目 次
まえがき
ベトナム・インドシナ革命の完全勝利万才!――極東を第二のベトナムへ
二つ、三つ……数多くのベトナムを………………エルネスト・チェ・ゲバラ
わが反戦闘争とインターナショナル………………六七年関東臨時総会
パリ会談とゲバラ――真実に民衆のアジアのために――………………酒井与七
67―69年 総括と展望………………酒井与七
ニクソン訪中とアジア革命の展望………………酒井与七
「革命的潮流の勝利」 一九七二年八月一七日付「ニャンザン」論説
ベトナム人民の不退転の決意に応えよう――「ニャンザン」論説によせて――
ベトナムの現局面とわれわれの任務
資料 年表
まえがき
本改訂版をベトナム革命勝利記念版とすることが出来た喜びを、ベトナム・インドシナ人民、読者のみなさんとともに分ちあいたいと思う。本年一月から開始されたカンプチア民族統一戦線、南ベトナム解放民族戦線の大攻勢の中で、多くの人々から本書の再刊を望む声が殺到していた。編集委員会は、この要請に応えるべく準備を進めたが、インドシナ人民のあまりにもめざましい進撃と完全勝利までにはとうてい追いつかなかった。しかし本書がもつ意味はいささかも減じたりはしない。それどころか、ますます重要なものとなっている。
われわれは、再刊にあたって、初版の全文の掲載の上に、七一年以後の主要な論文を加えた。これらの諸論文はベトナム革命史における重大な諸問題をわがトロツキスト・第四インターナショナルがいかに評価し、闘ってきたのかを明らかにしている。とりわけ、ベトナムの党と人民を除くすべての左翼が「左」右の様々な誤りに陥いった七三年一月のベトナム停戦協定をめぐる評価と闘いは、われわれの正しさを事実をもって明らかにしている。もちろんそれは、それに先だつ「パリ会談とゲバラ」など諸論文の基本的観点の正しさの上になりたっている。さらにわれわれは、本書にベトナムの党と人民の中・ソ共産党指導部への弾劾の文として有名な「革命的潮流の勝利」(「ニャンザン」一九七二年八月一七日号)を合わせて掲載した。
この書は、わが第四インターナショナル・トロツキストがベトナム・インドシナ人民と共に歩んできた十年の歴史を明らかにしている。「ベトナムの党と人民と国家は、自分自身の完全な解放をめざす闘いによって全世界の解放を闘っている。われわれは、『ベトナムのように闘う』ときにはじめてインターナショナリストを名のることを許される。ベトナムこそ、われわれの進歩と解放を希う人々の前線である。どのように遠い陣地からも、どれほどの労苦を払ってでも、かならずそこに向って道をたどるべき前線である」(初版―はじめに)こうした観点にたってわれわれはこの十年間闘い、そして前進してきた。われわれの歴史はベトナム革命と共にある。ベトナム人民の勝利はまたわれわれの勝利でもある。
今日、日本共産党は、われわれに向かって「第四インターは解放戦線旗をかかげる資格なし」「第四インターはベトナム人民の敵」などという誹謗、中傷を流すことにやっきである。本書こそは、何にも増して彼等への反論となるであろう。さらに今日、ベトナム人民の偉大な勝利を受けて様々な新左翼、毛派の諸君がわれわれに反動的批判を試みている。これらの諸君は果して十年前の自身の「ベトナム革命論」を明らかにする勇気を持ちあわせているだろうか。こうした諸君には虚心担懐に「革命的潮流の勝利」を読むことを進めたいと思う。
ベトナム・インドシナ革命は勝利した。しかし、インドシナ人民と全世界労働者人民の前には、一層巨大な任務が待っている。革命インドシナを防衛し、統一社会主義インドシナ建設を果すこと、さらにインドシナ人民の勝利を受けて、アジア革命、世界革命の勝利と、アジア社会主義合衆国、世界社会主義合衆国建設に向けて闘うこと。本書はこうした任務に向かう第一歩でもある。
国際革命文庫編集委員会
ベトナム・インドシナ革命の完全勝利方歳!
極東を第二のベトナムヘ!
