代前半においてトロツキーと左翼反対派によって確立された、スターリニスト官僚の本質把握(その発生の客観的根拠、労働者国家に依存しつつ官僚的に寄生するという二重的性格、その衰退の展望)を新しい戦後の国際的力関係のなかでより具体的に発展させたことにある。すなわち、スターリニズムに反対する見解の多くが単に反動的に反発するにとどまり、あるいはその見せかけの強さに惑わされ、それが永久不変のものであると把握したことに比較して、わがインターナショナルは世界革命の新しい生きた力関係のなかでその衰退の必然性を明らかにしたのであった。スターリンとイギリス帝国主義の協定の枠を破って権力を奪取したユーゴ革命の勝利。同様にスターリンの暗示する「国民党政府との連合政権」という指令をはね返して蒋介石政権を中国大陸から掃討しつくした巨大な中国革命の勝利。これを背景とした北ベトナムと北部朝鮮の労働者国家の誕生。ソ連スターリニスト官僚の軍事的・官僚的主導によるものとはいえ東欧労働者国家圏の成立。決議は、これら全ての新しい国際的力関係の出現が、スターリニズムを成立せしめた最大の要因であるロシア十月革命の一国的孤立を解消させ、かくして国際スターリニズム全体の衰退化、ソ連スターリニズムの危機、政治革命のための新しい基盤の形成を招来せしめていることを、大胆に提起したのであった。これらの分析と予見は、みごとに通中した。すでに述べた五六年のフルシチョフによるスターリン批判報告、ポーランドとハンガリーにおける政治革命の勃発は、まさにこの予見通りにほかならなかったのである。こうして、第四回大会は、トロツキズムの政治的・思想的な正当性を、その具体的な能力において確証づけたのであった。三〇年代と四〇年代の一方の強大この上ないスターリニズムの戦列にたいする極少数派としてのトロツキズム――このことがトロツキズムの思想上の敗北では断じてないことを、そして必ずやトロッキズムがスターリニズムに打ち勝つ本来の勝利者であることを、第四回大会決議はあらためて確証させたのであった。
これらの点で、この第四回大会決議は、第四インターナショナルの綱領的核心であるトロツキ−の「ソヴィエト国家の階級的性格」「今日のソヴィエト連邦」(現代思潮社版第九巻)、「裏切られた革命」(同、文庫)の具体的発展であり、これらとあわせて学習すれば、労働者国家とスターリニズムにかんする強力なイデオロギー的武装をかちとることができよう。
4 本決議の第二の意義は、そのもつ方法論的・内容的な提起の正しさと大胆さから言って、これが戦後のインターナショナルの歴史において論争の書だという点である。一九五三年から一九六三年の第七回、統一大会に至るまでのちょうど十年間、わがインターナショナルは「国際書記局」(いわゆるパブロ派)と「国際委員会」(いわゆるアメリカのSWPを中心とするキャノン派)という二つの戦列に分割されていたが、その直接の契機かつ最大の要因となったのが、本決議の内容だったのである。
この決議は、第四回世界大会議案として一九五三年五月の第一三回国際執行委員会に最初に提案された。だが、草案の内容が明らかにされるや否や、アメリカのSWP多数派、イギリスのSLLを中心としてインターナショナル内に多くの批判を呼ぶこととなった。SWP全国委員会は、全インターナショナルにむけて「公開状」を明らかにし、そのなかで「パブロは……あらゆる戦術を用いて独立した革命的社会主義政党を建設するかわりに、彼はスターリニスト官僚とその重要な支援者に目をむけ、大衆の圧力のもとにトロツキズムの『思想』と『綱領』を受け入れさせるようにスターリニスト党を変質させようとしている」と批判した。こうして、この決議案は、一九六三年の第七回・統一大会までわがインターナショナルを、「国際書記局」と「国際委員会」との分裂に導いたのであった。