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第二章 民主連合政府の幻想

a 三つの虫の良さ
       ――民主連合政府はどうやってできるか――

 日本共産党が推す「民主連合政府」は、「七〇年代のおそくない時期」にできあがることになっている。昨年末の総選挙で共産党が躍進したことによって、この見通しは非常に現実的であることが証明されたとしている。
 この民主連合政府ができあがる道すじは、選挙にもとづき、国会の指名を得る方法によっている。つぎの参議院選挙で自民党が過半数を割り、さらにつぎの衆議院選挙で過半数を割れば、民主連合政府の必要な基盤の最初のものがととのうわけである。その場合に、もうひとつ必要になる条件は、自民党以外の野党四党が結束することである。共産党・社会党・公明党・民社党の四党が民主連合政府に賛成して、協力して連合政府を国会で指名すれば、できあがるのである。
 この四党のなかで一番あやふやで、自民党に協力的なのが民社党である。そこで日本共産党は、民社党をたたき、孤立させ、大衆の圧力で民社党を消滅させ、その支持者を共産党・社会党の側に獲得するか、それに恐れをなした民社党が自ら民主連合政府の方針を受けいれるかのどちらかを実現するために、民社党攻撃を批判の中心に置いている。公明党については、この党が労働者政党ではなく、ほっておいても労働者の支持が公明党に集まる基礎はないと考えるから、さほど強く批判する必要をみとめないし、さらに総選挙の敗北で打撃を受けたこの党が、民主連合政府の方向、つまり反自民の方向に歩み寄りつつあるところから、いまそれを挑発するような刺激的な批判活動は避けた方が良いと判断している。
 社会党の場合は、労働者に基盤をおく政党であるから、これを批判しても自民党に最終的に癒着してしまう危険はない。そのかわり労働者階級の主導権をどちらがとるかというライバルであるから、独自に批判活動をつよめなければならず、それによって、民主連合政府における共産党の指導力が確立されると考える。
 “トロツキスト暴力分子”の場合はどうか。「民主連合政府」はいきなり革命をやるのではなく、敵の抵抗をすこしずつ弱めながら民主主義革命の戸口にとりつくところまで進もうという“政府革新”の運動なのであるから、敵の警戒心を強め、民主的なブルジョアジーやプチ・ブルジョアジーとのあいだに分裂をつくり出すような危険な挑発は、極力排除しなければならない。したがって、“トロツキスト暴力分子”は、おそくとも民主連合政府が端緒につくまでに退治しておくべきであると、なみなみならぬ決意をかためている。
 このようなわけで共産党の統一戦線政策は、民主連合政府樹立のために、首尾一貫した目的意識性にもとづいている。きたるべき民主連合政府の時代に果すであろう各党の役割も、基本的にきまっている。この政府の一貫した推進力は共産党であり、他の諸党は、この政府の成立のときよりもはるかに弱く、小さくなって、民主主義革命の時代にたどりつくことになり、その頃には共産党が全大衆の多数を引きつれて平和な民主主義革命をやり通すことができるような「触媒」の役を果してくれるのである。
 たいへんに虫の良い話は、この統一戦線の問題だけにとどまらない。この民主連合政府ができあがる道すじは、ひたすら国民一人一人が投ずる「票」で敷きつめられているのであり、この「票」の「大道」を妨げる勢力は、どこからもあらわれて来ないことが、そもそも前提になっている。したがって長期の政権の独占をやめさせられ日本の政治支配から永遠に追放される自民党の抵抗が、ただ次の選挙でもう一度多数をとることにかぎられるであろうというような「見通し」のうえに成り立っているのが、この民主連合政府なのである。
 「しかし、自民党や独占資本は選挙で負けて、政府の座から追われたといっても、官僚機構の中枢や経済界の支配は、まだにぎっているし、選挙でまた政権をうばい返そうとするし、本当に国民が国の主人公になったとはいえません」(「赤旗」七三年三月二九日号、上田政策委員長)
 ところで、わが支配階級は、選挙の敗北をみすみす受け入れるよりは、暴力的な方法で、たとえば徹底的な弾圧や、場合によってはクーデターに訴えても、政権を守り通そうとはしないのであろうか? これは当然おこる疑問であるから、わが「マルクス主義者」上田政策委員長といえども、避けて通るわけにはいかない。そこで彼は自問自答をつぎのようにおこなう。