四月三十日、ついにサイゴンが解放された。待ち望んでいた一瞬であった。二色金星の解放戦線旗が高高と掲げられ、ベトナム革命が完全に勝利したことを告げしらせた。これは、全世界の労働者人民のメーデーへのまたとないプレゼントでもあった。四月十七日のプノンペン解放につづくベトナム人民の勝利。われわれは、まさに歴史的大転換期の一瞬を体験しつつあるのだ。カンボジア人民の勝利、そして次にはラオス人民が勝利する番である。インドシナ三国人民の武装解放闘争は、いまや全体として最終的勝利の局面をむかえ、長期にわたる闘争の成果を手中にしつつある。
インドシナ人民の勝利は世界階級闘争に偉大な貢献をなすものであり、われわれはインドシナ人民の勝利を卒直に喜ぶと同時に、新しい時代と任務について明確に認識しなければならない。ベトナム・インドシナ人民の勝利をただ単純に喜ぶことは許されない。彼らの勝利がもたらした衝撃は、世界反革命体制に深刻な動揺を強制し、われわれに追撃戦の任務を提起しているのだ。とりわけ深刻な打撃を受けたのが極東反革命体制であることは明白であり、だからこそわれわれの任務が重大なのである。われわれはここにベトナム人民の勝利を祝福する記念論文を掲載する。そしてわれわれは、ここでベトナム革命に関するわれわれの主張が基本的に正しかったことを確認すると同時に、われわれがいま担わなければならない任務について提起する。
臨時革命政府、全権力を奪取
七五年四月三十日、逃げ出したチューの後を受けたズオン・バン・ミン「大統領」は、「かいらい政府軍」の全将兵にたいして、降服を命令した。この日、臨時革命政府はその軍隊をホー・チ・ミン市(サイゴン市)に入城させ、暫定的に全権力を掌握した。布告第一号は、外出禁止措置の緩和を市民に告げた。
ベトナム・インドシナ革命は、最後の全面的勝利を獲得したのである。三十年にわたる人民戦争は、三つの帝国主義反革命をつぎつぎと打ち破り、ついに自らの完全な勝利のうちに平和を実現したのである。くらべるもののない壮大な革命と民族の叙事詩に、いま感動的なフィナーレが鳴りひびいている。
ホー・チ・ミン市の解放された市民たちは、連日喜びに湧き立ち、この長かった抑圧と支配からのほんとうの解放の実感を確かめ、祭りのよ・つな興奮のなかで肩を抱きあっているという。
同志諸君! すべての日本労働者人民諸君!
ベトナム・インドシナ革命の完全な勝利をねがって闘ってきた全世界人民の一部としてのわれわれは、いま、ベトナム・インドシナ人民が世界の革命的労働者人民、すべての被抑圧民族に贈ってくれたこのすばらしい勝利の先例を、半島全体に湧き起っている勝利のときの声に厳粛に耳をすましながら、しっかりと両手で受け取ろうではないか。
ベトナム・インドシナ革命の勝利万歳!
つぎは、われわれの番だ!
「停戦協定」とその後の闘い 革命はいかに勝利したか
七三年一月、パリ停戦協定締結の直前にわれわれは次のように主張した。
「ニクソンは、九項目協定の実施がチュー政権の崩壊にみちびくことをおそれ、南・北分断の固定化を強要している。このことは逆に言えば、革命勢力が提起し、一度はニクソンが承認のポーズを見せた九項目協定が、ベトナム人民の最終的で完全な勝利にむかって大きな前進をもたらすものであることを示しているのである。むろんこの九項目協定は、それがすぐさま最後の勝利を意味するものでないことは明らかである。そのなかには、中、ソのアメリカとの平和共存政策にもとづいた裏切りのために、強制された『妥協』の要素が存在していることも事実である。
だが肝心なことは、アメリカ車の撤退であり、革命勢力が軍事力と経済力の補給をおこないながらチュー政権の足もとで大衆的な政治闘争をくりひろげる余地を獲得することである。このことを保障するかぎりで、九項目協定は革命勢力にとっての武器になりうるのである。
したがって全世界人民の第一の任務は、ニクソンが九項目協定を即時に受けいれるように追いつめ、屈服させることである。そのために全世界であらゆる攻撃が、人民の実力闘争によって、アメリカ帝国主義に加えられなければならない」