SWP、SLL、フランスの旧PCI多数派(今日のランベール派)が結集する「国際委員会」の主な批判点は次のことにあった。すなわち、世界社会主義建設のための決定的な戦場である先進資本主義諸国のプロレタリア革命なしに国際スターリニズムの決定的な衰退はおこらないこと、したがって決議草案はスターリニズムの衰退にたいして楽観主義的にすぎること、ここからスターリニスト党にたいする独立したトロツキストの強固な党建設について過少評価が導かれていること、等であった。それゆえ、「国際書記局」と「国際委員会」との論争は、新しい戦後の国際情勢における力関係の評価と見通し、植民地革命と先進国革命との具体的な相互関係についての評価にまで拡大していたのであった。したがって、それは当然にも両派がともに賛成したところの第三回大会テーゼ「来たるべき対決」の方法論についての検討にまで発展すべき性格のものであった。なぜならば、第四回大会決議草案こそ、第三回大会テーゼのスターリニズムにたいする具体的適用にほかならなかったからである。
今日、新しい時代の登場のもとで、わがインターナショナルの内部において、世界革命の展望をめぐってふたたび国際論争がはじまっている。それは、われわれが世界革命の再高揚にむかっていかなる綱領・路線を提起して闘っていくのかという、わがインターナショナルの飛躍的な発展をめざしての必要不可欠な論争である。しかも、この国際論争は、かなりの度合で第三回、第四回大会テーゼの方法論をめぐる問題が再現されているのである。この点で、「来たるべき対決」と本決議とを一体のものとして検討することが今日とくに重要となっているのである。
5 本決議の具体的内容において、今日の時点から評価していくつか修正されねばならない点があることも事実である。その全てにわたって述べることはできないが、次のことにだけは注意を払っておかねばならない。すなわち、第三三項において「中国共産党も、ある程度までユーゴ共産党も現実的には官僚的中間主義的政党ではあるが、しかしながらなお両国の革命の圧力をそのなかに実現しているがゆえに、われわれは両国のプロレタリアートに新しい革命的政党を結成することや政治革命を準備することを呼びかけるものでない。われわれはユーゴ共産党と中国共産党のなかに左翼的傾向を、……」という箇所がある。この点が、おそらくは「国際委員会」の最も批判する点であったろう。たしかに、この点は今日では問題であり、修正されるべき箇所である。だが、その言葉尻をとらえて批判することは正しくない。当時においては、ユーゴ革命や中国革命の決定的な歴史的意義、世界革命と国際スターリニズム運動にあたえる決定的な積極的影響を大胆に評価することこそが正しかったのである。新しい評価と路線を導くうえで、飛躍しなければならないときに往々にして多少の行き過ぎは伴うものである。部分的な誤りは、その後の現実の経験に照らして修正すればよい。このような点で、本決議はいくつかの具体的問題点をもっているものであるが、そのことは決議の方法論上、基本的な内容の正しさ、素晴らしさを少しも損なうものではないのである。
6 第五回大会(「国際書記局」)の決議、「スターリニズムの衰退と没落」は、第四回大会決議のさらに具体的な内容上の発展である。それは、ソ連共産党二〇回大会、ハンガリー・ポーランド政治革命の重要な教訓を総括し、そのうえにさらに一層わがインターナショナルの任務を確定づけようとしたものであった。
この決議において、われわれはとくに二つの点を学ばねばならない。第一は、ハンガリー革命の総括についてであり、第二は、労働者国家の過渡期における基本的な問題についてである。