 「民主連合政府ができる前に、そのもり上った革新的な国民運動そのものをおしつぶそうとして、反動勢力がクーデターや、議会制度破壊、あるいは弾圧などの暴挙に出るということも、まったくありえないわけではありません。そういう敵の出方にたいしては憲法がさだめた民主的権利、さらには憲法そのものと代議制度まで破壊しようとするこうしたファッショ的暴挙を、民主主義を守る国民の世論と行動で包囲して孤立させ、失敗させることが必要だし、適切にたたかえば、大いにできると思います」(同右)
 証明しなければならないことを前提のなかに入れてカッコでくくってしまえば、人は、どんな命題でも勝手につくれるものである。どんな困難なたたかいであっても、たしかに「適切にたたかえば」大いにできるにちがいない。しかしかんじんのことは、どんなたたかいが「適切」であるのかを説明することではないだろうか。
 支配階級を「包囲し孤立させる」ことは、なにより必要であるにはちがいない。しかし、支配階級が暴力的方法に訴えるのは、彼らが「国民の民主的世論や行動」で包囲され、孤立しているからなのである。包囲され、孤立しているからこそ、この包囲を解き、孤立を支配力の強化に逆転させるために、クーデターや、強権的な弾圧の手段に訴えるのである。
 平和な大衆行動の段階で、けっして手をつけることができない警察権力や自衛隊を、無傷のままにもっている支配階級が、包囲と孤立の状況のなかで、それを使う誘惑にかられないというような虫の良い「見通し」がありうるだろうか。そういう状況のなかでの「適切なたたかい」とは、まさに敵のもっている手段、その強力な武器を、こちら側が手をつけ、とりこわし、奪いとるたたかい以外のものであるだろうか?
 このような「見通し」のもとで民主連合政府ができ上るとするならば、わが支配階級は、おそろしく善人の集団であって、自分の大事な財産を他人がよこせといったら、争わないでくれてやるような気前の良い人達であるということになる。わが政策委員長上田氏は彼の「適切なたたかい」が労働者階級の武装闘争ではないということを証明したければ、まずわが支配階級の社会的心理に関する「性善説」を証明してみせなければならない。
 つづいて第三番目の虫の良い話が登場する。
 民主連合政府は安保条約の廃棄を通告して、一年間じっと待つのである。共産党がいつ安保条約を認めたのかは知らないが、やめる方法はこの条約の手続きにしたがっておこなおうというのである。しかしそれは良いとしても、アメリカは、この廃棄通告をおそらく受け入れるであろう、というのであるから、まことに虫の良い見通しである。
 「なんの理由もないのに、自分がとりきめた条約を破ることは、アメリカが公然と国際的無法者であることをみずから立証する結果になるでしょう。廃棄通告拒否という暴挙は、そう簡単にはできません。現に一九六六年にフランスがNATOの軍事機構から離脱したときも、アメリカはこれを認めざるをえませんでした」。(同右)
 国民諸君、安心してくれ! 安保条約はアメリカが押しつけたのだから、これをやめるときも、安保条約にもとづいた手続きさえとれば、アメリカもいやとはいうまい!!
 もちろん「万が一」そうならない場合も「まったくないとはいえない」が、
 「民主連合政府の側としては、対等平等という原則を守ってアメリカをふくむすべての国ぐにと平和五原則にもとづく国交関係、外交関係をむすぶ政策をとりますから、アメリカが一時的に報復的なことをやったとしても、けっきょく失敗に終るでしょう。」(同右)
 このようにしてわが民主連合政府の構想は、すくなくとも三つの虫の良さのうえに成り立っていることが明らかになった。それは他の諸党にたいして「虫が良く」、支配階級にたいして「虫が良く」アメリカ帝国主義にたいして「虫が良い」。これらの「虫の良さ」を、ひとつひとつとってみればすこしはありそうな「虫の良さ」だとしても、三つも重なるとかなり深刻に「虫が良い」話になる。三分の一の可能性が三つとも起る確率は、二七分の一である! このような場合には、もはや非現実的な見通しであると断定しても良いのではないだろうか。しかもこの非現実的な見通しのもとで、わが日本共産党の当面の政策のすべてがなりたっているのである!