「ベトナム革命勢力と全世界人民のたたかいが、ニクソンを屈服させて停戦を実現した場合、ベトナム人民の最後の勝利をめざすたたかいが、そこで中断されるのではないこと、革命勢力のいっそう攻勢的な進撃がそこから開始され、反革命のいっそう陰険で凶暴な延命のたくらみがはじまるのであることを知らなければならない。
アメリカはすでに一万人の私服を、すなわち諜報部員、テロリスト、いわゆる軍事顧問、経済顧問などを新しく送り込んだといわれている。同時に彼らは、膨大な量の近代兵器をチューに貸し与えた。この結果南ベトナムかいらい軍は、世界第四位の軍事力をもつにいたったとされている。
停戦が実現したとしても、ベトナム戦争がアメリカの戦争でなくなるわけでは決してない。アメリカの大量兵器で武装したかいらい軍隊が、アメリカの司令下で、私服のアメリカ軍工作員の直接指揮のもとで、必死で生きのびようとして悪あがきをつづけるのである。
停戦協定は、ベトナム革命の進撃を停止させるものではない。革命勢力は、都市における大衆行動を発展させるとともに、農村部、山岳部における革命権力をしっかりとかため、チューの最終的打倒の好機をつくり出すであろう。一切のかいらい政権にトドメをさしこの戦争の全てが革命の完全勝利として終る日にいたるには、まだ長いたたかいの日々がのこされている。
全世界人民は、ニクソンがとりかわす『協定』にはなんら束縛されるものではない。全世界人民がアメリカ軍事力に公然と挑戦して仕かける『世界人民戦争』には、一日たりとも停戦はない。いやまさにこのような戦闘を、全戦線でつくり出すことが、停戦後のベトナム革命の前進を真に支援することである。
しかしまたわれわれは、ジュネーブ協定の運命を想起しなければならない。それは反革命の一方的じゅうりんのもとで絞め殺された中・ソの平和共存政策は、これに見て見ぬふりをした。
われわれは『九項目協定』が実現したとしても、ニクソンとチューがそれを一方的に破棄して、再び公然たる軍事攻撃に転換する危険をあらかじめ見ておかなければならない。『停戦』の期間はそれゆえ、革命勢力が再度の全面的な軍事行動にそなえるために補給と経済建設をたたかいとる期間でもある。北ベトナムと南ベトナム臨時革命政府にたいする全世界の物資と資金援助は、停戦実現とともにいっそうの重要性をもつものである」(世界革命紙二九六号『ベトナムの現局面とわれわれの任務』)
「停戦協定」から一年が過ぎた七四年二月、われわれはさらに、ベトナム・インドシナ情勢を分析し、予測して次のようにのべた。
「七二年二月のニクソン訪中、七三年一月の『停戦協定』の成立によるアメリカのベトナム撤退によって、帝国主義反革命は、アジアにどんな新しい陣型をきずこうとしたのか。
アメリカは、なにもかも捨て去って逃げ帰ろうとしたわけではない。前進する革命を現状の地点に凍結し、その波及をかたく阻止しながら、破綻しかかっている本拠地の再建のための時間をかせぎ、あらためて出直して来ようとしたのだ。それでは前進する革命の凍結のために、どのような力を動員しようとしたのであったか。
その第一のものはいうまでもなく米中平和共存であり、第二のものは日本帝国主義の経済的アジア支配である。ニクソンはベトナム撤退に先立って、中国がアジア革命の前進を呼びかけないし、手もかさないという約束をとりつけた。日本帝国主義に関しては、アメリカの『犠牲的』なはたらきのかげで貯めこんだドルを、この際、自由世界防衛のために吐き出していただこうと要求したのである。
アメリカがあてこんだこの二つの力は、いわば、戦略的抑止力であり、さらにくわえて、アメリカ撤退後の戦術的重心にあたる陣地は、チュー政権、ロン・ノル政権、そしてこの両者を背後から支える直接の使い走りはタイ軍部の役割である。チューの防衛のためにはアメリカ自身の巨額な『援助』がそそぎ込まれ、日本帝国主義もこれに加担すべきであるとされた。カンボジアのロン・ノル政権を防衛するためには、北京にいるシアヌークの抱き込みがはかられ、中国官僚の協力があてにされた。
こうしてインドシナ三国がそれぞれ重大な力関係の変化をこうむらない範囲内で、『停戦』の状態に固定されること、言いかえれば抑止された革命と向き合った形でチュー、ロン・ノル、タノムの反革命独裁が維持され、一本の防波堤に連なること、ここにアメリカの撤退戦術が構想されていたのである。『停戦協定』後一年を経た今日、われわれはアメリカの撤退戦略と戦術が、どのような重大な打撃を加えられているかを目撃している。