ハンガリー革命が当時どれほどの衝撃をもって受けとめられたかは繰り返すまでもないが、ソ連軍隊のハンガリー人民への弾圧に反対する見解は、ブルジョア的な観点からか、あるいは反スターリニズム的な観点からであった。そして、反スターリニズム的な観点からは、ただハンガリー人民の闘争をどう勝利させるべきかではなく、ただそれを賛美する見解だけが提起された。これと比較して、この決議は、ハンガリー人民の闘争の政治的弱点、とくに評議会権力がブルジョア的・小ブルジョア的諸党を統制するよう提起している。
同様に、労働者国家における過渡期の問題について、ここではいくつかの基本的で具体的な過渡的スローガンが提起されている。これは、われわれが、今日労働者国家圏においてかかげるべきスローガンの体系のための基礎材料となるものである。レーニンの「国家と革命」トロツキーの「裏切られた革命」をあわせて検討するとき、多くの教訓が得られることとなろう。
7 以上簡単な解説であるが、所収した論文を、今日問われているイデオロギー闘争の武器として活用されることを望むものである。
(一九七四・九・一五 木原一雄)
スターリニズムの抬頭と衰退
第四インターナショナル第四回世界大会テーゼ
はしがき
一九一七年以後のソヴィエト連邦と世界労働運動の発展は、根本的には世界的規模にわたる階級間の関係の力学によって決まるものである。この発展は、一九一七年から一九二三年にいたる革命の高揚期、一九二三年から一九四三年にいたる世界革命の退潮期、一九四三年以後の新たな革命的高揚期、という三つの主要な局面を経過している。
十月革命は多くの分野で新しい歴史的段階の出発点であった。
――十月革命、それは地球上の六分の一に最初の労働者国家を打ちたてた。
――それは、労働運動の一部が理論分野で前進するのを促がし、共産主義インターナショナルと各国共産党の創立によって独立の組織化を助けた。
――それは植民地人民の帝国主義に対する最初の闘争に強力な刺激を与えた。
一九一七年から一九二三年にいたる時期は、まず第一に新しい国家の生存と、世界における共産主義的前衛の形成と組織化のための闘争の時期であった。
第一次世界大戦につづく世界革命が敗北した結果、ソヴィエト連邦では官僚がソヴィエト民主主義を滅ぼし、独裁的政治権力をうち樹てた。ソ連の経済・文化の発展は過去三〇年間にわたってこの権力のもとにおかれた。こうした国家の行動と圧力を通してソ連官僚は世界の大衆運動、(当初は、ロシア革命に刺激されて創立された組織と運動)に強い影響を及ぼした。
共産主義インターナショナルと各国共産党は自己の活動をこの新しい段階に適合させねばならなかった。いいかえれば理論的・政治的に自己を固め、大衆との団結を強め、かくして将来の革命的高揚に備えねばならなかった。しかし最初の労働者国家とその官僚主義的堕落が強力な幹部もなく、社会民主主義からの出身者はほとんどいなかった組織において、大きな比重をもったために、こうした組織も堕落した。共産主義インターナショナルはクレムリンが共産党に指令を伝達する主要な道具と化してしまった。これらの政党の政治的理論的発展はこのように脱線させられ、その幹部と中央機関の選出が官僚主義的に行われたために、これらの政党は、世界革命を促進するためではなく、官僚の利益のために大衆と大衆運動を利用した。
クレムリンの外交政策のために各国共産党が利用され、一連の重大な労働運動の敗北がもたらされ、ついにドイツのナチズムの勝利と第二次世界大戦が勃発した。
第二次世界大戦の前夜、主要な資本主義諸国の共産党は労働者階級の中では少数派であった。スターリニズム、つまりソ連官僚の利益に世界プロレタリアートの利益を従属させることは、次のようなわりあい単純な制度を通じてなされた――警察独裁下の労働者国家、そしてそれ自身強力に統制され共産主義インターナショナルに指導された弱体な労働者組織。