b 良心的ブルジョア政府
      ――民主連合政府は何をするか――

 そこでつぎは、この「虫の良い」つくられ方をした民主連合政府が何をするつもりなのかを聞いてみることにしよう。
 むろん読者諸君は、わが民主連合政府をとりまく恐るべき善人の集団である、日本独占資本主義の秩序と土台に、この政府が一指もふれないからといって驚きはしないであろう。
 われわれの前には、「いのちとくらしをまもり住みよい国土をつくる総合計画」という、日本共産党中央委員会のパンフレットがある。
 この「総合計画」の目的は、日本独占資本主義社会の構造を破壊することなく、その汚れきった肥大した手を肩の付け根からもぎとってしまうことなく、しかも日本人民のいのちとくらしをまもりぬこうということである。たしかにこういう計画であるならば、自民党と支配階級が政権を追われても、大資本が「サボタージュ」を組織する恐れがなく、反動的クーデターに訴える危険も少ない、というわけだ。
 具体的に見てみよう。
 「計画」は高度成長の分析からはじまる。日本資本主義の高度成長はなぜ悪いか。それが大企業優先であり、国民生活を犠牲にしておこなわれてきたからである。それが社会福祉や国民生活の改善を優先していないからである。
 それでは高度経済成長運動をくりかえして今日の巨大化・肥大化をなしとげた日本経済が、社会福祉や国民生活の改善を優先する方向に転換することは可能なのか。
 それは可能である、と「計画」はこたえる。
 「わが党は、日本経済(日本資本主義経済を指していることを忘れてはならない――引用者)のこうした新しい方向が国民の圧倒的多数の利益と要求に合致しており、また、だからこそこの方向がかならず実現できると確信しています」
 「いのちとくらしをまもり、住みよい国土をつくる総合計画の実行を二〇世紀の最後の四分の一世紀の、日本国民にとっての歴史的な事業としなければなりません(すなわち二一世紀まで、われわれはこのくさり切った資本主義経済とつき合いつづけなければならないのだ――引用者)。世界で第三位の地位に達した日本の経済の大きさ(わが共産党は、日本ブルジョアジーをなんと誇りにしていることだろう!――引用者)、国民の知恵と勤勉さ、民主的・民族的エネルギーの大きさからいって、この事業を実際に実現する可能性を、日本国民はもっています」
 だがもちろんこのような「根本的転換」にたいして、なんの抵抗もないなどとは「計画」も言わない。独占資本が抵抗するだろう。そこで「独占資本にたいする民主的規制(あくまでも民主的、すなわちマルクス主義の主張する『収奪者の収奪』ではなく、おだやかな、法律にもとづいた、納得づくの『規制』)」が必要となる。この「民主的規制」には、二つの方向がある、と「計画」は指摘している。
 その一つは、独占資本の悪事を「国民の監視のもとにおき、有効に取り締まれる民主的な制度をつくりだすこと」であり、もう一つは、「独占資本の設備投資や産業立地・事業活動」を「民主的な産業発展の計画、民主的な国土づくりの計画にしたがわせる」ということである。
 ところでこのような結構な「民主的な制度」や「民主的な計画」にたいして、私欲まる出しの独占資本ははたしてしたがうのであろうか? そしてもししたがわなかったならば、どうすれば良いのであろうか?