タイのタノム軍事政権は打倒され、学生革命が切り開いた『民主主義』の情勢下でタイプロレタリア――トの政治的復活が進みつつある。農村地域では解放戦線の影響力と支配が急速に浸透し、都市では東南アジアでもっとも活発な政治的空気のもとで、急激な左派の形成が進みつつある。穏健派学生運動と結んだ現政権の必死の抵抗にもかかわらず、情勢は、タイ人民と軍部との激突にむかって進んでおり、再度のクーデターの企図をもはらんだ、革命の第二段階への全面的成熟のなかに事態はある。
タイ軍事政権の倒壊こそ、アメリカの予期しなかったもっとも重大な誤算である。インドシナにおける反革命軍事力の、ベトナム撤退後における最大の集結地がここにある。いまはまだ直接には民主主義の復活、日本の経済進出にたいする反対、上層軍部と買弁ブルジョアジーの野合による特権と富の独占にたいする憤激のたたかいの水準にあるタイ人民が、次の段階で反革命支配の根源たるアメリカとその軍事力にたちむかうにいたるのは必然である。もしそれを未然に防ぐことができなければ、ベトナムからの撤退を決断した根本的な前提がくずれ、インドシナそのものからの全面撤退を余儀なくされてしまうのである。
シアヌーク抱き込みを通じたカンボジア凍結の策謀は、ついに成立しそうにもないまま、いまロン・ノル政権は、最後的な倒壊の淵にたっている。テトを境とする第一次乾期攻勢は、カンボジア政府軍の首都防衛網を直接にとびこえて首都そのものに四〇〇発の砲弾をうちこんだ。第一次攻勢にすぐひきつづいて開始された第二次攻勢では、解放軍主力九〇箇大隊の完全包囲をつくり出し、首都プノンペンは一切連絡網を断たれ、ロン・ノルとその手下どもはどこへやら身をかくすにいたった。かくてプノンペンは大混乱に陥いり、いま解放軍の入城と全面解放のうわさにわきたっている。
ベトナム革命に直撃された極東反革命体制
われわれは、この攻撃が最終的な解放を意図してなされているものであるかどうかを知らされてはいない。しかしながら、この攻撃が中国からの軍事援助の打ち切りという圧迫をはね返した赤色クメールの完全な指導権のもとで、親帝派とのいかなる妥協をも排してロン・ノル政権の革命的打倒をたたかいとろうとするカンボジア解放勢力の意図を示すものであり、かつ、この解放勢力の意図こそ近い将来にカンボジアを唯一支配する力を保有しているのであってシアヌークを通じる『中立』カンボジアの平和的復活というアメリカの野望には、いかなる現実的根拠もないことを明らかにしたという点で、きわめて画期的なのである。
ベトナム情勢の一年間の集中的意義は、チューの側には『停戦協定』を順守するいかなる意志もないこと、そしてそのことはチューの力の限界をものがたり、彼らが『協定』の一項目でも厳密に履行しようとすれば、ただちに彼ら自身の破滅が招来されるにすぎないことがいまやまったく明らかになったということである。チューはいま、ぎりぎりの瀬戸際で支えている。
『南ベトナム国民は、自らの力で自らの領土を守らねばならない。単にわれわれの支配地域ばかりでなく、いま解放勢力か占めている地域についても。すなわち、わが国土では、共産主義者の末端にいたるまで完全に根絶しなければならない』(一九七四年一月四日の演説)。チューの意図を露骨に示すこの発言の背後には、北ベトナム、南ベトナム臨時革命政府がその軍事力を急速に増大させ、経済建設も順調に進んでいる現実にくらべて、チューの支配下ではこの一年に物価は六三・九%も値上りし、失業者も一四万人増えて五七万人にのぼり、三〇万人の難民をかかえこまなければならないという崩壊的現実があるのだ。
チューの支配下にあって、『停戦協定』に期待をかけ、第三勢力を名のり出た全ての人々には、なんの機会も与えられなかった。戦火はやまず、この一年政府軍一万七千人と一万人以上の『民間』人が死んだ。こうしていま、『停戦協定』とは何であったのかを、あらためてあきらかにすることができる事態に、すべてのベトナム人民は直面しているのである。アメリカ帝国主義とチューが、『停戦協定』に抱こうとした期待は、本拠地アメリカの再建のための時間かせぎであり、そのための中国、ソ連のベトナム解放勢力にたいする抑止であった。だがこの抑止が、本質的な意味で重要な役割を果していないこと、解放勢力はそのチュー包囲の環をすこしもゆるめず、軍事的にも政治的にも新しい攻勢の準備を着々と進めつつあることは、チューのヒステリックな叫びが逆に証明しているのである。