第二次世界大戦の終了とそれ以後の数年間に発生した重要な要件によって、現在のスターリニズムの軌道のうえに、次のような複合体が形成された。
(a) ソヴィエト連邦、十月革命で樹立された生産関係の力とこの生産関係にたいして大衆が感じている愛着によって戦争中に激烈な抵抗闘争を闘ったあと、経済発展をつづけ、いまや事実上世界第二の工業大国になった。
(b) 東欧の新労働者国家、基本的にいって官僚主義的行動によってクレムリンのあらかじめの計画もなく樹立された。
(c) 中国、勝利的な農民蜂起に基づいて中国共産党は権力を獲得した。
(d) 一連の植民地解放運動、それはスターリニストないし親スターリニスト指導部のもとにある。
(e) 資本主義世界の共産党、西ヨーロッパの共産党は第二次世界大戦の末期に、「レジスタンス運動」のおかげで相当強力になり、その後の数年間すべての国で確保していた地歩を失った。しかしフランスとイタリアのような重要なところで、共産党は労働者階級の多数を獲得し、若干の変動を伴いつつもその後もその力を維持した。
(f) ユーゴスラビアも一九四八年六月までは以上の勢力につけくわえられていた。ユーゴスラビア共産党は英雄的大衆闘争を指導したおかげで権力を獲得した。
ソ連官僚制とその各国共産党にたいする強固な統制が発展した基本的条件、つまり革命の退潮、ソヴィエト連邦の孤立、その後進的経済事情は消滅した。
第二次世界大戦前に各国共産党への統制を可能にしていた――それはそれなりにこの時期の世界の相対的均衡を反映していた――均衡はもはや破壊されてしまった。
スターリニズムの「拡張」は、強化の要素となるどころかその分解をすすめる傾向を生んだ。その分解傾向は、ユーゴスラビア共産党の離反、「人民民主主義諸国」における共産党指導部の数多くの粛清、アジア共産主義運動について中国共産党との一種の指導分担の承認、事実上の解散に近いまでのいくつかの国での共産党の弱体化、ソ連邦内の政治的停滞の終了、衛星諸国の革命的高揚の開始にあらわれている。
この新しい情勢をもっとも明確に表現するものは、クレムリンが一九四三年に解散した共産主義インターナショナルの代りに、いかなる有効な国際センターも再建出来ていないことである。
最後に、大衆的共産党が成長をとげ、大国としてのソ連邦の魅力が増大しているにもかかわらず、戦後はスターリニストの影響外の左翼へ向う大衆的潮流(ベヴァン派やアジアの諸社会党……)が形成されている。
しかしながら、次のようなさまざまの要因が働いて、世界労働運動や非資本主義諸国にたいするクレムリンの影響力は拡がっている。すなわち帝国主義戦争の危険、物質的に弱小な同盟国に対してソ連国家がふるう権力、革命情勢が提起した問題を解決するために、手近かにある組織を利用して当初大衆が既存指導部の周辺に集結する事実がそれである。最後に、惰性と伝統のゆえに、とりわけこれらの党や国家の構造やソ連に対する関係が続いているがゆえに、スターリニズムの勃興期に成立した理論や方法が作用し続けるという事実がある。
ユーゴスラビアを除いて、共産党が大衆的基盤をもっているところでは、クレムリンとの大衆的分裂は生じていない。スターリニズムの分解は、クレムリン官僚の利害に対立する思想がこれらの組織に浸透する形をとって始まっている。かくしてスターリニズムの分解は全政治過程を通じて進行するであろう。大衆的基盤をもった共産党組織は維持されるであろうが、この組織形態の枠内で、新しい内容をもりこむ傾向が発展するであろう。この新しい内容は、これらの組織が表明する思想にももりこまれ、ソ連官僚の強い支配が現われる際の既存の組織関係にももりこまれる。
共産党が労働運動の少数派しか構成していない国では、他の組織を通じて登場する革命的高揚が共産党の孤立をふかめ、かくして共産党に深刻な危機をもたらす。