 わが「総合計画」は、はじめからこのような疑念を受けつけようとはしない。したがって「総合計画」は、独占資本の抵抗を粉砕する「計画」はもっていないのである。
 「いのちとくらしを守る」各論について見ても、まったく同じことが言える。
 「総合計画」は、物価を安定させ、大巾減税を押しすすめ、さらに「社会保障五ヵ年計画」を遂行する、と主張する。「はたらく国民の所得」を大巾に向上させることはいうまでもない。病気にかかっても安心して医者にかかれるし、職業病の懸念もなく健康に働けるし、教育施設はととのい、保育所は十分な数だけ設置され、スポーツの普及のために、公共スポーツ施設も大きく増設されることになっている。
 「住み良い国土づくり」の方はどうなるか。
 大企業の土地買占めはやめさせられる。土地利用は民主的に決められ、都市には緑がもどって、交通事故はなくなり、そしてまさに決定的に公害、災害もなくなるのだ!
 そうすれば「どこに住んでも住みよい国土」になり、田中政府の「列島改造計画」も粉砕されるのである。すべて民主的に、地域住民の「総意」で決められるから、開発の主体は「地方自治体」になり、大企業の横暴は許されなくなるであろう。
 ところでこのような、良いことづくめの「総合計画」を実現していくのには、金がかかる。その財源はどこから来るのか?
 「税制を民主化する」「国家財政を民主化する」「地方税制を民主化する」「地方財政を民主化する」このように民主化すれば、財源が出てくる、というわけだ。
 「民主化」とはなにか。大企業にもうすこし税金を出してもらうこと(たとえば、法人税率を七パーセント程度引き上げ、脱税をとりしまること、輸出関税を一〇パーセント程度かける等々)、支出を国民本位にすること(四次防をやめ、アメリカ軍事基地への経済協力をやめ、皇室費などを節減し、等々)である。このように収入と支出の重点を、ほんのすこし(この程度ならわが独占資本も決定的な反対を断念するだろう、と思われる程度)移動させることが「民主化」なのである。
 だから独占資本家の諸氏は、わが共産党の真意を理解すべきなのである。
 「われわれが『高度成長』を批判するのは、国民総生産の伸び率が高すぎるということの前に、まず『高度成長』の中身が問題だからです」。
 「われわれは、このような大企業の猛烈なテンポでの事業拡大を優先させる『高度成長』をやめなければならないといっているのです」。
 もし独占資本家の諸氏が、もつすこし国民の生活を考え、もうすこし「つり合いのとれた産業発展計画」を考え、もうすこしゆっくりしたテンポでやろうというのならば、その「高度成長」をあえて責めるわけではないのだ。諸氏がこの程度妥協してくれるならば、わが国では不平不満をなだめられたおだやかな国民の、ゆたかな社会ができ上るはずなのだ。諸氏のもうけを全部とり上げようなどと言っているのではない。諸君の所得税も、最高でたかだか四パーセント引き上げようというだけだ。
 つくられ方が「虫が良い」だけではなくて、やろうとすることもおおいに虫が良い。
 「いのちとくらしをまもり、住みよい国土をつくる総合計画」にしたがえば、日本国民のすべてがいま住んでいる耐えがたい生活苦や不便から、こんなにみごとに解放されるのである。そしてそのようなすばらしい生活をプレゼントしてくれるのは一体誰だったかと気がつけば、民主連合政府でありその導き手たる日本共産党なのである。かくてわが日本国民は、いまや日本共産党を、「国民的に、民族的に」信頼してあつまり、そのさし示す「社会主義革命に連続的に移行する民主主義革命」の道を歩むのである。
 こうして民主連合政府のなすべきことは終る。

 だが、残念ながらわれわれは、この「総合計画」が、はじめから終りまで根も葉もないウソ、なんの裏づけもない幻想に終ることをいまからはっきりと断言しなければならない。この「計画」は、絵に描いた餅である。ユートピアにしては貧弱で(あまりにも貧しいではないか、日本資本主義をその土台からくつがえして、すべての生産力を労働者・人民の手にうつしさえすれば、どれほど大胆な新しい文明をきずくことができるか、はかり知れないのだ)、この資本主義社会のなかで独占資本に金を出させておこなおうという「現実的」な政策としては、まるっきり絵空事にすぎない。
 なぜか?
