わが反戦闘争とインターナショナル(抜粋)
一九六七年一二月 日本革命的共産主義者同盟関東臨時総会
1 一九六七年十月佐藤訪べ卜にたいする学生たちの羽田闘争と十・二一の国際反戦統一行動は日本における新しいベトナム反戦闘争の上昇をつげしらせるものであった。
由井忠之進の首相官邸前焼身自殺、学生たちの羽田デモ、べ平連の米兵脱走への積極的加担、そして、反戦青年委員会への青年労働者たちの結集の端緒的なはじまり――これらは新しい意識にもられ日本反戦闘争の国際反戦戦線への参加をつげしらせている。米軍核基地体制にたいする沖縄民衆の闘いも、また、この新しい反戦闘争の波を積極的に構成してゆく。
2 アメリカ原子力潜水艦寄港とベトナムへのアメリカの軍事介入の急速な進行によびおこされた一九六四年末から六五年春への大衆的諸闘争は結局のところ停滞し、日韓条約にたいする闘いを最後として直接の政治情勢の場から消えていった。そして、この秋以来の新しい反戦闘争の登場なのである。
六四年末〜六五年春の反戦の諸闘争とこの秋以来の反戦の諸闘争の意識・性格・基盤の重要な相違をみなければならない。新しい上昇へ奮闘しつつある現在の反戦闘争の観点からするとき、この「空白」のような二年間は決して無駄にはすごされなかった。六四年末〜六五年春の反戦の諸闘争および日韓闘争の経験とその後の「二年の空白」なしには、現在の反戦闘争の性格をみることはできない――これらを先行する諸経驗が今日の反戦闘争の性格を客観的に準備したのである。
3 この相異と変化は、いま形をとりつつある新しい国際情勢の時代に立ち向かおうとする新しい反戦闘争の時代の形成を告げしらせている。
幻をおう諸国民の平和運動の時代から、リアルな目標をおうインターナショナルな反戦闘争の時代へ。
一九五〇年代から六〇年代にかけた諸国民的改良主義の平和主義運動=幻影をおう時代から、まぎれもなくリアルな目標を意識しこれに立ちむかおうとする文字どおり急進的(ラディカル)な国際反戦・反軍国主義闘争への時代的な総転換――このことを今日の反戦闘争は告げしらせる。
帝国主義世界にたいする世界民衆の解放的平和の闘争――それゆえにきたる反戦闘争と反軍国王義の闘争は必然的に反資本主義の刻印をふかくおびる。
4 六四年末〜六五年春の反戦諸闘争を特徴づけるものはどのようであったろう?
「うちつづく平和を突然やぶられた」ことへの平和主義意識の一つの爆発――しかし爆発しきれなかった爆発であった。保守的で国民的な平和主義意識のついに爆発しきれなかった中途半端な爆発であった。
米原潜艦はきつづけアメリカはベトナム軍事干渉を本物にしてしまった――しかし、国民的平和主義意識はその行為の積極性をうしなってしまった。このことは、一九五〇年代から六〇年代へ世界構造として形成された平和主義意識とその運動がはじまりつつある新しい戦争の情勢と諸条件にたいしてもはや無力であることを証している。幻は消えいく。フルシチョフの強制退陣は偶然でない――フルシチョフは彼が代表しておいつづけた平和の幻とともに退場を余儀なくされた。
5 六四年末〜六五年春の反戦の諸闘争はどのように不発を余儀なくされたのだろう? 平和主義運動の国民改良主義はどのように破産を証さねばならなかったのであろう?