スターリンの死亡に続いたソ連邦内の事件は、一方でソ連邦の政治革命の客観的主観的条件を形成させかつ成熟させる。他方では、それらの諸変化は、ソ連以外の国の共産党組織にもっとも保守的で反動的なやり方で働いていた歯止めを緩和する。今日、共産党が極端に弱小な国においても、共産党はその国の革命的闘士の大多数を結集しているものである。その結果、ソヴィエト連邦だけでなく、共産党や非資本主義国の発展にも新たな段階が回され、これまでに述べた意味でスターリニズムの分解が促進される。
プロレタリアートのための新しい革命的指導部を建設するためかつ革命的マルクス主義の綱領と組織の連続性を保証すべく創立された第四インターナショナルの役割は、この分解に介入し、いまなおスターリニズムの影響を受けている健康な共産党員の勢力を自己の旗のまわりに結集させることにある。
第一章 ソヴィエト連邦におけるスターリニズムの抬頭と衰退
1 第一次世界大戦がきりひらいた革命的高揚によっても、帝国主義列強のうちの最も弱い環しか揺がされなかった。植民地を保有した帝国は無傷で残り、大巾な譲歩(八時間労働、普通選挙など)を大衆に認めることによって、革命運動の盛上りをつぼみのうちに摘み取ってしまった。この革命的高揚が起ったとき、五〇年の熱狂的経済成長を経過したアメリカ合衆国では、たえず移民がくりかえされたために、アメリカの工業プロレタリア大衆は労働組合と政治意識をもつに至るほどの十分深刻な社会的危機をいぜんとして経験していなかった。かくして革命的高揚の行動範囲は、世界の強国のうち中央ヨーロッパと東ヨーロッパ、とくにロシアとドイツ、イタリアに限られた。けれどもロシアは経済的文化的に後進国であり、工業プロレタリアートはきわめて少数で技術・文化も相対的に低く、数千万の文盲の農民の圧力に押しひしがれていた。ロシア革命とドイツ、イタリアの革命との結合によってはじめて、ソヴィエト民主主義を十分保証しうる物質的社会的基礎がプロレタリア独裁に与えられたはずだった。一九二二年のイタリア革命の敗北、一九二三年のドイツの革命の敗北は革命的高揚期の終末を告げ、ロシア革命は孤立させられてしまった。この孤立によってロシアのプロレタリアートは非常な物質的犠牲を強制され、その戦闘力と熱意は次第に消耗し、政治的積極性と政治への関心はだんだん後退していった。こうしてソ連官僚による政治的簒奪(さんだつ)の客観的条件が成立した。
2 にもかかわらず、一九一七年から一九二三年の革命的高揚が終了したからといって、国際労働運動は長期にわたる深刻な敗北をこうむったわけではない。世界プロレタリアートのうち、一九一八年から二三年の革命的高揚期に比較的静穏を保っていた部分が次の期間に続々と動きはじめた。一九二五年から二六年のイギリス、一九二五年から二七年の中国、一九三一年から三八年のスペイン、一九三六年から三八年のフランス、一九三四年から三七年のアメリカ合衆国がそれであった。ドイツ自身も、一九二九年の世界経済恐慌によって新たな革命の上昇に有利な条件が生まれた。このようにチャンスが多くめぐってきたにもかかわらず、結局において革命の退潮がますます深まって行ったのは、大衆運動に内在する力学のためではなく、労働者指導部が有害な役割を果たしたからである。こうした運動の敗北をいくどとなくもたらしたのは、なかんずくスターリニスト指導部であった。結局のところ、スターリニズムの登場は世界革命の退潮によって促進されたのであるが、しかしスターリニズムの発展は宿命的でも不可避的でもなかった。この傾向を逆転させ、工業化と世界的規模の勝利(たとえ部分的であっても)によってソ連のプロレタリアートの比重を強めようとするソ連と世界の革命勢力の努力(左翼反対派、ボルシェヴィキ・レーニン主義者)は、この諸事件を過去にさかのぼって考えても、完全にリアルなものであった。ロシア革命が世界革命と結びつくことはこの時期にも完全に可能であった。この結合が実現しなかったのはとりわけソヴィエト連邦と共産主義インターナショナルの指導部が果たした役割のおかげである。スターリニズムはまさしく一九二三年から一九四三年にいたる時期全体の革命の退潮の結果でもあり、原因でもある。