 日本資本主義の高度成長が、大企業優先であった、というのは、いわばあたりまえなのである。それは日本労働者・人民の「高度成長」ではなく、大企業の「高度成長」だったのだから。大企業優先でない「高度成長」などというのは、ありえなかったのである。
 われわれは、「高度成長」の良い面と悪い面を区別するのではなく、それを真正面から否定するところから出発しなければならない。高度成長を通じて、日本社会のすみずみまでその手ににぎりしめている巨大独占企業にたいしてわれわれがいどむたたかいは、その分け前を労働者・人民にもうすこし多めに増やしてもらうことでは断じてない。彼らが手に入れたもののすべてを、奪い返さなければならないのだ。
 全部奪い返そうとすれば激しいたたかいが必要だが、すこし分け前をよこせということであれば、すなおにしたがうだろう、というような推測が成り立つだろうか。
 それは二つの理由で斥けられる。第一に、独占企業が利益を、すこし多めにはきだすなどということを期待することは、ベトナムやカンボジアに投げ落すアメリカ帝国主義の爆弾の量をもうちょっと少なくしてもらいたいと期待するのと同じように、正当でもないし現実的でもない。彼らがすこし譲歩することが、やがては歴史の舞台から完全に退場することにつながることを知っている以上(事実共産党自身がそのように主張している)、最初の一口を吐き出すまいとして、まるで全部吐き出させられる場合のような抵抗を彼らはこころみるであろう。
 二つめの理由は、このことから導き出される。そのような死にものぐるいの抵抗を覚悟する独占資本とその権力とたたかうことは、労働者・人民自身にとっても必死のたたかいを意味する。それは右翼私兵・警察・自衛隊との街頭における激突を意味し、企業においても職制・経営者との「首」をかけた闘争にならざるを得ない。
 しかし誰が、独占資本をほんのすこしだけ譲歩させるために、全生活をかけてたたかうだろうか。ただの一口だけ吐き出してもらうために、だれか今日の生活を投げ出しても独占資本の喉首にかみつこうと決意するだろうか?
 つまりこの「計画」の主観的願望は、敵を甘く見るだけではなくて、味方を、労働者・人民のたたかうエネルギーと意識を安く見積もっているのである。
 だからそれは、絵に描いた餅におわるのである。

c 「民主的幻想」を粉砕せよ
       ――民主連合政府とわれわれの立場――

 だがこの「虫の良い」民主連合政府は、なんのための政府なのであろうか。
 共産党は、その綱領に革命をかかげる党である。革命をかかげる党が、革命にたどりつくため以外の目的で政権構想を語るはずがない。すくなくとも主観的には、この民主連合政府は「社会主義革命へと連続的に発展する民主主義革命」の第一段階を構成する政府として提起されているのである。まずこの民主連合政府を通じて、共産党が国民の大多数の信頼を獲得し、ブルジョアジーの権力を弱め、民主主義革命の前提条件をつくり出すことが意図されているのである。しかしそれならば民主連合政府は、革命ではないが革命の前提条件をつくり出すことができるような「革新」を、どのような基準のもとで遂行するのであろうか?