ブルジョア改良的な平和な経験的生活の意識から出発したこの平和な生活をおびやかすかもしれない米原潜艦やアメリカのベトナム軍事干渉にたいする反発と反対――このような保守的な平和主義意識は無力であった。
大衆の平和主義的願望はあきらかであった。しかし、この願望が直面した当の相手はアメリカ帝国主義のはるかに強固な意志であった。このかぎりでは日本大ブルジョアジーの政府の立場はアメリカによって決定されていた。佐藤政府は米原潜艦をうけ入れ日韓条約締結を強行した。全体としての大衆がすぎ去りつつある「平和な過去」とその国民改良主義意識で反発し反対しようとしたとき、インドネシア・クーデターにいたる幾多の植民地クーデターによって示されつつあった冷酷な階級闘争の論理=力と力のリアルな論理でアメリカ帝国主義はのりだしおしよせてきた。
強引にでも米原潜艦が寄港しアメリカのベトナム軍事干渉が強権的に既成事実化されてしまうと、国民改良的な平和主義意識は全くどのようにも手のほどこしようがなかった。議会主義的で、改良主義的で、たんに平和主義的な世論や街頭カンパニアの諸行動では強権的な帝国主義の既成事実化にたちむかいようがなかった。大衆の圧倒的多くが平和主義的反撥と反感を捨てさったわけではなかった。この大衆の意識は受動的な立場におちいることを余儀なくされた。
抽象的でより直接性を感じとることの困難な日韓条約締結にたいして、闘争は大衆の自発性を一層欠くものとなった。
7 平和主義意識が危機としてうけとった米中戦争の予感に対してさしあたってアメリカが直接の軍事作戦上の目標を南北ベトナム革命に制御し、中国が必ずしも直ちにベトナムの戦場に登場しないことがしめされたとき平和主義意識の国民的で保守的で受動的な性格の弱点はこのうえもなく見事に明らかにされた。
たしかに、平和主義的意識にもとづく世論や街頭カンパニアの諸行動にもかかわらずアメリカのベトナム軍事干渉が強権的に既成事実化され、これらの世論とカンパニア諸行動の無力を思いしらされたことが平和主義的大衆の受動性を余儀なくさせた要因のひとつであった。このことはたしかではあった。しかし、この平和主義の国民的で保守的で改良的な性格は、アメリカ帝国主義の軍事的目標にたいするコントロール・制御がさしあたって通用することが明らかとなったとき、その深い弱点――新しい世界的情勢下における決定的な弱点をさらけ出した。
アメリカ帝国主義の「管理され」「制御された」反革命の軍事的エスカレーションが通用し得ることが明らかとなったとき、「ハノイ・ハイフォン港が爆破されたときはゼネ・ストをもって応えるであろう」という総評指導部の声明はものの見事に一片の反故にされてしまった。国民的で、保守的で、改良的で、待機的な平和主義の無力さの限りは、いまではトンと思いおこされもしない総評ゼネ・ストの約束にしめされている。「ハノイ・ハイフォン港がおそわれたときゼネ・ストをもって応えるであろう」という総評指導部の約束は、米中の軍事的衝突が直接の危機としてせまり日本国民がこの米中戦争にひきづりこまれるかもしれないというときのことについてであって「われわれの平和な国民資本主義をおびやかすな! これまでわれわれの国民資本主義は平和であった!」という卒直な告白であった。
8 それゆえに、新しく上昇する――新しく上昇することのできる反戦闘争は、保守的で、待機的で、改良的で、国民的な平和主義の立場から解放されて、その当初からして深く国際主義的なのである。
ベトナム民衆とアメリカ帝国主義の中間の立場か、それとも、ベトナム民衆の解放革命に連帯する立場か――このように争われた一九六五年のスローガン論争は決定的な意味をもっていた。第三者としての国民的平和主義から解放されてベトナム民衆の植民地解放革命に直接に連帯すること――ただこれだけが最も現実的な世界民衆の平和のための闘争的立場である。
第三者の国民的平和主義の立場は、今日、全くの政治的マヒを余儀なくされている。現在の世界的情勢のもとでは、そのような立場はベトナムの革命と反革命の闘争をただ眺めることだけが許されている。
ベトナム民衆を屈服させての帝国主義の平和か、ベトナム民衆の勝利的平和か、――第三者の国民的平和主義の立場にとって、論理的にこのことには関心がない。「ただ速やかな平和を」であり、強者の平和である。こうして結局のところ、第三者の国民的平和主義もまた「力の平和」を前提にしている。