3 後進国にしてかつ孤立し、農民の圧倒的比重、プロレタリアートの数量的、文化的貧弱、プロレタリアートにおける民主的伝統の欠如――これらすべての要因によって、ソヴィエト連邦ではプロレタリア民主主義が枯渇し、大衆の間に受動性がまん延し、党と国家の官僚はますます政治権力を排他的に行使している。こうした官僚機関の存在は資本主義から社会主義への移行期には避けがたい。だがその数と比重は、社会主義革命から誕生した社会と経済が強化され、階級制や社会的不平等や社会矛盾が消滅するにつれて引き下げられるべきである。この消滅はまさに国家の死滅と一致する。この国家の死滅が実現するまでは、民主的に組織された権力にあっては労働者階級は官僚に対して厳格な統制をくわえることにより、こうした官僚の行きすぎを制限するはずである。全面的犠牲と貧困のもとでは、国富のすべてを管理し分配する政治権力は、たちまちこの分配の規制者に成上り、消費の主要な特権をわがものにしてしまった。官僚どもははっきりした保守的階層を形成し、搾取者ないし小ブルジョア分子(クラーク、ネップマンなど)とぐるになってプロレタリアートと異った物質的利益を擁護した。この階層はつづいて特別の社会的利害を意識し、他の社会層に対して自己を守ろうと決意した官僚階層(カースト)となった。
この官僚階層の形成と強化は政治的分野ではこの国の政治闘争の唯一の舞台たるボルシェヴィキ党を分裂させた分派闘争に主として反映されている。スターリン派は官僚の支持を受けたために分派闘争に勝利した。この勝利によってついに、ソ連のプロレタリア民主主義の最後の牙城たる党内民主主義が破壊された。所有関係をのぞいてはこの国の社会的上部構造は完全にひっくりかえり、基本的にソ連官僚の利害に基礎を置きそれを擁護するスターリニスト的ボナパルチスト独裁が樹立された。
4 十月革命こそ革命的高揚のもっとも明瞭な表現であったとすれば、ソ連官僚の勝利は革命の退潮を最も基本的に表現するものであった。しかし、この後退は世界資本主義の衰退の環境の中で発生した。世界資本主義の衰退はきわめて深刻化し、帝国主義間の対立はこの衰退を基礎にして、いっそう尖鋭化し、労働運動は世界中でいぜんとして強力であり、ソ連国内においてもロシアの旧ブルジョア階級の残党も新しいブルジョアジーの核も、あまりにも弱体であったため、プロレタリアートの後退にもかかわらず、資本主義がソ連邦で復活することはなかった。概して反革命は上部構造の枠内に限られた。生産手段の国有化、外国貿易の独占、全面的経済計画化で特徴づけられた生産様式――十月革命が創設し、世界資本主義体制からソ連経済を脱出させ対決させたのはこの基礎であった――は、ソヴィエト連邦の歴史の進展過程でも維持され、強化された。レーニンの命題として過渡期を特徴づけるといわれたところの、資本主義と社会主義との闘争は、ソ連内では生産の領域――そこでは実際のところ、あらゆる資本主義形態は廃棄された――から消費の領域に移った。ソ連官僚のボナパルチスト独裁は、政治的反革命の産物であるから、これを倒すためには政治革命が必要である。しかし、ソ連国家は十月の社会革命の成果であり、ソ連国家はいかに特殊で不適当なやりかたであろうとも、この十月革命の経済的社会的成果を擁護しつづけている。