 一言でいえば「日本国憲法」である。民主連合政府は、「憲法完全実施」の政府なのである。
 「憲法」にもとづいて自衛隊を解散し、「憲法」にもとづいて国民の「いのちとくらし」を守り、「憲法」の理念にしたがって中立外交をおこなう。独占資本の国有化とか、天皇制の廃止とか、警察機構の解体とかは、「憲法」に定められてはいないことであるから、次の民主主義革命の時期まで引きのばされるのである。すなわち、民主連合政府とは、およそ考えられるもっとも平和で良心的なブルジョア政府なのである。
 史上もっとも良心的なブルジョア政府、労働者人民が熱烈に支持し、その支持の超階級的な熱烈さのあまり、帝国主義ブルジョアジーといえども弾圧をためらい、その基準のブルジョア的厳密さ――資本の私有財産には手をつけないという――のゆえに、大独占といえども死にものぐるいの抵抗を決意するほどには追いつめられないような政府、このような「八方美人」政府を、わが共産党はうちたてようというのである。
 いっさいの「虫の良さ」がここから発することは明白である。われわれが直面している階級的利害のはげしい激突の時代にまったくふさわしくないこのように万事まるくおさまる解決策が非現実的であることを、われわれは言葉をつくして証明しなければならないであろうか。ベトナムの人民が払わなければならなかった犠牲を強要した時代の性格が、こと「東西の谷間」日本にかんするかぎりは頭上を通りすぎる一過性の突風にすぎないと考えることをわれわれは許されるのであろうか。われわれが真剣にこの社会の根本的変革をくわだてるのであれば、その公然たるはじまりから、ベトナム人民のたたかいを模範とすることが、今日の世界情勢そのものから要求されるであろうという真理にたいしてこれほどまでに盲目でいられるものであろうか。
 われわれは絶対にこの幻想、良心的ブルジョア政府を、ブルジョアにかわってプロレタリアートがしかも平和裡にうちたてようという幻想にくみしない。
 このような幻想を提起することによって、ブルジョア的日本の今日の袋小路をおおいかくし、ただ社会主義的解決が、したがって暴力的対決を通過してのみ達成される解決だけが現実的であることをあいまいにし、さらに、危機にむかってどうしようもなく押し流される日本帝国主義ブルジョアジーの前途とその狂暴な本質をおおいかくすような行為は、単に非現実的であるだけではなく、明白に犯罪的であるとわれわれは主張し、弾劾する。このような重大な「虫の良さ」は、ただブルジョア支配階級にとってだけ利益をもたらすのである。

 民主連合政府とは何か。
 一言でいえばそれは、体制を変えないにしてはあまりにも多すぎる約束をし、体制を変えるにしてはあまりにも少ない約束をすることである。そして約束以上のことはなにもできないのだ。
 われわれがつくろうとする政府はこのようなものではない。
 それは日本社会主義革命の開始として、独占資本主義と帝国主義の全体に、はっきりとした挑戦状をつきつける労働者・人民の権力である。
 それは生産手段の私有そのものに手をつけ、その管理をブルジョアジーの手からうばう。
 それは議会を通してつくられるのではなく、工場と街頭のたたかい(むろん、その効果的な一部に議会における暴露がある)のなかから生まれる、労働者・人民の直接民主主義(共産党がほれ込んでいる「代議制民主主義」とは根本的にちがう)の機関がつくり出す。
 それは帝国主義国家権力と独占資本の激しい抵抗を予想し、自衛隊を解体して労働者・人民の武装自衛と、叛乱する兵士を組織し、日本労・農赤軍を建設する。
 それは公然とアメリカ帝国主義を糾弾し、アジア人民と連帯し、一切の条約を即時破棄して、国際プロレタリアートの支援に頼る。
 日本共産党の諸君は、これを非現実的であると笑うであろう。
 だが、現実的なものが何かということは、誰かがあらかじめ机の上で決めてくれることではない。たたかいの発展、情勢の深化が決めるのである。ロシア・ボルシェヴィキの権力奪取の三日前に、そしてその後約三年間にもわたって、ヨーロッパ・ブルジョアジーと社会民主主義者は、ボルシェヴィキがロシアの権力をとり、それをほんの数日間でももちこたえられるなどという「夢想」が、ほんの少しでも現実性をもつているとは想像もして見なかった。
 諸君は今日の現実を明日に引きのばし、さらにそれを数十年の長さに延長する。そのようにして諸君は、労働者・人民の深部に息づく革命的エネルギーの巨大さにたいして目をつむりつづける。