ベトナム情勢は、明確に力の対決による最終決戦にむかっていくつもの小衝突をくりかえしながら緊張した対峙の段階にある。この決戦は不可避である。チューの声高い反共演説がくりかえされるたびに、失望した『中立』派は都市における民族解放戦線派へと結集していく。八ヶ年計画をその初年度で葬り去った南ベトナム経済の破局的崩壊は、都市の労働者・人民の大群を潜在的な反チュー派にますますかたく結集させる。だが、槌音高く前進する革命の建設は人民とその軍事力をかつてない速さで決戦にそなえさせている。全世界の革命的勢力の任務は、ベトナムの最終決戦が不可避であること、すべての国、地域でベトナム革命にたいする援助を組織し、ニクソンとチューの破産のためになしうるあらゆることをおこない、ベトナムにひきつづく新しい反帝戦線をきずくためにたたかうことを通じて、自らをこの最終の決戦にむけて準備することである。
ベトナムからの撤退にあたってアメリカが敷設した反革命第二陣型は、こうしていま突破されはじめた。革命的打撃は、この陣型に外側からその内的中心にむかう形で、すなわち、タイ、カンボジア、そしてベトナムそのものへとむかう方向で加えられている。インドシナ永久革命の力学は、増幅して新しい波動を描きはじめた」(世界革命紙第三三三号「アジアをめぐる情勢と日本労働者階級の任務」)。
パリ「停戦協定」が何であったのか、またベトナム・インドシナの革命勢力が、それをどのように有効に駆使して闘ってきたのかについて、われわれはここに引用した論点にそってとらえてきた。
今日の革命の最終的勝利の現実は、われわれのこのような理解が基本的には正しかったことを教えている。
「停戦協定」がアメリカ帝国主義内部のふくれ上った矛盾を利用し、中ソを中心とする世界革命の例の主体的な困難にふまえて、アメリカ帝国主義の公然たる武装反革命を撤退させ、チューかいらい政権をベトナム人民のなかで孤立させていくための「勝利にむけた妥協」の戦略であったことを、今日の勝利が示している。そしてまたベトナム・インドシナの一体となった革命勢力が、この「停戦協定」を有効に利用して、チューの腐敗をあばき、「正義の懲罰」の大義のもとで最終決戦の幕をあげるべく、この二年間にわたって、政治的・軍事的・経済的な準備を着々とすすめて来たことも明らかである。
こうして闘いとられたベトナム・インドシナ革命の勝利は、それが徹底的であること、反革命は最後の一人にいたるまで解体されてしまったこと、もはや新たに戦場にもち出すどのような予備力も残ってはいないことにおいて、まさに完全である。アメリカ帝国主義は、インドシナに対する反革命的介入を最終的に断念せざるを得ない。彼らは命からがら見栄も体面もすててヘリコプターに逃げ込み追いすがる昨日までの「ベトナムの友人」たちを蹴落しながら、待機する空母に落ちのびた。彼らの撤退は、一つの痛快な喜劇の様相を呈した。彼らはふたたび戻っては来られないであろう。
ベトナム・インドシナ革命の勝利が完全なものであり、反革命が文字通りせん滅されたという事実そのものから出て来るのは、アメリカ帝国主義の世界戦略が、三度び変更されなければならず、新しい後退した地点に、彼らの新しい防衛線を敷かなければならないということである。そしてまたこの事実とともに、われわれの新しい任務が設定されなければならないのである。
ベトナム・インドシナ革命は永久革命である
ベトナム・インドシナ革命の勝利は、ロシア革命にひきつづく世界革命の第三の巨歩としてとらえられなければならない。しかもそれは、新しい大きな、独白の特徴をもっている点で、さらに注目されなければならない。