資本と生産手段の私的所有の支配を(段階的にではあれ)復活する社会的反革命いがいにはこの国家を打倒することはできない。ソヴィエト連邦を堕落した労働者国家とするわれわれの定義は、現代ソ連社会の次の二重の基本的要素を考慮に人れたものである――一方で、十月革命からもたらされた社会的基礎の維持と増大、他方で、この同じ基礎のうえでの政治的反革命の勝利。ソヴィエト連邦の無条件擁護というわれわれの政策はこの矛盾したソ連社会に対応している。官僚独裁の打倒と社会主義的民主主義の再建を通じてソ連社会を前進させ、ソ連の社会的基礎を打倒し資本主義の復活をもたらすソ連敗北を阻止するのがわれわれの政策である。
5 このソ連の現実の枠内で次のようなソ連官僚制の二重性が現われている。
(a) 一面では、ソ連官僚はソ連の独特の社会構造から発する特権をもつ寄生的階層である。したがって自己を維持するために、国の内外のブルジョアジー、小ブルジョアジーに対抗してこの社会構造を自分の流儀で守るよう余儀なくされている。ブルジョアジーと小ブルジョアジーはこの社会構造を滅ぼして(いかなる形態であろうと)資本主義経済を再建しようとしている。
(b) 他面ではこの寄生的階層(カースト)の特権は、プロレタリアートから政治性を簒奪し政治的受動性をはびこらせ、プロレタリアートの革命的展望を失なわせることによらなくては拡大もできず、一時的安定すら可能ではない。だから官僚は、ソ連プロレタリアートの新たな革命的活動と新たな決起を防ぐための内外条件をプロレタリアートに対抗して維持せざるを得ない。
官僚のこの矛盾した性格は同様に次の事実に表われている。官僚は、帝国主義とあらゆる復古主義者に抗してソヴィエト連邦とその社会的土台を防衛する度合に応じて、国内のソヴィエト民主主義の再建を助けている。他方、それと反対に、一時的にしろソ連プロレタリアートと世界プロレタリアートの決起をうまく抑えこめば抑えこむほど、自己の特権を生む社会的土台をほりくずし、分解させる。
6 ソ連官僚のこの矛盾した二重性は一九二三年以後のかれらの内外政策全体に反映している。しかしこの二重性があらわれるときの具体的性質は基本的にいって、ソ連官僚が支配できない諸条件に規定される。すなわち国際的およびソ連内の階級間の力関係が規定するのである。この見地からみて、二つの主要段階に区分して検討しなければならない。
(a) 一九二三年から一九四三年まで。
革命と労働運動の世界的後退は資本主義制度の全般的恐慌および帝国主義の内部矛盾の激化とむすびついたために、官僚は国際革命運動と帝国主義との間に、また帝国主義列強相互の間に、さらにソ連国内の諸階級のあいだにおける力関係を利用してバランスをとりつつ自己の権力を強化することができた。ボナパルチスト独裁はこうしたバランスの結果である。ソ連官僚が追求する政策の目的は現状を維持すること、均衡を維持することである。この点でソ連官僚の外交政策の世界的総決算は改良主義的政策となる。というのは、この官僚たちは世界資本主義を打倒するのではなく、ただ現状の枠を維持するだけを目的としているからである。
(b) 一九四三年以後
資本主義制度の危機の深化と世界資本主義におけるアメリカ帝国主義の圧倒的優位の確立があいまって、新しい革命的高揚は、国際プロレタリアートと帝国主義との均衡、帝国主義列強のあいだの均衡をこわしてしまった。これらの要因によって諸列強はのぞむとのぞまざるとにかかわらず、革命と反資本主義勢力に対抗するため世界帝国主義統一戦線を採用せざるを得なくなり、均衡の維持や現状維持の政策はすべてますます空虚となってきた。スターリン主義的ボナパルチストをささえてきたこの基本的均衡の瓦壊によってソ連邦内の官僚独裁の基礎そのものがほりくずされた。同時に、ソ連邦における生産力の躍進、プロレタリアートの数量的・文化的強化、世界革命の力の国内への波及はソ連の社会勢力の均衡(プロレタリアートの政治的衰弱にもとづいた)を打破して、ソヴィエト民主主義をめざすプロレタリアートの闘争の再登場を準備しつつある。