 だがわれわれは、明日、明後日の、たたかいとるべき「現実」をかかげて今日なすべきことを決める。そしてこのようなたたかい方だけが、革命的マルクス主義者の用語における「現実性」なのである。
 われわれは「民主連合政府」の展望が、極端な幻想のうえに立脚していることを見てきた。この展望は、政府の問題、権力の問題を危機の展望ときりはなして立てるところに特徴をもっている。社会的危機のなかでのさまざまな階級の動向は、安定期におけるそれらの動向とは、根本的に異なったものであることを知らなければならない。安定期において慣らされてしまっている人民の思考方法や感性を土台にして、権力獲得の方法を考えるものは、平地を歩く装備だけを用意して冬山にのぼろうとするようなものである。彼は気候の激変についていくことができず、道を踏み迷って孤立し、雪崩に押し流されるであろう。
 民主連合政府の構想こそ、このような愚の典型である。そこには危機の展望がない。それは、アジア革命のはげしい前進と帝国主義の激突、日本独占資本の高度成長の破局と人民の経済生活に押しつけられる耐え難い困窮、都市機能のマヒと人民の直接的な抵抗の激化、警察権力と結託した右翼、ファシストの私兵による公然たる襲撃、大衆行動にたいする自衛隊の出動とアメリカ軍隊の軍事的どうかつ、そしてそれらをはねかえして前進するであろう日本労働者・人民の反帝国主義・反ブルジョア国家の権力闘争の時代、このような危機の時代のなかではじめて位置と力を得る政権構想ではないのである。
 共産党それ自体が、冬山の愚かな遭難のうき目に会うのは、なんら同情するに値しない。彼らはその五〇年の一貫した「裏切りの歴史」を引きずって墓場に行けば良い。だが、われわれが問題にしなければならないのは、この党に幻想をいだき、この党に「力」を感じていま身を寄せつつある数百万の労働者大衆である。情勢は未だ全面的な危機の到来ではなく、そのきざしを示しているにすぎないが、しかしその最初の反応が、共産党への幻想として表現されていることのなかには、危機にむかう確実な徴候と同時に、わが革命的左翼の未成熟の問題が、立ち遅れがつき出されてもいるのだ。歴史は何回もやり直すことができない。
 すでにわれわれは、わがイデオロギー闘争と組織活動の主たる「競争相手」に、共産党をこそ設定しなければならないということを確認して来た。同盟第六回大会はこの課題を、戦略的な環として承認した。
 一つ一つ系統的に、われわれは「共産党批判」のたたかいをはじめなければならない。この分野で相手をみくびり、相手の力を過少評価するならば、われわれは間もなく手痛い罰を受けることになるのである。
 共産党は、危機を回避しようとする党である。われわれは危機のなかでこそ成長し、人民を獲得する党派である。それゆえ共産党にとってわれわれは、絶対に容認しえない存在である。共産党が危機を回避しようとする努力、そのまさに社会民主主義的な努力は、危機の最初の局面においては、危機を歓迎し、それを拡大し、権力獲得のチャンスを人民の手に確実に握りしめようとするわれわれのような存在――“トロツキスト・暴力分子”を大衆の中から追放し、組織的に壊滅させようとする努力となってあらわれるであろう。われわれは、共産党のこのような攻撃をはね返す組織的な力と大衆的支持を、いまから、しっかりと積み上げていかなければならない。
 このたたかいは、非妥協的である。そこでは、すでに五〇年の歴史をもつトロツキストとスターリニストの凄絶で原則的な党派闘争が、くり返されるのである。宮本顕治の、気持がわるくなるような笑いをうかべた蛇のように残忍な官僚の目を見つめてみることは、はなはだ教訓的であろう。それは彼らの統制や思惑をこえて、事態を革命と反革命の激突に導びこうとする“はね上り分子”に向けられている。
 共産党のイデオロギーと政策の体妥を根本的に批判する最初として、われわれはその民主連合政府の輪郭を大筋においてとり上げた。さらにわれわれは、一歩も二歩も踏みこんでこの批判の武器をきたえなければならず、そして「批判の武器」を「武器の批判」へ、すなわち、大衆運動における統一戦線戦術の駆使による組織的批判と解体、獲得のたたかいに代えなければならない。きたるべき危機がいやおうなしに、われわれ――第四インターナショナルと日本共産党の対決を、現代革命の前衛的役割をめぐる伝統的対決、トロツキズムとスターリニズムの対決の日本における展開として押し出すことは必然である。


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