南ベトナム解放民族戦線とベトナム民主共和国との植民地解放革命とこれにたいするアメリカ帝国主義は、それぞれの人民的と帝国的の目標をかかげ武力の戦闘への意志をこのうえもなく鮮烈にしめしている。そこには諸国民の平和主義的世論の介在する余地はない。諸国民の世論は平和をおもい願望する。しかし、この非武装の世論は、武器をまとって決意した二人の闘士たちの周囲でウロウロ、オロオロである。一層強力に武装した第三者が介入し、はるかにまさる武力で二人の闘士に憎しみの和平を強制するか? いうまでもなく諸国民の平和主義的世論は全く非武装である。しかも、アメリカの帝国的武力は世界史上最強のものであり、これにはるかにまさる武力などこの世にはない。他方、解放民族戦線とベトナム民主共和国の戦闘と抵抗への民衆的決意は、この世界史上最強の帝国的武力によっても征圧不可能なものであることがしめされている。
諸国民の平和主義的世論はオロオロと傍観する以外にない。二人の闘士の武闇がさしあたっては直接に全世界に飛び火しそうもないとき、諸国民はいくらか安んじて自からの改良的生活のなかに意識をおぼれさせていく――純武力的には強大である帝国的アメリカの自制心に諸国民の平和主義的願望をたくして。つまり、帝国的アメリカは諸国民の改良資本主義的平和そのものをおびやかすものではないであろうという約束手形をふり出し、諸国民の平和主義的意識はこの約束手形をみとめて帝国的アメリカのベトナム作戦を「余儀なく」とはいえ(?)見事に受け入れているのである。
9 ベトナムの革命と反革命が闘争するリアルな今日の世界では、平和とは戴然たる二つの道をとおしてしかない――ベトナム民衆の植民地解放革命の勝利的平和、つまり、帝国的アメリカの敗北的平和か、それとも、その逆か。
このいずれかの立場に立つことなしには、どのような平和への意識的で積極的な闘いの方法もない。ブルジョア的平和の立場は帝国的アメリカの勝利に加担することによって、そして、民衆的な平和の立場はベトナム民衆に加担しての帝国的アメリカの敗北による平和の追求である。第三の中間=国民的平和主義の立場はただ無力と政治的マヒをさらけだすだけである。
われわれの目的意識的な道は、帝国的アメリカの全世界戦争装置そのもの、彼らの反革命戦争を支える全条件にたいする総闘争、ベトナム民衆の勝利へ加担しようとする世界民衆の解放的平和への闘いである。
10 現情勢下における国民的平和主義の政治的マヒの状況は、総評運動の民同指導に鮮明な大いなる物質的無力として野ざらしにされている。平和主義と中立主義の官僚化した形かい化した醜態がそこにさらされている――平和主義的大言壮語とその物質的な絶望的無力が。
11 六四年末〜六五年春・秋の物質的無力さには三つの要因がある。
第一に、国民的平和主義の新しい世界的情勢に直面しての無力である。かつての安保闘争のように、改良的な平和主義と民主主義意識が全運動にたいする躍動的なへゲモニーそうちたてるどころではなかった。
これは以上にみてきたとおりである。
12 第二に、国民的ではあれ平和主義意識が感じとった危機感と憤激の直接性を行動的に解放しようとする改良急進的な指導能力を民同機構下の総評運動がすでに深く涸渇していたことである。総評指導部は平和主義的大衆の憤激の気分にたいして最小抵抗の官僚的な街頭カンパニアを受動的に承認したにすぎなかった。
一九五〇年代総評運動の自然発生的な改良主義左翼を失い捨て去った総評民同に対する支配的ブルジョアジーの政治統制の強まりと労働者大衆にたいする民同機構の官僚化の深い発展は、もはや、平和主義的幻想の意識にもとづいてすら大衆を積極的に行動に導く能力を欠いていた。かつての安保闘争においてすら彼ら民同機構はそのような政治的指導能力を欠いていたのであり、彼らは平和主義大衆の行動意欲の自発性そのものを抑圧しようとしたというべきである。
帝国的アメリカが決意してベトナム反革命に直接にのり出すとき平和主義的ではあれまともにぶつかってゆこうとする闘争は、「平和」な資本主義という国家的秩序――民同労働官僚の存立の秩序――に必然的に衝突してゆく。そして、そのような闘争のイニシアティヴを彼らに期待しようとすることは勿論幻想であり、彼らに自己矛盾を期待することである。
平和主義的大衆にとって現に手持ちの全国指導機構はこの総評民同機構でしかなかった。これに全国的に対置される共産党全国機構は民同の裏がえしとして深く日和見的で保守的な政治官僚機構であった。新しい闘争的情勢に直面した全国指導機構の政治的機能マヒが闘争場への大衆の可能な自発性すら抑圧したのである。絶対的に無力を体現するかのような相もかわらぬ平和主義の街頭カンパニア――大衆の政治意識はそんなに馬鹿でも愚鈍でもない。大衆の政治的「無意識」は彼らの方法で尖鋭で敏感である。