7 一九二三年から一九四三年にいたる過程で、ソ連官僚の矛盾した二重性はソ連の内外政策におけるいくたの急転換として示された。
(a) 一九二四年から二七年。プロレタリア的前衛に反対したソ連内のクラーク・ネップマンの分子と官僚との連携。右翼国際路線――蒋介石、イギリス労働組合官僚、バルカン諸国の農民党との同盟など。
(b) 一九二八年〜三四年。クラーク、ネップマンの打倒、農業の強制集団化、向う見ずな工業化。同時に十月革命によって得られた労働者の政治的権利の徹底的破壊、各企業長の全権掌握、労働者階級内不平等の加速度的増大。帝国主義が経済恐慌によって弱体化し麻痺している時期に採用した極左的国際路線。
(c) 一九三五年から三九年。ソ連国内における右翼路線。農民の家畜・小規模農地の私有制復活、旧ソヴィエト憲法の廃止、オールド・ボルシェヴイキの世代全体の絶滅、道徳・文化などの分野における反動の勝利、ネオ・ブルジョア的傾向の全面的助成。同時に右翼国際路線――民主主義的帝国主義国との同盟、その国と植民地の祖国防衛の承認、人民戦線政策、スペイン革命・フランス革命の絞殺。
(d) 一九三九年から四一年。ソ連邦の大量粛清の中止を含む戦争準備。官僚の個人的地位の強化。国際面では対外同盟の突然の変更による各国スターリニスト共産党の極左的政策。
(e) 一九四一年から四三年。大戦中の右翼路線。国内政策――「大祖国戦争」、農民の富裕化、集団農場用地の大量私用化、共産主義インターナショナルの解散、国策の道具としての教会復活、汎スラヴ主義的宣伝など。対外政策――帝国主義との緊密な同盟、祖国戦線政策、連合国側の植民地解放闘争・労働者の経済要求に対する敵対など。
8 一九四三年から四七年の期間。ソ連官僚制は権力支配の絶頂期にあるかのように見えた。この期間は世界革命の退潮と新しい上昇との過渡期であった。同じ理由でこの期間は、スターリニズムの抬頭期と衰退期の境であった。世界革命の上昇はいぜんとしてスターリニズムを包囲するほど強力ではなかった。革命の高揚は一般的に制約されていて、官僚とその手先どもは多かれ少なかれ伝統的な手段で革命の手足をしばることができた(フランス、イタリア、インドシナ、マラヤ、部分的にはインドネシアと中国で唯一の例外はユーゴスラビアであった。けれどもこの革命の波は帝国主義にソ連官僚と暫定協定を結ばせるぐらいの威力は持っていた。ソ連官僚は領土の譲歩や経済的譲歩を得た代りに、革命を中止したり、押し返すことを約束した。テヘラン、ヤルタ、ポツダムの諸協定、ドイツの分割、ヨーロッパの二大分割、この期間中の西ヨーロッパおよび極東植民地諸国共産党の反革命的政策、東ヨーロッパにおけるブルジョア残党の維持、中国の連合政府樹立のための合衆国マーシャル元帥とスターリンとの共同の努力の意味はこれだった。この傾向に都合がよかった要因は――ソ連邦の国内情勢、恐るべき戦争の被害、消費財の極端な不足、一九四五年から四七年の産業転換に伴う経済危機、こうした情勢にある程度改善する官僚主義的手段としての衛星諸国からの略奪。
9 けれども、世界革命のうねり、なかんずく中国革命の勝利によって、ソ連官僚が帝国主義と全面的妥協をむすぶ可能性はかき消された。自己の必要に比べて余りにも狭隘な生活空間に窒息し 出した。この時期の間、ボル Vvウz゚~"|コ8崗ン|r1H」E香歌ゥ$Pタミ蛄ュユZェ*H E/契ソS册-オウ?Zラ_bタf
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