その第一は、この革命が三つの帝国主義反革命を次々とうち破りなかでも、史上最強、最後の帝国主義反革命であるアメリカを打ち破ったという事実である。この意味においてこの革命は、自らの解放のために闘いながら同時に文字通り全世界の解放のために闘い、勝利したのである。これほど強大な敵と闘い、これほど徹底した勝利をおさめた革命はいまだない。しかもベトナム・インドシナの革命の勢力は、自らの果した役割、自らのこれからも果していかなければならない役割について、完全に自覚している。勝利の日、臨時革命政府は声明し、呼びかけている。
「今日獲得された勝利は、われわれの戦いを支援してくれた全世界人民のものであり、われわれはこれら人民がわが国の建設と再建に当たっても、支援と援助を続けてくれることを期待する」と。
第二の特徴は、この革命は、獲得した成果に自足し、そこに官僚的な秩序をうち立て、全世界の人民の闘いから切断されても自らの防衛に専念するようなスターリニストの方法論をしりぞけ、明確に永久革命、世界革命の道を歩んで勝利したということである。彼らは、戦線を拡大し、インドシナ半島全体を戦場に転化した。帝国主義反革命は、こうした革命の永久的な発展を封ずるため、自らを世界反革命として登場させ、あらゆる予備力を動員することを強制された。そしてその条件が、広大な人民の海に溺れ死んだのである。勝利したこの革命は、統一した社会主義インドシナにむかって、必然的に歩きはじめるであろう。帝国主義反革命との言い表わせないほど困難にみちた闘いをともににない、助け合ってつくり上げた今日の共同の勝利の体験は、統一社会主義インドシナのための確固とした土台である。
この歩みを支援し、この歩みを妨げようとする者と徹底的に闘って、革命の新しい前進に寄与することは、全世界の革命勢力の共同の任務である。とりわけ、帝国主義国の内部にいるわれわれは、重大な任務をひきうけなければならない。
アメリカ―日本帝国主義が、これまでになした全ての罪科、全ての破壊、略奪、搾取を完全につぐなうための、無条件の賠償を、勝利した革命権力にただちに支払うことを要求し、実行させなければならない。帝国主義反革命にたいする勝利を実現したベトナム・インドシナ人民は、その日から社会主義をめざす新しい闘いを開始している。帝国主義反革命に対する直接の闘いだけが国際的意味をもつのではない。統一した社会主義インドシナをめざす闘いもまた、直接の革命戦争にまさるとも劣らない世界革命の利益を代表している。それは、全アジアの、全世界の人民を新しい社会、新しい時代を切りひらく決起に力強くひきつけるのである。戦争によって荒廃させられた国土を掘り起し、再建する彼らの新しい闘いにもまた、巨大な困難が待っている。ベトナム・インドシナ革命に連帯する全世界の革命派の闘いは、新しい課題をかかげてただちにはじまらなければならない。
新しい時代の新しい任務
ベトナム・インドシナ革命の勝利とともに、一つの時代が終り、新しい時代がはじまる。この新しい時代に戦場となり、強大な反帝国主義の戦線がきずかれなければならないのは、われわれの闘いの舞台であるこの極東の地である。
われわれは七〇年代前半の世界――アジア情勢を、次のようにとらえた。
「昨年七月のニクソン訪中決定の発表と今年二月の北京における中・米の首脳会談によって、労働者国家中国と世界最強の反革命的帝国主義アメリカ合衆国とのあいだに、アジアにおける新たな現状維持的平和共存体制の形成をめざした接近の突破口がつくられた。だが、この中国の南部側面たるインドシナ半島においてはベトナムを中心とするインドシナ三国人民がアメリカ帝国主義の直接的な反革命軍事干渉にたいして最後的な完全勝利をめざす激烈な武装抵抗闘争を現に展開している。他方中国の東部側面たる極東アジア地域においては、南北朝鮮のあいだで事実上相互の政府承認を意味する共同声明が発表され、日・中両政府はたがいに承認しあって全面的な国交関係をうちたてた。すなわち、ここ極東アジアにおいて、新たな現状維持的平和共存をめざす国際関係は、中.米関係に先行して、日・中両国家を軸として重大な基礎がすえられた。