総評機構の政治的マヒにたいして、突然社会党中央におしあげられた佐々木派指導部は平和主義的大衆の憤激の気分を代弁しようとしたが、しょせんこの党は深くもっぱら反映をこととする自然発生性の組織であり、どのような目的意識的な大衆との結合の手段・組織ももっていなかった。結局、総評運動の左からの補足物以上たり得なかったことを、佐々木主流派体制の崩壊はしめした。
13 第三は、日本労働者階級の物質的基幹部隊を形成してきている新しい労働者層の問題である。一九五〇年代末以来、急速な経済拡大発展のもとで形成された層、今日新左翼労働官僚のもとにある労働者層のことである。彼らは一九五四年以来の日本労働運動の積極的な政治組織的運動から切断されて、新しい時代に新しい社会的層として登場しつつある。
彼らはブルジョア経済の「平和」な成長そのもののなかで、形成されただけに最も国民的な平和主義者たちである。そして、彼らは全くどのような進歩的全国政治闘争の経験もいまだもちあわせていないというべきである。
事態が米中軍事衝突へ直線的に発展したとすれば、彼らの重大な部分が平和主義的な生活防衛のために政治闘争の場へ手さぐりででもいやおうなしに参加してくることになったであろう。そして、このような彼らにたいしてジョンソンの約束手形――ベトナム革命という「限定された目標」への軍事作戦の「制御」という方策――は最も有効に作用し効果をあげたであろう――広範な都市の新旧の中間層をふくめて。農村の小ブルジョアジーはさしあたってここで全体として政治的後方にある。
相対的に進んだ労働者層の平和主義的無力、総評民同機構の秩序派としての反動化によって平和主義的大衆の闘争が不発的にクスブリついに解体されていくとき、例の約束手形にもとづく帝国主義の強権的方策の有力な政治的条件をなしたのはこれら新しい成長産業の労働者層であった。いまだ彼らは「平和」な改良資本主義という約束手形にもとづく支配的ブルジョアジーの強権的秩序の諸方策の有力な土台の一つをなしている。
14 今日の新しい反戦闘争について、以上の分析から三つの結論がみちびき出されてくる。国民平和主義運動の政治的マヒと解体そのもののなかから手さぐり的に無意識的に意識をたてなおしてきた日本反戦闘争の新しい波は以上の分析から導き出される三つの結論を経験的に背負い刻印されている。それゆえに、この新しい反戦闘争の性格は必然的であり、現実的であり、合理的なのである。
支配的大ブルジョアジーと総評民同官僚機構と日本共産党代々木官僚機構が、これら新しい日本反戦闘争にあるいは強権的に、露骨な敵意をしめし、ロウバイし、深い恐怖を感じるのは、これまた必然的で、現実的で、合理的なのである。
15 結論の第一は、国民的に対して国際主義である。意識と目標の国民的あるいは諸国民的にたいして、意識と目標の国際主義である。
結論の第二は、目標の幻的性格から、リアルな目標へ目標の現実化である。目標はインターナショナルに、かつリアルになる。帝国主義の反民衆的な全世界戦争装置そのものの直接性であり、それをリアルにささえる諸条件の直接性そのものが新しい反戦闘争の目標であり、総目標である。これは幻のように消えるわけにはいかない――民衆が帝国主義的軍国主義そのものに屈服させられるか、民衆がこれを物体的に解体征服する以外にない。これは幻ではなく最もリアルな物質なのである。それゆえにまた、この新しい反戦闘争は必然的にインターナショナルな反資本主義的闘争の刻印をふかくおびている。フルシチョフは幻とともに消えゆく。人々は幻のプリズムをもつことはもはやできない。人々はリアルな世界をその直接性においてみてとり、これに対する態度を決定しなければならない。物質に屈服するか物体を屈服させるか? 幻はもはや反動的である。
結論の第三は、国民的で、改良主義的で、深く受動的な平和主義、形骸化した諸全国組織にたいして、インターナショナルでリアルな新しい反戦闘争のためのイニシアティヴとヘゲモニーのために新しい政治組織的な諸傾向の自立的・自主的な発展・成長である。インターナショナルな新しい反戦闘争は、新しい意識で新しい目標をおうために、それにふさわしい組織的姿を要求する。
一九五〇年代の諸国民的な幼の平和主義の全面的マヒとその事実上の解体的崩壊にかわる新しい国際反戦の組織と装置を全国的にうちたてようとしなければならない。世界的な民衆の立場からする反軍国主義の諸闘争組織・機関を生み出し、獲得しなければならない。
かつての原水爆禁止運動と原水協、そして、また、その世界平和評議会は、もはや幻とともに消えゆく――それは決して政治的に再起することはできない――さしあたって、過渡的に醜悪な形骸を屍としてさらすだけである。 (以下略)
|