そしてインドシナ半島を中心とする東南アジアの新植民地諸国は実に不安定な経済的・政治的諸条件のもとになりたっているのであって、ここにアジアにおける平和共存のための積極的な基礎をもとめることはできない」「以上のアジア情勢の総体において、現瞬間の中心環は、中・ソ両国家を不十分きわまりない政治軍事的背後地として自己の完全勝利をめざして激烈なたたかいを展開しているベトナム人民を中心とするインドシナ武装解放勢力と、中・ソ両政府の現状維持的対米平和共存政策を一方の決定的な政治的支柱として空海からする絶滅的反革命戦争を遂行するアメリカ帝国主義とのあいだの最後的軍事的対決にある。ベトナム人民を中心とするインドシナ武装解放闘争勢力のアメリカ帝国主義の絶滅的反革命戦争にたいする徹底抗戦と最後の完全勝利をめざす激烈きわまりない闘争が今日、依然としてアジアにおける政治情勢の主導的要国である」「ベトナム人民の完全勝利をめざす闘いは、中・ソ両政府の裏切り政策によって極度に困難な条件のなかで展開されており、われわれはベトナム人民のこの闘いに無条件に結集することによって、中・米、中・日の現状維持的平和共存路線にたいして闘いぬかなければならないしまた闘いぬくことができるのである」(世界革命紙第二八七号「アジア情勢の現局面とわれわれの任務」七二年一〇月二一日)。
七〇年代前半のアジア情勢の環は、インドシナにあった。ここで不屈の革命がアメリカ帝国主義と闘い、敗北させることができるかどうかに、全アジア情勢の鍵がかけられていた。
七三年パリ協定の成立とその後の革命の前進は、インドシナとそれをとりまく「反共諸国家」に、反帝・反軍事独裁の全人民的な高揚を津波のようにひろげた。タイのタノム独裁は倒れ、マレーシア、フィリピン、インドネシアに、反日・反独裁をさけぶ、学生を中心とした急進的な青年の大衆闘争がつくり出されていった。さらにこの東南アジア全域をおおう闘争の高揚は、極東の反共独裁の要である韓国に燃えうつり、朴の危機は急速に深まった。
こうしたアジア革命の広範な前進を呼び起しながら、ベトナム・インドシナ革命は今日の勝利の局面を迎えている。われわれが確認し、そのために闘ってきた七〇年代前半のアジア革命の決戦場であるベトナム・インドシナ革命勝利の任務は、まさに完遂されたのである。この勝利によって打撃を受けたのはアメリカ帝国主義だけではない。アメリカ帝国主義が戦略的に依拠しようとした二つの革命抑止力、一つは日本帝国主義のアジア経済支配であり、一つは中国官僚の平和共存路線であるこの二つの革命抑止力もへ重大な打撃を受けつつある。
アジア革命のつぎの環は何か
日本帝国主義は、そのアジア侵略の基本方向を見失ってあわてふためいている。中国官僚は金日成を招請して共同声明を発表し、朝鮮半島からのアメリカ帝国主義の撤退と、南朝鮮の解放闘争支持の「戦闘的」な宣言をあえて行った。
アジア革命の次の環がどこにあるのかを痛切に自覚している点では、アメリカ帝国主義者は現実的である。
五月二日、アメリカ国防省は、タイをふくめて全インドシナの社会主義化は避けがたく、その場合アメリカは、タイ防衛に固執はしないこと、また、マレーシア、インドネシアをふくめて、東南アジア諸国家はこの社会主義インドシナと同盟関係を結び、SEATOの崩壊は早晩不可避であろうと説明した。
この場合、アメリカ帝国主義の“前方防衛拠点”は、韓国と日本である、と彼らは正直に告白した。韓国に機動的な核軍事力を配備し、日本では精密兵器の修理・補給を行うという軍事的分担を行わせながら韓国―日本の政治的・経済的共同防衛体制をきずきあげ、ここに“ベトナム後”の反革命最前線をきずこうとするのである。こうした心要性から、以後韓国からの軍事力の撤退、援助等は行わず、逆に、韓国の軍事力を強化し、政治的安定をはかるために援助を増大させていくことを約束した。
また、アメリカ・フォード大統領が、その“困難”なインドシナ情勢についてのべる際には、必ずアジアにおける日本の役割についての自覚を、日本ブルジョアジーに喚起することを忘れない。これが、すでに定められているアメリカ帝国主義反革命の“第三陣型”なのである。彼らは、ジュネーブ協定以後の反革命第一陣型を、米軍兵力の直接投入として構築して、粉砕された。パリ協定とともに想定され、演出された第二陣型は、米中平和共存の大枠のなかに、タノム、ロン・ノル、チューをつなぐ防波堤としてきずかれたが、今日それらは革命の大波にのみこまれてあとかたもなくなった。
今、彼らがきずこうとしている“第三陣型”たる防衛線、米日韓反革命同盟は、アジアにおけるアメリカ帝国主義の最後の防衛拠点である。台湾は内心では放棄されている。米中共存の証としてだけ台湾の反共政権の存続は許されている。だがそれは、あくまで一時的である。フィリピン内部における人民の闘争は、現反共独裁政権が、アメリカ帝国主義とあまり深い友好関係を結べないだけの力をすでにもっている。そして、ベトナム・インドシナ革命の勝利は、やがて確実にフィリピンにも到達するであろう。
アメリカ帝国主義は、アジアの最後の防衛拠点を、韓国と日本に求めている。ここがつきくずされたとき、革命はただ太平洋だけをはさんで、まっすぐにアメリカと対峙するであろう。その、きわめて風通しのよい大海原は、革命の芳香を感受性の豊かなアメリカの人民の鼻孔に直接に送り込むだろう。反革命の防衛のためになにもかも使い果し、疲れ切ったアメリカ人民が、全世界を革命の側に奪われたあとでどの道を選ぶかははじめからわかりきったことであろう。今日まで、反革命のために動員されてきたアメリカ民主主義のエネルギー、独立戦争と、南北戦争、そして三〇年代の大不況期に発展した初期のAFL、CIOを通過してきているアメリカ民主主義が、今度は革命の方向をめざして流れはじめたとき、世界革命は最後の結論に導かれるのである。
だからアメリカ帝国主義は、あらゆる力を賭して日韓反革命同盟を支えることに狂奔しないではいられない。たとえ、朴の評判がどれほど悪くても、朴をまもり、ふたたびこの腐り切った権力に湯水の如くドルを注ぎこまなければならない。CIAとKCIAをますます一体化させ、“北の侵略”の脅威をあおり、挙国一致の虚構を是が非でもうちたてて、極東反革命前線であり、アジア大陸最後の拠点である韓国の防衛に走りまわらなければならない。ここにアメリカ帝国主義の、新しい至上命令がある。
こうした点でみると、ベトナム・インドシナ人民は朴に皮肉なプレゼントを進呈したと言えるかもしれない。民主主義派に悪い評判をとりかえして、アメリカ帝国主義の全力投入を取りつけようと、“人革党”事件をでっち上げ、夫人暗殺を演出し、ついには国民投票にかけてまであれこれと画策しても思うようにいかなかった事態が、ベトナム・インドシナ革命の勝利とともに転換しはじめているのだ。いまや反革命後見人たるアメリカ帝国主義は、親身になって朴の世話をやきはじめている。
だが、このプレゼントが皮肉なものである理由を知るには、この札つきの後見人に世話をやいてもらった人々が、つねにどういう運命をたどっていったかを見るだけでよい。“強い”味方をひき入れることが、やがてそれ以上に強い敵を得ることにつながっていくのだということを、いずれ朴は思い知らなければならない。
つぎはわれわれの番だ
ベトナム・インドシナ革命の勝利とともに、極東を反革命前線とする新しい時代がはじまる。われわれの立場で言いかえるならば、極東が革命の前線となることである。これは一つの客観的現実であり、議会ぼけして、増えたり減ったりする議席ばかりを見つづけたためにアジアも、ベトナムも、韓国も見えなくなってしまった社会党、共産党の諸君がどれほどお気に召さなくとも、今日からはじまっている現実なのである。
われわれが「アメリカはアジアから出ていけ!」をさけぶとすれば、その具体的意味は、ここから、この極東から出ていけということである。つまりわれわれは、アジア人民の全てから、これまでわれわれが語ってきたいろいろの言葉を、自分自身の問題として実行する種類の政治勢力であるかどうかを注目される立場に立たされる。ベトナム・インドシナ人民は、全世界の人民の注視するなかで、誰にも恥じることのない闘争をやりとげ、そのことによって全世界の人民に、いかに闘うべきかを教え、ひきつけた。今度はわれわれの番である。
極東(米日韓)反革命同盟を解体打倒せよ!
アメリカ帝国主義を、最後の反革命前線拠点、韓国―日本からたたき出せ!
日本帝国主義を打ち倒せ!
韓国朴独裁を打ち倒せ!
極東に社会主義を樹立せよ!
日―朝―中の社会主義的統一のために闘おう!
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